アッサラーム夜想曲
空想の恋 - 7 -
血の粛清が明けた聖都。
清らかな早朝の陽光が、大神殿の白檀 を照らすなか、跪くシャイターンの美貌は翳 っていた。
最初は近寄ることを遠慮していたサリヴァンだが、長く祈りを捧ぐ姿を見るうちに、自然と足が向いた。
「神は勤勉な者を嘉 しましょう」
背中に声をかけると、彼は祈りを中断して振り向いた。
「サリヴァン……」
「花嫁 は、いかがお過ごしですかな?」
「私の花嫁です」
俯き加減の唇から、低い声がこぼれた。
苛立ちを気取り、サリヴァンが驚きに目を瞠ると、彼は気まずそうに視線を逸らした。悔いるように拳を額に押し当てる。
「……すみません」
「お気になさいますな。いつでもお待ちしておりますと、お伝えくだされ」
「ええ……」
苦悩の滲んだ声を聞いて、サリヴァンは彼のことを気の毒に思った。
政争でも闘争でも、敢然 と立ち向かえる偉大な英雄は、超人ではあっても、万能ではないのだ。
それは、地上に遣わされた天上人も同じこと。悩む英雄の姿を見る限り、花嫁もまた、苦しんでいるのだろう……
二人が並んで姿を見せるのは、謹慎が明けてからである。花嫁がサリヴァンに気兼ねなく声をかけるには、さらに時間を要した。
背中の傷が乾いた頃、ユニヴァースは特殊部隊――懲罰部隊に配属され、危険を伴う遠征に従軍する。明るい性質の彼は、遠征の過程で次第に自分を立て直した。
未曾有 の国難といっても過言ではない、東西決戦が近づいていた。
中央和平交渉、ベルシア和平交渉が難航するなか、花嫁は体調を崩して勤務中に倒れた。心労が祟ったのであろう。
あの時は、多くの者が花嫁の回復を祈って、大神殿を訪れたものだ。
稀なる天上人は、常人には考えも及ばぬ孤独を密かに抱えていた。
深い霊的葛藤の欠片を、意外な形でサリヴァンは知ることになる。
花嫁が作ったという物珍しい望遠鏡だ。大洋を眺める際に使うそれと似ているが、彼が作ったものの方が精度は良かった。
彼は神秘に頼らず、自らの力で星を観ようとした。
無限の探究心だ。いいかえれば、魂のいき着く先や星の運行といった信仰を揺るがす懐疑で、打ち明け難い思考故に、独りで思い悩んでいたようだ。
サリヴァンは最高位神官 という神殿の権威だが、花嫁の考えを否定しようとは思わなかった。
むしろその逆で、言葉も知らなかった無垢な人が、ここまで成長したのかと感慨を抱いた。零から歩んだ道のりに天球儀の指輪で報いると、
「ありがとうございます……っ」
青い星の御使いは、恭しく、震える両手で指輪を受け取った。
涙に濡れた瞳は黒水晶のように美しく、真に喜ぶ姿を見て、彼はこの先も砂漠の英雄と共に、アッサラームで生きていきたいのだと、サリヴァンにもはっきり判った。
少しでも長く、彼等の上に優しい慈雨が降ればいい……
願ってみても、避けられぬ戦いは始まる。
花嫁は英雄と共に、アッサラームを離れて国門へと向かった。
血で購 う聖戦に、多くの同胞が青い星へ還ってゆく。最前線は苛烈を極め、サリヴァンの六番目の息子も、闘いのなかで命を落とした。
絶望と哀しみの翼がアッサラーム全土を覆うなか、シャイターンは宿敵ハヌゥアビスを打ち破った。
艱難辛苦の涯 てに、英雄たちは凱旋を果たした。盛大な歓呼によって迎えられ、アッサラームは祝福に包まれた。
あの頃を振り返ると、幾つもの光景が胸を過 る。
論功前夜。
激戦を繰り広げ、最も死者をだしたノーヴァの戦いを振り返り、アデイルバッハはいったものだ。
