アッサラーム夜想曲

空想の恋 - 6 -

 ユニヴァースの公開懲罰施行日。
 円形闘技場に軍幹部は全員召集された。そのなかには、血縁者であるサリヴァンも含まれていた。
 周囲から同情の眼差しを寄せられるなか、シャイターンだけはいつもと変わらぬ、まっすぐな視線を寄こした。
「ご迷惑をおかけいたしました。深く、お詫び申しあげます」
 一揖いちゆうすると、彼は静かに頷き、
「処罰の後は、立ち入りを許します」
 絶対零度の湖水を思わせる冷貌のなかに、僅かな気遣いを見せた。再び頭をさげるサリヴァンの横を、今度は無言ですり抜ける。
 石柱の木陰から陽のしたにでると、眩しい日射しに足を止めた。
 我が子の過ちを不始末だと嘆きはしない。ただ、よく晴れた青空が心に突き刺さった。
 大勢が集まっているにも関わらず、闘技場の空気は鎮痛で重く、静かであった。高みから見下ろすシャイターンの纏う空気が、氷の息吹のように冷たいからか。
 二階の中央からは、何もかもよく見えた。
 懲罰を受けるユニヴァースは、舌を噛まぬよう口に丸めた布をまされ、裸の背中を向けて、鉄棒に両腕を高く戒められている。
 重いため息が隣から漏れた。精悍な体躯を黒い軍服に包んだ、五番目の息子のサンジャルだ。
 その隣には、こんな場でも目にもあやな衣装を纏っている、七番目の息子、浮世離れしたランシルヴァがいる。優しげな顔立ちの青年で、最も美しい詩句を書くとアッサラームでも評判の詩人である。
 間もなく始まる懲罰を前に、日頃は顔をあわせれば賑やかな二人が随分と大人しい。
 緊張に静まり返るなか、遥かなる蒼穹そうきゅうを悠々と流れゆくコンドルが影を落としていく。
 非情の獄吏が鞭を振るった。
 強い茨鞭は、鍛えた肉体であっても皮膚を破る。
 空気と肉を裂く、しなる鞭の音。衝撃に耐える呻き声。
 背中から血を流す姿を見るうちに、サリヴァンは身に宿る神力が昂るのを感じた。人より感情は希薄といえど、我が子が無抵抗のままに傷つけられていく姿は見ていて辛い。
 隣を窺うと、二人共平静を保っているように見えて、攻撃的な神力が漏れていた。
 七回の鞭を、ユニヴァースは耐え抜いた。
 縄を解かれた途端にくずおれる身体を、傍にいた兵士が支える。サリヴァンが立ちあがるよりも早く、サンジャルが傍へと駆け寄った。
「ユニヴァースッ!」
 意識は既になかった。
 一瞬、死んでしまったのかと危ぶんだが、すぐに胸が上下する様子に気がついた。背中に触れぬよう運びだすさなか、高みから見下ろすシャイターンと視線が交錯した。
 纏う空気に怒気を滲ませたのは、日頃はユニヴァースを疎ましく思っているサンジャルであった。
「サンジャル」
 攻撃的な潜在下の神力を高める彼を、サリヴァンは諫めた。すると、彼も不敬に気がついたように視線を逸らし、傷ついたユニヴァースへと視線を戻した。
「すみません」
「いいえ。早く、治療してやりましょう」
 衛兵の手を借りて運びだすと、やがてユニヴァースは目を開けた。
 うつ伏せの背中には絹布けんぷが巻かれており、止血が追いつかず、ところどころ黒く変色している。傾けた視界に長身のサンジャルを映して、眉をひそめたかと思えば、サリヴァンを認めて今度は眉をさげた。
「ご迷惑を、おかけしました」
 彼にしては抑揚のない、昏い声が静かな病室に落ちた。
「もういい。よく、耐えた」
 頭を撫でてやると、ユニヴァースは横に倒していた顔を、白い円筒型の枕に埋めた。
「……もう、会えないのかなぁ」
 両肩を微かに震わせ、くぐもった声で独りごちる。
 その愁嘆する姿を見て初めて、サリヴァンは彼の秘めし想いを知った。傍に立つ二人も、僅かに目を瞠っている。
