アッサラーム夜想曲

空想の恋 - 2 -

 前線到着から数日。
 一陣の風が砂を撫でていった。
 薄暗い黎明の空の下でも、茫漠ぼうばくたる砂漠は青い燐光に覆われ、視界に困らぬほど明るい。
 見渡す限り続く青い燐光……一つ一つの光が同胞の魂である。それだけ多くの同胞が、ここで死んだということだ。
 聖衣を纏ったサリヴァンは、悲壮な光景を見つめながら、滔々とうとうと十五編の聖典をそらんじた。
 横隊に並んで跪く兵士たちは、静かに黙祷を捧げている。
「……我々の終油の秘蹟ひせきは、金色こんじきの聖都にあります。シャイターンのたなごころは、彼等を必ず導いてくださる」
 全てを読み終え、最後にサリヴァンが締めくくると、幾人も頷いた。声もなく涙する同胞を、隣の者が慰めている。
 鎮魂の儀は、聖戦による殉教者への手向けであり、また残された者の慰めでもあった。
 数日も過ぎる頃には、決勝を喫した拠点は早くも撤収準備を開始していた。
 夜になると、決勝を祝して、または聖都への帰還を祝して、あちこちで酒盛りが開かれた。
 普段であれば晩祷ばんとうならびに終課に勤めるところであるが、ここへきてからは、サリヴァンも何度か彼等の輪に混じった。
 信仰は飲酒を禁じていない。シャイターンが敬虔な信徒にも、飲酒をお許しくださる神で良かったと思う。
 花嫁ロザインと二人で過ごしたいのであろう、年若いシャイターンが姿を見せることは稀であったが、挨拶程度に顔を見せることもあった。
 そうして拠点での生活に馴染むうちに、ようやく花嫁と顔あわせの席が設けられた。
 宛がわれた天幕に、ジュリアスとジャファールに付き添われてくだんの花嫁が姿を見せた。
「はじめまして」
 世にも高貴な青い星の御使いは、ぎこちない口調でこうべを垂れた。
 素朴な容姿ながら、話に聞いていた通り肌は白く、瞳も髪も艶やかな黒であった。東西に通じる神聖色である。
「こんにちは、よくぞおいでくださいました。ムーン・シャイターン、そして花嫁」
 ゆっくりとした発音を心がけて歓迎の意を伝えると、緊張した面差しの花嫁は、礼儀正しく会釈した。
 花嫁に寄り添う若き英雄は、実に穏やかな眼差しをしている。青い双眸には、花嫁へ寄せる確かな愛情が窺えた。
 その姿を見てもなお、サリヴァンの胸には祝福しか沸いてこなかった。渇望に苦しみ、愁嘆しゅうたんに暮れた葛藤も、今では昔のことだ。
「コーキ、この方はサリヴァン・アリム・シャイターン。私と同じ“宝石持ち”です。サリヴァン、彼が私の魂の半身、コーキです」
 戦場に立つ勇ましい姿からは、想像もつかぬほど優しい声であった。サリヴァンは少しばかり目を瞠ったが、花嫁を見つめる英雄は気がついていない。
「こんにちは。僕は光希です。貴方が勉強を?」
 互いの紹介を終えると、花嫁は黒い眼差しに喜びの光を灯して、サリヴァンを仰ぎ見た。その通りだと応えると、花が綻ぶように笑みを閃かせる。
「ありがとうございます!」
 ほほえましく見ていると、花嫁は隣に立つジュリアスを見あげて、はにかんだ。
「ジュリ、ありがとう」
 すると彼は、いまだかつて見せたことがないであろう、優しい笑みを口元に浮かべた。花嫁を心から愛しているのだろう。
 若い二人のために、できる限りのことをしよう。サリヴァンはあらためて心に思った。
 言葉に不自由しながらも、天上人である花嫁は謙虚によく学んだ。その姿に、サリヴァンの花嫁に対する印象は、早くも上書きされた。
 地図を見せるとすぐに方角を理解し、スクワド砂漠の位置から、オアシスとの距離感を把握してみせたのだ。
 柔らかな頬は幼さを感じさせるが、黒水晶のような瞳には知性の光が灯っている。思ったほど子供ではないのかもしれない。
 言語の他にも、あらゆる学問を教えてさしあげたい。
 学者精神が疼いたこともあり、その考えはサリヴァンの胸に留まった。
 そこで天幕に向かうジュリアスを見かけた折に、その旨を伝えてみることにした。
「アッサラームに花嫁をお迎えしましたら、大神殿にお招きしてもよろしいでしょうか?」
「大神殿に?」
「はい。聡明なお方ですし、知識欲も探究心もある。ぜひ言葉の他にも、天文学をお教えしたい」
 良い提案だとサリヴァンは思ったが、ジュリアスは複雑そうな表情を浮かべた。
「凱旋の道のりも長くなりますし……アッサラームに戻ったら、穏やかに過ごしてもらいたいと考えています」
 どうやら、他意はないサリヴァンの言葉を、いささ穿うがって捉えたらしい。彼の言葉には多少の警戒が滲んでいた。
「それは良い。美しいお屋敷を建てたと聞いておりますよ。花嫁もさぞお喜びになるでしょう」
 安心させるように言葉をかけても、端麗な顔に浮かぶ気鬱は晴れない。サリヴァンは微苦笑を浮かべた。
「……少々、気が急いていたようです。確かに、勉学の前に先ず、公宮での生活に馴染むことが先でしたな」
「いいえ、馴染まなくてもいいのです。欺瞞ぎまん奸計かんけいに満ちた公宮など、煩わしいだけですから。コーキに無理をさせたくありません。離れの私邸で、穏やかに過ごして欲しいのです」
 どこか厳しい口調で告げる年若いシャイターンを見て、サリヴァンはどう応えたものかと口を閉ざした。
 花嫁を公宮第一位の権威として迎えることは、しきたりにのっとった決定事項だ。周囲から遠ざけたい気持ちも判らないではないが、公宮の頂点に君臨する花嫁が、人前に全くでないわけにもいかないだろう。
「ふぅむ……懸念がないとはいえませぬが、公宮が美しい楽園であることも、また事実。案内してさしあげれば、花嫁は喜ばれるのでは?」
 公宮に囲われた多くの女たちと違い、花嫁には出入りも許されている。
「もちろんです。ただ、私の花嫁に関わることは、何であれ十分に見極めるつもりです」
 案じる言葉の裏には、花嫁を独占したいという恋情が透けて見えた。
「出過ぎたことを申しました。お許しくだされ。おっしゃる通り、アッサラームは遥か遠い。先ずは長旅に気を配るとしましょう……」
 一礼して言をさげると、英雄は黙して頷いた。
 若者らしい、微笑ましい心中を察し、サリヴァンは口元が緩むのを堪えねばならなかった。