「劈頭 、乾坤一擲 の空中戦で、ジャファールはサルビアに勝利したのだ。難関地形を恐れず、先頭に立って作戦指揮を務めた。評価に値する男だ」
多くの議論を呼ぶ戦いに、サリヴァンも彼とおよそ同じ意見であった。彼はさらにこう続ける。
「サルビアの敵愾心 を煽り、知略に長けた将が、大胆な配置変更で襲いかかった。それでもなお、死地を延命させたのは、彼の手腕に因るところが大きい」
「彼が名将であることは、誰もが認めておりますよ」
「辛い思いをさせた……」
静かな呟きには、経験に裏打ちされた、苦慮の響きがこめられていた。
あの夜、喉に流しこむ火酒に、皇帝は慰めを求めていたのかもしれない。深酒を控えている人が、九杯も空けていた。
期号アム・ダムール四五一年、一月一六日。
揺り香炉の薫る、大神殿。
論功行賞で祭壇に立つサリヴァンの前に、ユニヴァースは誇らしげにやってきた。
「……よく頑張りましたね」
知らず口元を緩め、労うと、彼の瞳は喜びに輝いた。
「ありがとうございます。父上」
天性の陽気に恵まれている彼も、思い悩む日々があった。表にはださぬが、叶わぬ想いに苦しんでいた。
知っているからこそ、讃えたい。
灯心草 のように真っ直ぐに立ち、澄明 な眼差しを向ける我が子は、短い間に、見違えるほど成長してみせた。
時間の流れは、人を癒してくれる。
輪廻に縛られぬ西の民であれば、万人に与えられる権利だ。
利き腕を失くし、前線を離れたアルスランは、以前よりも頻繁に大神殿を訪ねるようになった。
「腕を失くしてから、貴方の言葉をよく思いだします。“いかなる運命が横たわろうとも、最善の努力をしなければならない。後に続く者の、励みになるから”……」
己にいい聞かせるような口調であった。
「よく戻ってくれました」
傷に触れぬよう肩に手を置くと、彼は思い耽 るように瞼を半分伏せた。
「多くの部下を亡くしました。この喪失感が埋まる日など、永遠にこない気がします」
「残された者の役目です。それでも、貴方は前を向こうとしている」
帰らぬ人々……友人、その家族、六番目の息子を胸に思い、サリヴァンは囁いた。
逝きし人との行きし日々を胸に――命ある者は、いわばしる小川を漕ぎいで、人生の大洋のもたらす波濤 を越えてゆかねばならない。
灰色の朝がきても諦めずに、白い波頭の光る海を見るまで……
それからの日々、幾日もアッサラームの蒼穹 に、弔鐘 が鳴り響いた。
生き残った者の心に傷痕を残し、東西大戦は終結した。
清らかな早朝の陽光が、大神殿の
最初は近寄ることを遠慮していたサリヴァンだが、長く祈りを捧ぐ姿を見るうちに、自然と足が向いた。
「神は勤勉な者を
背中に声をかけると、彼は祈りを中断して振り向いた。
「サリヴァン……」
「
「私の花嫁です」
俯き加減の唇から、低い声がこぼれた。
苛立ちを気取り、サリヴァンが驚きに目を瞠ると、彼は気まずそうに視線を逸らした。悔いるように拳を額に押し当てる。
「……すみません」
「お気になさいますな。いつでもお待ちしておりますと、お伝えくだされ」
「ええ……」
苦悩の滲んだ声を聞いて、サリヴァンは彼のことを気の毒に思った。
政争でも闘争でも、
それは、地上に遣わされた天上人も同じこと。悩む英雄の姿を見る限り、花嫁もまた、苦しんでいるのだろう……
二人が並んで姿を見せるのは、謹慎が明けてからである。花嫁がサリヴァンに気兼ねなく声をかけるには、さらに時間を要した。
背中の傷が乾いた頃、ユニヴァースは特殊部隊――懲罰部隊に配属され、危険を伴う遠征に従軍する。明るい性質の彼は、遠征の過程で次第に自分を立て直した。
