アッサラーム夜想曲
山岳戦闘民族撃退戦 - 1 -
ヤシュム・マルジャーン――中央広域戦陸路大将
中央広域戦――史上最大の東西戦争では、聖戦を共にしたムーン・シャイターン、アーヒムと共に、中央激戦区の前線に立つ。
スクワド砂漠を越えて通門拠点を抜けた後、およそ二十三万の軍勢と共に山岳湿地帯に突入。
ヤシュムらは不慣れな湿地帯で進軍困難を極め、また山岳戦闘民族の奇襲に苦しんでいた――。
通門拠点を抜けると、深い茂みの湿地帯に変わる。
乾いた気候に慣れたアッサラームの兵達は、じめついた湿地の空気にすっかり参っていた。
また、この辺りの地形に詳しい山岳民族に、昼夜を置かず野営地や休憩しているところを奇襲されて、アッサラーム軍は満足に休息を取れずにいた。
「忌々しい蛮族め……姿を見せて襲ってくればいいものを。茂みに隠れて投擲 ばかり、煩い蠅のようだ」
ヤシュムはぼやかずにはいられなかった。
たった今も、お気に入りの第一歩兵隊を襲われたばかりで、周囲の歩哨 を余儀なくされている。
「こうも足止めされては、中腹に辿りつく頃には、何もかも終わっているのではないか?」
轡 を並べるアーヒムもうんざりした口調で同意を示す。
サルビアと一戦交える前に、ここに陣を張って蛮族の掃討に転じてもいいくらいだ。
見えぬ敵から執拗に嫌がらせを受けて、進軍の足は鈍り、ヤシュムに限らず全将兵は苛立ちを募らせていた。
そんな中、進軍経路について弁を交わすヤシュムらの元に、伝令がまたしても蛮族の奇襲の知らせを持ってきた。
「おのれ、卑怯な真似ばかり!」
「逃がすな!」
「捕えろっ!」
騒がしい兵らの声に外へ出てみると、挑発された兵達は、無思慮に飛び出して行くところであった。これは罠だと、ヤシュムは直感した。
「馬鹿者! 止まれ!」
「行くな!」
ヤシュムとほぼ同時にアーヒムが叫ぶ。
しかし静止の声は兵達の怒号にかき消され、役目を果たさなかった。
「先頭を止めるしかない」
ムーン・シャイターンは騎乗するなり、猛る味方の先頭に向かって走った。
脅かすように、大きくトゥーリオを嘶 かせたことで、ようやく兵の流出は止まったが、既に数千の兵が流れた後のことだった。
時を置いて少数の精鋭と共に、彼等の後を追いかけてみれば、案の定、無残な死地と化していた。
深い水溜りの穴だらけの、致命的な湿地帯に誘い込まれたのだ……。
進退を阻まれたアッサラームの兵達は、皆殺しにされていた。夕闇に映える悲しくも美しい青い燐光が、彼等の身体から立ち昇る。
何と惨 い。これでは無駄死にだ。後方に控える同胞には、とても見せられない……。
しかし沈黙したところで、ヤシュム達だけが戻ってきたことで、残された味方は全てを察してしまった。
その後は幸いにして奇襲はなかったものの、兵達の顔は一様に暗かった。
「この先、山岳民族を無視して、進軍はとても無理でしょう」
軍議でムーン・シャイターンが口を開くと、ヤシュムもすぐに賛同した。
「おびき出しましょう。畜牛を残したまま、この野営地を明け渡すのはいかがです? 連中が夢中で口にしているところを後ろから叩くのです」
血気盛んな蛮族なら、肥えた牛に飛びつくに違いない。我ながらうまい作戦と思えたが、アーヒムは懸念を示した。
「血肉を与えて、余力を増したらどうする」
「なんの。この湿地ではまともに焚火も起こせまい。生肉を満腹食らえば、消化に時間を要する。動きはさぞ鈍るだろう」
「いいかもしれませんね」
「ムーン・シャイターンまで……」
「今日は大敗を喫しました。怖気づいたように背中を見せても、相手は疑わないでしょう。野営地に蓄えを残したまま逃げれば、必ずここで足踏みしてくれる」
総大将は明晰な口調で語る。
「では、伏兵を隠しておきますか」
「蛮族の全貌も把握出来ていないのに、いささか早計ではありませんか?」
周到なアーヒムは思慮深げに眉根を寄せ、水を差す。
「アーヒムの心配も分かります。敵の兵力を分散させて二点から攻めましょう。明日、私とヤシュムは戦意を失くした風を装い、川を越えた場所まで下がります。退却と見せかけ、密かに此岸 で待ち伏せましょう。相手が追いかけてきたら、彼等の半数以上が渡河し終え、一番混雑しているところを攻撃します」
「ふむ。半渡に乗ずるわけですな……」
今度はアーヒムも乗り気を見せる。
「いい策ではありませんか。進軍を戻すことにはなりますが、蛮族は脅威だ。今のうちに叩いておかなければ、いずれ致命的な被害が出る」
ヤシュムは劈頭 からして乗り気だ。
「明日、アーヒムは精鋭と共に野営地で潜伏していてください。こちらが戦闘を始める際は狼煙 を上げます。一斉に攻撃に転じてください」
「御意」
話はまとまった。
夜間における各哨所 の巡視にムーン・シャイターンが出掛けた後も、ヤシュムは暫しアーヒムと酒を酌み交わした。
「深酒は禁物だぞ……」
アーヒムの忠告は尤もだが、呑まずにはやっていられない。満足に弔いもできず、散って行った同胞を思うと無念で仕方なかった。
「分かっている。だが、やりきれないのだ……」
「あまり責めるな、ヤシュム。明日を勝利で飾り、同胞への手向けとしよう」
