アッサラーム夜想曲
空想の恋 - 1 -
額に、青い宝石を持って生まれた。
歴代の“宝石持ち”がそうであるように、サリヴァンもまた赤子のうちから家族と離され、聖都アッサラームの最深層、皇帝陛下の御座 すアルサーガ宮殿の大神殿に預けられた。
生誕祝福を受け、信仰の対象とされる神名――シャイターンの名を授かる。
サリヴァン・アリム・シャイターン。
それが正式名となり、成人を迎える十三の歳まで人神として大切に育てられた。
ここにはいない、いるかも判らぬ花嫁 を黙して想う日々のなか、剣よりも筆を取った。
己の役目は、先陣を切って東に侵攻することではない。信仰を以 て聖都を導くことであろうと、幼心に理解していた。
いかな賑わいを見せる光景も、サリヴァンの目には空々寂々 と映る。
にこりともしない能面顔を見て、育ての神官は笑みを拵 える術を教えてくれた。芯から笑えずとも、笑みを浮かべれば周囲の者を癒し、自分も生きやすかろうと、厳めしい顔の老いた信徒はいった。顔に似合わず明朗な気質で、サリヴァンを遠巻きにしない情の厚い人であった。彼に教えを請えたことは、幸いであったといえよう。
月日が流れた。
神意を映す鏡のような心に、魂の半身である花嫁への憧れと、天文学への使命だけが自然と灯っていた。
やがて、命じられるままに“宝石持ち”の義務として妻を娶った。
評判の美姫もサリヴァンの心を動かすことはなかったが、彼女たちは聡明で慎み深く、己の役目をよく理解していた。
妻と子を得ても、芯から満たされることはない。叶わぬ想い、満たされぬ愛の苦悩は続く。
あらゆる才に恵まれながら、埋まらぬ心の溝を、離れたところから茫然自失と眺めているかのよう。
この渇きは、いつか癒えるのだろうか?
育ての恩師を青い星へ発つのを見送り、いつの間にか高邁 な信徒だと尊敬を集めるようになっても、その問いを思う時、凪いだサリヴァンの心には波紋がたゆたった。
慰めに先人達の残した書を紐解けば、茜色の羊皮紙には、古い記憶が連綿と綴られていた。
一番最後に記された記憶は、およそ三百年も昔のことだ。
胸を抉るような渇望は、サリヴァンだけが味わうものではない。“宝石持ち”に生まれた以上、避けられぬ道。運よく花嫁にめぐり逢える者は、幾星霜と続くアッサラームの歴史のなかでも、ほんの数えるほどしかいない。
なぜ、このような星の下に……無味無臭の生を受けたのか、白檀 に跪き、シャイターンに問いかけてみたりもした。
長い祈りは静寂に包まれ、沈黙のほかに応えるものはない。
期号アム・ダムール四三四年一月一日。早朝。
赤子のシャイターンが、大神殿へ連れてこられのだ。圧倒されたものだ。額に持つ青い宝石の、なんと色濃く輝かしいことか!
一目見て悟った。
彼こそは、東の脅威に打ち克 ち、西を導く砂漠の覇者となろう。サリヴァンは、彼を導く為に選ばれた特別な“駒”なのだと。
衝撃は、幼いシャイターンの眼差しに映るうちに霧散した。こういう、運命なのだろう。
受け入れねばならない。
神に、いかなる運命を与えられようとも――たとえ花嫁にめぐり逢えなくとも、最善を尽くさねばならない。そうすれば、後に続く者の励みとなる……
先人達もそうして、生涯の記録を残してきたのだ。次の“宝石持ち”の為に。迷えるサリヴァンの為に。
今度は、サリヴァンの番だ。
神名を授けられし幼い少年、ジュリアス・ムーン・シャイターンを導き、彼が進むであろう艱難辛苦 の道を、照らす手助けをしなければならない。
彼の為に、アッサラームの為に、智恵の柱となろう――そう決意した。
幼い英雄との出会いから、十五年。
聖都アッサラームは、東の侵攻に苦しめられていた。敵軍勢は、巧みに難攻不落の国門を迂回し、ついにスクワド砂漠に駒を進めた。
国の存亡を賭けた聖戦に、多くの兵士、信徒は進んで戦役に従軍し、勇敢に戦った。
