アッサラーム夜想曲

第4部:天球儀の指輪 - 40 -

 中央広域戦――史上最大の東西戦争に向けて、光希達は国門とも呼ばれる、通門拠点に向けてアッサラームを発った。
 光希はジュリと共に飛竜でスクワド砂漠を越えた後、用意されていた二輪装甲車に乗り込み、更に東へと進んだ。
 周囲を二百の精鋭が守り、その前後左右を数千にも及ぶ選り抜きの騎馬隊が警備にあたっている。
 戦地が近付くにつれて、行軍は重々しくなっていった。
 気候も変わる。
 アッサラームのからりとした暑さから、次第にじっとり湿気を含んだ暑さに変化した。
 青空は深い茂みに覆われ、岩だらけの急峻きゅうしゅんな山容では、馬車での登攀とうはんに苦労し、時に光希も徒歩で進んだ。
 辿り着いた通門拠点は、断崖絶壁の障害地形に建てられた巨大な石の要塞で、アッサラームの巨大建造物に見慣れたはずの光希ですら、言葉を忘れるほどに圧倒された。

「すごい……っ!」

 アッサラームの大神殿よりも遥かに大きい。五万もの兵を収容できると言われるのも納得の大きさだ。
 仰ぎ見る尖塔の高さに、ぞくりと背筋が冷えた。石の巨人が立ちはだかっているようだ。

「すごい……何て大きいんだろう……」

「アッサラームの国門ですから。いかなる梯子も届かないほど、天高く築き上げられました」

「すごいね……」

 同じ言葉しか出てこない。首が痛くなるほど仰ぎ見ていると、ジュリに肩を抱きしめられた。

「この砦にいれば安全です」

 安心させるように笑みかける青い瞳を見返して、光希もしっかりと頷く。
 拠点に着くと、光希は与えられた私室に案内されたが、ジュリは慌ただしく行軍準備の為に部屋を出て行った。

「殿下、お疲れでしょう。少しお休みください……」

 気の利くナフィーサは、冷たい飲み物を持って現れた。ちょうど喉が渇いていたところだ。

「ありがとう。ナフィーサこそ疲れていない? アッサラームとは空気が違うよね」

「薄手の服を取り揃えておきました。アッサラームと違って、夜半もあまり温度が下がらないようですから」

 室内にいても少し肌がべたつく。日陰にいれば涼しいアッサラームとは大分勝手が違う。旅塵りょじんや汗を流し、部屋に戻るとジュリがいた。

「お帰り」

 ジュリは見慣れぬ恰好の光希を見下ろすと「可愛い」と褒める。光希は今、ゆったりした造りの羅紗らしゃの上下を腰帯で留めただけの軽装である。
 薄手の外衣を羽織ると、ジュリと共に要塞の歩哨ほしょうに出て、鋸壁(きょへき)から空を仰いだ。
 天には数多の星が瞬き、青い星は清らかな光りで国門を銀班ぎんはんに染めている。
 美しい夜空はアッサラームと同じ。
 しかし眼下に見下ろす黒々とした樹林や、合間に覗く厳しい岩肌は、夜でも蛍のように無数の灯りのともる聖都とは様子が違う。
 生温い風を頬に感じていると、不意に背中からジュリに抱きしめられた。

「空気が違うよね。慣れるのに、少し時間がかかりそう……」

「アッサラームで待っていてもいいんですよ?」

「ここで待ってる。帰る時は一緒だよ」

 すぐに返事がないので、振り向くと青い双眸と眼が合った。

「もちろんです。一緒に帰りましょうね」

「――焦った。すぐに返事してよ」

「ふふ」

「ジュリ……本当に危ない時は、絶対に無理しないで」

「はい」

「僕は、ジュリが無事ならそれでいい……」

 見つめ合ったまま、自分からジュリの襟を掴んで引き寄せ、重ねるだけのキスをした。

「絶対に守って」

「はい」

 光希だけを映して、美しい青い瞳を嬉しそうに和ませる。綺麗な顔を寄せると、今度はジュリの方からキスをした。
 瞼を閉じれば、美しいアッサラームの景色が鮮明に思い浮かぶ。

 あの場所に、必ず二人で帰るのだ――。



 数日後。
 鬱蒼とした緑を覆う、茫漠ぼうばく茫漠ぼうばくたる蒼天。
 湿地帯に吹く風は、青い双竜の軍旗をなびかせる。
 要塞の中庭には、拠点を発つアッサラーム兵が整然と並んでいた。
 彼等の先頭に立つのは、ヤシュム、アーヒム、そしてジュリ――万もの兵を指揮する大将達だ。
 更に拠点に入りきらない二十万もの軍勢が、外で隊伍たいごを為して出発を待っている。
 これだけの大軍が、サルビア軍と戦う為に移動するのだ。
 戦争が始まるのだと実感せずには――戦慄せずにはいられない。

「シャイターン、アッサラーム勝利の予言成就が、一日も早いことをお祈り申し上げます」

 光希は、中庭の全将兵から見える高台に立ち、天を仰いで祈りを捧げた。
 これから中央陸路に向けて出兵する、アッサラーム軍の心が少しでも晴れるように……。
 まるで聴きれられたかのように、一際爽やかな風が中庭に流れた。
 その場にいた全員――アーヒムや、ヤシュム、ルーンナイトまでもが、光希の言葉を受け入れて膝を折る。

「全軍、前進!」

 ジュリの号令がかかり、勇壮な騎馬隊は巨大な石門を出てゆく。
 思わず要塞の縁に走り、遠ざかるジュリの背中を見つめた。胸にこみ上げる想いを噛みしめながら、強く願う。
 どうか無事に帰ってきて……!
 心の声が届いたかのように、ジュリは騎乗したまま振り返り、光希を仰ぎ見た。身を乗り出して力の限り叫ぶ。

「武運を祈ってる……! 絶対、必ず、戻ってきて――っ!」

 ジュリは力強く拳を上げて応えてくれた。

「アッサラームを守るぞ!」

「「「オォ――ッ!!」」」

 隊伍を為す全員が、天に向かって咆哮を上げる。
 勝利を約束するかのように、陰った雲間から陽光が射した。天から伸びる斜光は、進軍の路をどこまでも明るく照らしているのだった――。