「同胞は皆あっけなく散ってゆく……躯 を残す蛮族を、少し羨ましく思わぬか」
「そう感傷的になるな。敵に屍を晒 すなど、俺はご免だ」
「お前は、俺より先に死んでくれるなよ」
アーヒムは豪快に笑い飛ばした。確かに、少しばかり感傷的になっているようだ。首を捻ると、余計なことは口にせず大人しく酒を煽る。
――二度は許さぬ。必ず報復してやる。
ヤシュムは心に深く誓った。
中央広域戦――史上最大の東西戦争では、聖戦を共にしたムーン・シャイターン、アーヒムと共に、中央激戦区の前線に立つ。
スクワド砂漠を越えて通門拠点を抜けた後、およそ二十三万の軍勢と共に山岳湿地帯に突入。
ヤシュムらは不慣れな湿地帯で進軍困難を極め、また山岳戦闘民族の奇襲に苦しんでいた――。
通門拠点を抜けると、深い茂みの湿地帯に変わる。
乾いた気候に慣れたアッサラームの兵達は、じめついた湿地の空気にすっかり参っていた。
また、この辺りの地形に詳しい山岳民族に、昼夜を置かず野営地や休憩しているところを奇襲されて、アッサラーム軍は満足に休息を取れずにいた。
「忌々しい蛮族め……姿を見せて襲ってくればいいものを。茂みに隠れて
ヤシュムはぼやかずにはいられなかった。
たった今も、お気に入りの第一歩兵隊を襲われたばかりで、周囲の
「こうも足止めされては、中腹に辿りつく頃には、何もかも終わっているのではないか?」
サルビアと一戦交える前に、ここに陣を張って蛮族の掃討に転じてもいいくらいだ。
見えぬ敵から執拗に嫌がらせを受けて、進軍の足は鈍り、ヤシュムに限らず全将兵は苛立ちを募らせていた。
そんな中、進軍経路について弁を交わすヤシュムらの元に、伝令がまたしても蛮族の奇襲の知らせを持ってきた。
「おのれ、卑怯な真似ばかり!」
「逃がすな!」
「捕えろっ!」
騒がしい兵らの声に外へ出てみると、挑発された兵達は、無思慮に飛び出して行くところであった。これは罠だと、ヤシュムは直感した。
「馬鹿者! 止まれ!」
「行くな!」
ヤシュムとほぼ同時にアーヒムが叫ぶ。
しかし静止の声は兵達の怒号にかき消され、役目を果たさなかった。
「先頭を止めるしかない」
ムーン・シャイターンは騎乗するなり、猛る味方の先頭に向かって走った。
脅かすように、大きくトゥーリオを
時を置いて少数の精鋭と共に、彼等の後を追いかけてみれば、案の定、無残な死地と化していた。
深い水溜りの穴だらけの、致命的な湿地帯に誘い込まれたのだ……。
進退を阻まれたアッサラームの兵達は、皆殺しにされていた。夕闇に映える悲しくも美しい青い燐光が、彼等の身体から立ち昇る。
何と
しかし沈黙したところで、ヤシュム達だけが戻ってきたことで、残された味方は全てを察してしまった。
その後は幸いにして奇襲はなかったものの、兵達の顔は一様に暗かった。
「この先、山岳民族を無視して、進軍はとても無理でしょう」
軍議でムーン・シャイターンが口を開くと、ヤシュムもすぐに賛同した。
「おびき出しましょう。畜牛を残したまま、この野営地を明け渡すのはいかがです? 連中が夢中で口にしているところを後ろから叩くのです」
血気盛んな蛮族なら、肥えた牛に飛びつくに違いない。我ながらうまい作戦と思えたが、アーヒムは懸念を示した。
「血肉を与えて、余力を増したらどうする」
「なんの。この湿地ではまともに焚火も起こせまい。生肉を満腹食らえば、消化に時間を要する。動きはさぞ鈍るだろう」
「いいかもしれませんね」
「ムーン・シャイターンまで……」
「今日は大敗を喫しました。怖気づいたように背中を見せても、相手は疑わないでしょう。野営地に蓄えを残したまま逃げれば、必ずここで足踏みしてくれる」
総大将は明晰な口調で語る。
「では、伏兵を隠しておきますか」
「蛮族の全貌も把握出来ていないのに、いささか早計ではありませんか?」
周到なアーヒムは思慮深げに眉根を寄せ、水を差す。
「アーヒムの心配も分かります。敵の兵力を分散させて二点から攻めましょう。明日、私とヤシュムは戦意を失くした風を装い、川を越えた場所まで下がります。退却と見せかけ、密かに
「ふむ。半渡に乗ずるわけですな……」
今度はアーヒムも乗り気を見せる。
「いい策ではありませんか。進軍を戻すことにはなりますが、蛮族は脅威だ。今のうちに叩いておかなければ、いずれ致命的な被害が出る」
ヤシュムは
「明日、アーヒムは精鋭と共に野営地で潜伏していてください。こちらが戦闘を始める際は
「御意」
話はまとまった。
夜間における
「深酒は禁物だぞ……」
アーヒムの忠告は尤もだが、呑まずにはやっていられない。満足に弔いもできず、散って行った同胞を思うと無念で仕方なかった。
「分かっている。だが、やりきれないのだ……」
「あまり責めるな、ヤシュム。明日を勝利で飾り、同胞への手向けとしよう」
「同胞は皆あっけなく散ってゆく……
「そう感傷的になるな。敵に屍を
「お前は、俺より先に死んでくれるなよ」
アーヒムは豪快に笑い飛ばした。確かに、少しばかり感傷的になっているようだ。首を捻ると、余計なことは口にせず大人しく酒を煽る。
――二度は許さぬ。必ず報復してやる。
ヤシュムは心に深く誓った。