アッサラーム夜想曲

空想の恋 - 9 -

 黄金こがね色の黄昏。
 大神殿の書斎に座っていると、手元の書物に影が映りこんだ。
 窓辺に風が流れて、夜に咲くジャスミンが薫る。
 羊皮紙に書き留められた昔の記憶を読み返していたサリヴァンは、照明を灯して筆を執った。記すのは、日々欠かさぬ手記である。
 いつの日かまた、次なる“宝石持ち”が現れる。
 その者が、花嫁とめぐり逢えるとは限らない。横たわる運命に茫然自失し、愁嘆しゅうたんに暮れるかもしれぬ。
 その時、その者を導く灯の一つになれるように、この生涯を記しておく。
 星に導かれて歩んだ道のりを書にしるすこと。思索の編集は、サリヴァンにしかできない畢生ひっせいの仕事である。
「サリヴァン様」
 控えめに扉を叩く音に、サリヴァンは顔をあげた。
「どうぞ」
「殿下がお見えになりました」
 扉を開いたのは、かつて聖歌隊で高音域の独唱を務めた少年――エステル・ブレンティコアだ。
 声変りを迎えた少年は、伸ばしていた髪も短く切り揃え、凛々しいアッサラームの獅子に成長した。
 現在は、八番目の息子のユニヴァースと同じ第一騎馬隊に所属している。軍舎で共同生活を送りながら、勤めが休みの日には、こうして大神殿の書物の殿堂にも足を運ぶ勤勉な信徒である。
「お通ししてください」
 筆を置いて席を立つと、間もなくエステルはシャイターンの花嫁ロザインを連れて戻ってきた。出会った頃から殆ど変らぬ背丈の、あどけない顔立ちの青年はサリヴァンを仰ぎ見た。
「こんにちは、サリヴァン」
 柔和な笑みの影に、精神的な疲労が隠れて見えた。ふっくらとした頬に黒く濃いまみえ。澄んだ黒い瞳に、今日は心配事が浮かんでいる。
「こんにちは、殿下」
「お邪魔してすみません」
「いえいえ、構いませんよ。どうぞお寛ぎください」
 窓辺の絨毯を勧めると、彼は礼を口にして腰を落ち着けた。サリヴァンも対面に座す。
 腕を組んで煩悶はんもんする姿に、サリヴァンは皺の刻まれた顔に苦笑を浮かべた。
「お疲れですなぁ……」
「僕では、ジュリを説得できそうになくて……ご相談にあがりました」
「あのご様子では、私が申しあげても聞かぬでしょう」
「ううーん……無視できたら僕も楽なんですが、シャイターンは何度も呼びかけるんです。実は、さっきも中庭で金色の蛇を見て……」
「ふむ……」
「サンベリア様の時と同じで、嫌な予感がするんです」
 と、深刻そうに呟いた彼は、重いため息をついた。
 あの時のことはサリヴァンもよく覚えている。典礼儀式で啓示を受けた御使いは、暗殺の危機からアースレイヤの東妃ユスランを救ったのだ。
「啓示に変わりはありませんか?」
 サリヴァンが訊ねると、夜のように黒い瞳は神秘的に煌めいた。
「ありました。今日は例のすすけた建物の奥で、倒れている男性を見ました。彼がきっと、捕えられているリャンなんだと思います」
「顔はご覧になりましたか?」
「いえ、うつ伏せに倒れていたのではっきりとは……手足を鎖に繋がれていました」
 呻くように呟く光希を見て、サリヴァンは彼に同情を寄せた。
 ドラクヴァ公爵暗殺疑惑のかけられているゴダール家のリャンは、ドラクヴァ家に拘束されている。その様子を覗いたのなら、惨い光景であったかもしれない。
「神はなぜ、彼の様子を視せたのでしょうな」
 光希は閃きの光を瞳に灯してサリヴァンを見た。
「薄暗い部屋のなかで、彼の額のあたりだけ、青く輝いていました。もしかしたら、彼の系譜は“宝石持ち”に関係しているのではないでしょうか?」
 誰かの耳に入ることを恐れるように、彼は声を落として囁いた。
「ははぁ、なるほど……」
 サリヴァンは頷きながら顎を手で撫で擦った。
 シャイターンの系譜は、明るみにしてはいけない。みだりに口にしてもいけない。利益追求が生まれぬよう、世俗と限りなく無縁でなければならないのだ。
 只人の手に託せぬ事態を、神は御使いに託したのだろうか?
 東西の決勝は、神の領域だ。
 善きも悪しきも記される天の書といえど、神同士が関わった戦いの先は不確かで、高次元の存在であっても見透せないのかもしれない。
 与えられる断片的な情報は、定まらない未来の欠片か。
 見捨ておけず、リャンの子孫に“宝石持ち”が生まれる可能性の芽を、神は守れとおっしゃっているのだとしたら……
「ふぅむ……手段を問わないのであれば、シャイターンを説き伏せる方法がないわけではありませんぞ」
「方法?」
「現世の神剣闘士アンカラクスに並ぶ権威が、たった一つあります」
 この国の頂点、皇帝の勅命であれば、シャイターンの依代よりしろであっても無視はできない。
 いわんとすることを察し、黒髪の青年は苦々しい表情で沈黙した。恐らく、彼も考えなかったわけではなかろう。
「……権力で説き伏せるのは」
「無理にとは申しませぬ」
 気まずそうに沈黙する姿を見て、サリヴァンは苦笑で応えた。さらにこう続ける。
「今の話はどうか内密に。けれどシャイターンには仔細をお伝えして、彼の采配にお任せしてみてはいかがですか?」
「……判りました。陛下にお窺いしてみます」
 苦悩の果てに、若き青い星の御使いは重々しい口調で呟いた。