アッサラーム夜想曲
空想の恋 - 4 -
期号アム・ダムール四五一年、八月一〇日。
花嫁 が宮殿から姿を消した。
陽が昇りきった午後、雅 な宮殿は騒然となった。長い宮廷歴史において、典雅な宮殿があれほど取り乱したことも珍しい。
天上人の姿を探して、大神殿にも兵はやってきた。
最初は御姿が見えなくとも、宮殿のどこかにはいるはずだと、皆が楽観的に考えていた。行先を護衛騎士に伝えていたし、滅多に宮殿の外へでられない方が、前触れもなく外出するとは考えられなかったのだ。
しかし、宮殿に駆けつけたジュリアスが遠視を行うと、空気は一変した。
「宮殿にはいません。サン・マルク市場へ向かっているようです」
高い格天井の議場に、緊張と動揺が漣 のように疾 った。
「本当ですか?」
「まさか、お一人で?」
「護衛はついておらんのかッ!?」
口々に驚嘆の声をあげ、すぐに沈黙した。針のように肌に突き刺さる、冷たい冷気が流れたからだ。
「ユニヴァース……ッ」
怒気を瞳に灯して、ジュリアスは憤懣 に滾 った低い声を絞りだした。神力の顕現 たる青い炎は蜃気楼に揺らめいて、大理石と象牙の室内を蒼白く染めあげた。
「貴方のご子息が、私の光希を連れて単独行動をしている」
恐ろしい事実を聞かされ、この時ばかりはサリヴァンも呻きたい衝動に駆られた。
シャイターンの花嫁 の失踪に、よりによって武装親衛隊の少年兵――サリヴァンの息子である、ユニヴァースが関わっているとは。
なにか恐ろしい事件に巻きこまれたのだろうか?
しかし破天荒な彼の性格を思うと、彼が引き起こした可能性も否定はできなかった。
状況は悪化する。
彼の不在に気づいたのは、サリヴァンたちだけではなかった。
宮殿の権威たる理財長――ヴァンレンティーン・ヘルベルトもまた気づいていたのだ。
大変な有権者である彼が、欠片も靡 かぬジュリアスを疎ましく思っていることは、宮廷における暗黙の了解である。
先の聖戦で、過酷な前線へ送りやったのも、英雄ならば鎮圧も容易 かろうと、居丈高に議場でいい放ち、アースレイヤ皇太子を頷かせたからに他ならない。
さらにいえば、彼はサリヴァンを籠絡しようとしたこともある。
不敬にも、砂漠の英雄に代わる“宝石持ち”は他にもいらっしゃる、そう貴顕 たちの前で、思わせぶりに目配せしたのだ。
傲岸不遜な態度はサリヴァンの目にも余ったし、アースレイヤの心中も想像がついた。
しかし皇太子は、何度も慇懃 な口調で「是」と応えてきた。そういわざるをえなかった背景には、歯向かえば、皇太子といえど命が危ぶまれた事情もある。
とはいえ、過剰な淫蕩 ぶりが果たして自衛であったのか、宿痾 であったのかは楊 と知れない。
だが、その後混迷する宮殿を宥 め、聖戦を乗り切ったことで、彼は才覚を示した。
頭角を現し始めたアースレイヤにも、理財長は懸念を抱いていた。
理財長は、皇太子の即位までにジュリアスの立場を弱め、アースレイヤを操る手綱を引き締めたいと考えていたのだ。
誰もが予期していた“内乱”は起こるべくして勃発した。
「陛下。ヴァレンティーン・ヘルベルトを捕えます」
感情を封殺した声で、ジュリアスは武力による内乱鎮圧――苛烈な決断を王国の最高実権者に迫った。
「許可する。花嫁を救出せよ」
一片の躊躇もなく、厳かに皇帝は承認した。
「御意」
ジュリアスは礼節に則 った一礼で応えると、眩い金髪の下、青い瞳を怒りに燦 めかせ、謁見の間を飛びだしていく。
軍靴 を響かせる彼の後ろを、サリヴァンは追い駆けた。
もはや一刻の猶予もない。
最優先される作戦は、花嫁奪還である。当然、ジュリアスが先頭指揮に臨んだ。
同時に進行する作戦は、ヴァレンティーン・ヘルベルトの身柄拘束、拠点制圧。完全なる武力無力化だ。これは、聖戦で共に轡 を並べたヤシュム、アーヒムらが先頭指揮に臨んだ。
「作戦遂行に、ヴァレンティーンの生死は問わない」
その日予定していた演習は中断され、緊迫した空気に包まれた滑走場。作戦に向かう各々に向けて、英雄は冷たい声で告げた。
「「御意」」
数千から万もの兵を指揮する将たちは、厳かに一礼した。
彼等は素早く作戦を共有すると、すぐに滑走場で隊伍 を成すそれぞれの部隊の元へ散った。
責任の一端はサリヴァンにもある。後に続こうとすると、ジュリアスは厳しい眼差しをサリヴァンに向けた。