 なんということだ。それでは尚更、繰り返し悔恨に襲われ、今は苦しかろう……
「お前でも、落ちこむんだな」
 皮肉を発したのは、サンジャルだ。しかし、いつもほどには声に棘がない。無言で応えるユニヴァースの頭を、ランシルヴァは優しく撫でた。
「可哀相に……なんて痛そうなんだ。しばらく背中は見ない方がいいよ」
 まるで自分の背が傷ついたかのように、ランシルヴァは顔をしかめた。
「そんなに酷い……? てゆうか、ランシルヴァはともかく、どうしてサンジャルが?」
「俺がいては不満か」
「憲兵隊の勤めはどうしたんだよ」
「すぐに戻る。その前に、これだけはいわねばならん。貴様がどう振る舞おうが関係ないが、父上に迷惑をかけるな」
 潔癖な息子は、軽蔑しきったように鼻を鳴らした。一方、ユニヴァースは気まずそうに沈黙する。
「……サンジャル。よしなさい」
 見かねて口を挟むと、サンジャルは態度を改め、礼節にのっとった一礼をした。仕事に戻るからと早々に病室をでていく。
「姉さんたちも心配していたよ。元気になったら、顔を見せにいくといい。喜ぶんじゃない?」
 部屋に静寂が流れると、ランシルヴァはのほほんとした表情で、優しく声をかけた。
「うん……」
「ね、殿下ってどんな方?」
 好奇心の滲んだ問いに、ユニヴァースは沈黙で応えた。その質問は、今は酷であろう。
「……ゆっくり休みなさい」
 一人にさせてやろうとサリヴァンが席を立つと、ユニヴァースはぽつりと、可愛いひと、と呟いた。
「そっかそっか」
 伏せているユニヴァースの頭を、ランシルヴァは無造作に掻きまわした。
 外見に気を使うユニヴァースは、髪を盛大に乱されても、文句もいわずに伏せていた。
 ……この日の出来事は、今でも苦い記憶の一つだが、彼よりもさらに過酷な運命を辿った者がいる。
 諸悪の根源、ヴァレンティーン・ヘルベルトだ。
 主を捕らえられたヘルベルト家は、全面的に反旗を翻した。傘下の私兵を集めてアースレイヤに宣戦布告したのである。
 最後の抵抗は苛烈を極めた。
 対するアッサラーム軍は、反乱軍を情け容赦なく弾圧した。皇帝の印可のもと、万軍をものともせず十日で制圧し、ヘルベルト家は劣勢を覆せぬまま敗れた。
 抗争の明けた翌朝、石畳は見渡す限り青い燐光に覆われ、その戦闘の激しさを物語っていた。
 粛清は皇帝の勅命である。
 しかし、凄惨な結末はシャイターンの逆鱗に触れたことも起因していただろう。
「許さぬ! 許すものかッ!」
 凋落ちょうらくし尽くした様相で喚く男の身体を、兵士が押さえつける。乱れ髪からは想像もつかぬ、かつて宮殿を牛耳り、この世の春を謳歌したヴァレンティーン・ヘルベルトだ。
 ついに断頭台に頭を乗せられ、男は深淵に溺れるように顔をさげた。
「触るな! 私を誰だとォ……ッ、宝冠を支えし石柱は、貴方が自らの手で砕くのだ。奈落へと転落する様を、とくと見よ! これぞ未来の貴様の姿よ。栄華など泡沫の夢に過ぎないと、思い知るがいいッ!!」
「終わりです。ヴァレンティーン」
 アースレイヤは、激昂する男に穏やかに応えた。
「聖都よ、落日に沈め。崩れ堕ち、呪われるがいい……ッ」
「人を呪うのに、どうして自分は呪われないと思うのです? この顛末は、全て貴方が引き寄せたものですよ」
「黙れえぇッ!!」
 冷然と見下ろすアースレイヤは、肘掛椅子に泰然たいぜんと座すシャイターンに視線を投げた。無言のうちに、承認は交わされる。
「首を刎ねよ」
 高みから執行を命じるは美貌の皇太子、冷然と首肯したのは偉大なる砂漠の英雄であった。
 命を絶つ、非情の大鎌が振りおろされる。血の連なりが弧を描いた。