中央和平交渉、ベルシア和平交渉が難航するなか、花嫁は体調を崩して勤務中に倒れた。心労が祟ったのであろう。
あの時は、多くの者が花嫁の回復を祈って、大神殿を訪れたものだ。
稀なる天上人は、常人には考えも及ばぬ孤独を密かに抱えていた。
深い霊的葛藤の欠片を、意外な形でサリヴァンは知ることになる。
花嫁が作ったという物珍しい望遠鏡だ。大洋を眺める際に使うそれと似ているが、彼が作ったものの方が精度は良かった。
彼は神秘に頼らず、自らの力で星を観ようとした。
無限の探究心だ。いいかえれば、魂のいき着く先や星の運行といった信仰を揺るがす懐疑で、打ち明け難い思考故に、独りで思い悩んでいたようだ。
サリヴァンは
むしろその逆で、言葉も知らなかった無垢な人が、ここまで成長したのかと感慨を抱いた。零から歩んだ道のりに天球儀の指輪で報いると、
「ありがとうございます……っ」
青い星の御使いは、恭しく、震える両手で指輪を受け取った。
涙に濡れた瞳は黒水晶のように美しく、真に喜ぶ姿を見て、彼はこの先も砂漠の英雄と共に、アッサラームで生きていきたいのだと、サリヴァンにもはっきり判った。
少しでも長く、彼等の上に優しい慈雨が降ればいい……
願ってみても、避けられぬ戦いは始まる。
花嫁は英雄と共に、アッサラームを離れて国門へと向かった。
血で
絶望と哀しみの翼がアッサラーム全土を覆うなか、シャイターンは宿敵ハヌゥアビスを打ち破った。
艱難辛苦の
あの頃を振り返ると、幾つもの光景が胸を
論功前夜。
激戦を繰り広げ、最も死者をだしたノーヴァの戦いを振り返り、アデイルバッハはいったものだ。
「
多くの議論を呼ぶ戦いに、サリヴァンも彼とおよそ同じ意見であった。彼はさらにこう続ける。
「サルビアの
「彼が名将であることは、誰もが認めておりますよ」
「辛い思いをさせた……」
静かな呟きには、経験に裏打ちされた、苦慮の響きがこめられていた。
あの夜、喉に流しこむ火酒に、皇帝は慰めを求めていたのかもしれない。深酒を控えている人が、九杯も空けていた。
期号アム・ダムール四五一年、一月一六日。
揺り香炉の薫る、大神殿。
論功行賞で祭壇に立つサリヴァンの前に、ユニヴァースは誇らしげにやってきた。
「……よく頑張りましたね」
知らず口元を緩め、労うと、彼の瞳は喜びに輝いた。
「ありがとうございます。父上」
天性の陽気に恵まれている彼も、思い悩む日々があった。表にはださぬが、叶わぬ想いに苦しんでいた。
知っているからこそ、讃えたい。
時間の流れは、人を癒してくれる。
輪廻に縛られぬ西の民であれば、万人に与えられる権利だ。
利き腕を失くし、前線を離れたアルスランは、以前よりも頻繁に大神殿を訪ねるようになった。
「腕を失くしてから、貴方の言葉をよく思いだします。“いかなる運命が横たわろうとも、最善の努力をしなければならない。後に続く者の、励みになるから”……」
己にいい聞かせるような口調であった。
「よく戻ってくれました」
傷に触れぬよう肩に手を置くと、彼は思い
「多くの部下を亡くしました。この喪失感が埋まる日など、永遠にこない気がします」
「残された者の役目です。それでも、貴方は前を向こうとしている」
帰らぬ人々……友人、その家族、六番目の息子を胸に思い、サリヴァンは囁いた。
逝きし人との行きし日々を胸に――命ある者は、いわばしる小川を漕ぎいで、人生の大洋のもたらす
灰色の朝がきても諦めずに、白い波頭の光る海を見るまで……
それからの日々、幾日もアッサラームの
生き残った者の心に傷痕を残し、東西大戦は終結した。