「サリヴァンは残ってください。ヴァレンティーンを捕えたら、アースレイヤには現場にきてもらわなければならない。貴方には最初から最後まで、内部指揮を任せます」
「かしこまりました。このような事態となり、なんとお詫びを申しあげればよいか――」
「謝罪は本人から聞く。先ずは光希の救出です。責任を感じるなら、ここで正確な指揮をッ!」
強い口調で彼は一喝した。空気がびりびりと震え、近くに居あわせた兵士は慄 いたように跪いた。
狼狽えている場合ではない。サリヴァンも気を引き締め、胸を過 るユニヴァースへの懸念を切り離した。彼の言う通り、今最優先すべきは花嫁の救出だ。
「御意」
端的に応えると、己が使命を果たさんと宮殿へ駆けた。
陽が昇りきった午後、
天上人の姿を探して、大神殿にも兵はやってきた。
最初は御姿が見えなくとも、宮殿のどこかにはいるはずだと、皆が楽観的に考えていた。行先を護衛騎士に伝えていたし、滅多に宮殿の外へでられない方が、前触れもなく外出するとは考えられなかったのだ。
しかし、宮殿に駆けつけたジュリアスが遠視を行うと、空気は一変した。
「宮殿にはいません。サン・マルク市場へ向かっているようです」
高い格天井の議場に、緊張と動揺が
「本当ですか?」
「まさか、お一人で?」
「護衛はついておらんのかッ!?」
口々に驚嘆の声をあげ、すぐに沈黙した。針のように肌に突き刺さる、冷たい冷気が流れたからだ。
「ユニヴァース……ッ」
怒気を瞳に灯して、ジュリアスは
「貴方のご子息が、私の光希を連れて単独行動をしている」
恐ろしい事実を聞かされ、この時ばかりはサリヴァンも呻きたい衝動に駆られた。
シャイターンの
なにか恐ろしい事件に巻きこまれたのだろうか?
しかし破天荒な彼の性格を思うと、彼が引き起こした可能性も否定はできなかった。
状況は悪化する。
彼の不在に気づいたのは、サリヴァンたちだけではなかった。
宮殿の権威たる理財長――ヴァンレンティーン・ヘルベルトもまた気づいていたのだ。
大変な有権者である彼が、欠片も
先の聖戦で、過酷な前線へ送りやったのも、英雄ならば鎮圧も
さらにいえば、彼はサリヴァンを籠絡しようとしたこともある。
不敬にも、砂漠の英雄に代わる“宝石持ち”は他にもいらっしゃる、そう
傲岸不遜な態度はサリヴァンの目にも余ったし、アースレイヤの心中も想像がついた。
しかし皇太子は、何度も
とはいえ、過剰な
だが、その後混迷する宮殿を
頭角を現し始めたアースレイヤにも、理財長は懸念を抱いていた。
理財長は、皇太子の即位までにジュリアスの立場を弱め、アースレイヤを操る手綱を引き締めたいと考えていたのだ。
誰もが予期していた“内乱”は起こるべくして勃発した。
「陛下。ヴァレンティーン・ヘルベルトを捕えます」
感情を封殺した声で、ジュリアスは武力による内乱鎮圧――苛烈な決断を王国の最高実権者に迫った。
「許可する。花嫁を救出せよ」
一片の躊躇もなく、厳かに皇帝は承認した。
「御意」
ジュリアスは礼節に
もはや一刻の猶予もない。
最優先される作戦は、花嫁奪還である。当然、ジュリアスが先頭指揮に臨んだ。
同時に進行する作戦は、ヴァレンティーン・ヘルベルトの身柄拘束、拠点制圧。完全なる武力無力化だ。これは、聖戦で共に
「作戦遂行に、ヴァレンティーンの生死は問わない」
その日予定していた演習は中断され、緊迫した空気に包まれた滑走場。作戦に向かう各々に向けて、英雄は冷たい声で告げた。
「「御意」」
数千から万もの兵を指揮する将たちは、厳かに一礼した。
彼等は素早く作戦を共有すると、すぐに滑走場で
責任の一端はサリヴァンにもある。後に続こうとすると、ジュリアスは厳しい眼差しをサリヴァンに向けた。
「サリヴァンは残ってください。ヴァレンティーンを捕えたら、アースレイヤには現場にきてもらわなければならない。貴方には最初から最後まで、内部指揮を任せます」
「かしこまりました。このような事態となり、なんとお詫びを申しあげればよいか――」
「謝罪は本人から聞く。先ずは光希の救出です。責任を感じるなら、ここで正確な指揮をッ!」
強い口調で彼は一喝した。空気がびりびりと震え、近くに居あわせた兵士は
狼狽えている場合ではない。サリヴァンも気を引き締め、胸を
「御意」
端的に応えると、己が使命を果たさんと宮殿へ駆けた。