劣勢が続くなか、アースレイヤ皇太子は議会の――ヴァレンティーンの決定に唯々として従い、年若いシャイターンを過酷な最前線へと送りこんだ。
彼の神力のほどを知っていてもなお、命を散らしてしまうのではないかと、サリヴァンは危惧した。
東の侵攻から三年。
前線はよく持ちこたえているものの、膠着状態が続き、アッサラームを照らす希望の灯は陽炎のように揺れていた。
そんな折、随喜の知らせがアルサーガ宮殿に伝えられた。
「伝令! シャイターンの花嫁が、砂漠に降臨されました」
黎明の冷えこみを穿 つ明朗な声が、壮麗な広間に響き渡った。
頬を紅潮させて伝令が口早に告げるや、居並ぶ貴顕 達は唖然とし、間もなく一人残らず表情を綻ばせた。
「なんとめでたい!」
「それは真なのか!?」
「おぉっ! 明けぬ戦に、シャイターンが応えてくださったのだ……っ!」
口々に喜びを叫ぶ。
無理もない。久しぶりの朗報、それも国を揺るがす吉報だ。聖都はもちろん、過酷な戦いを強いられている前線は息を吹き返すことであろう。
議会に列席していたサリヴァンは、ひっそりと表情を緩めた。
年若いシャイターンの慟哭の深さは、誰よりも知っている。並外れた神眼で、花嫁の気配を微かでも感じ取ることができるだけに、触れられぬ辛さは一押しであったろう。
彼は、ついに花嫁を手に入れたのだ。
羨む心もある。
だが、それ以上に祝福する思いがサリヴァンを満たした。
彼はサリヴァンにとって、偉大な砂漠の英雄である前に、教え子であり、額に宝石を持つ同胞なのだ。
花嫁を求める渇望を身を以て知っているだけに、目頭は自然と熱くなった。よく耐えたものだ。あの厳しい地で、挫けずに、本当によく耐えた……
シャイターンは、宿命を課すだけではない。アッサラームを導く救いの手を、こうして差し伸べてもくださる。
花嫁の出現により、戦況は一変した。
青い星の御使い。花嫁の存在は、アッサラーム全土に希望を与えたのだ。
アッサラーム軍総勢五万に対し、サルビア軍総勢十万。
圧倒的不利な状況下で、ジュリアス・ムーン・シャイターンは見事に敵の総大将を討ち取り、長く苦しめられた、難関の山岳拠点を制圧せしめた。三年に渡る東の猛攻を耐え抜いたのだ。
期号アム・ダムール四五〇年九月二四日。
サルビア軍は撤退し、アッサラーム防衛戦への勝利は決定した。
聖都が喜びに沸くなか、サリヴァンは飛竜の背にあった。砂漠に散った同胞の魂を、鎮めにゆく為である。
十数日をかけて、茫漠 の空を翔けた。
眼下に見下ろす白い砂は、やがて、青い燐光の立ち昇る戦場へと変貌してゆく。
美しくも哀しい光景に、サリヴァンは目を瞑って思索に耽 った。どれだけ多くの同胞がこの砂漠に散ったことだろう。
戦場の苛烈さを思いながら、味方陣営の拠点へ降りると、懐かしい顔ぶれが集まってきた。
「老師、お久しぶりです」
教え子であったナディアに呼び止められ、サリヴァンは笑みを浮かべた。
「おお! ……元気そうだ。苦しい戦いでしたね」
本当に、と応える彼は幸いにして怪我はないようだ。その後ろから、ジャファールとアルスランも姿を見せた。
黒地の軍服は砂で白く薄汚れているものの、目に見える外傷はなく、零れる笑顔は澄んでいる。
「よくぞお越しくださいました」
「お待ちしておりましたよ」
それぞれ声をかけられ、サリヴァンも笑顔で応じた。希薄な心でも、年の功でいまや、自然な笑みを浮かべられる。懐かしい顔ぶれを眺めて、気分が高揚していることも確かだった。
ふと、黄金色の奔流が視界に映った。
燦 たる光を弾く、豊かな金髪を揺らして英雄はやってきた。同時にナディアたちは少しさがり、場所を譲る。
「サリヴァン、お久しぶりです」
「……お久しぶりです」
反応が遅れてしまったのは、彼の変貌ぶりに驚いたせいだ。溢れでる覇気の、なんと強いことか。花嫁を得て、神力を更に高めたようだ。
「花嫁を見つけました」
告げる口調は、やや硬い。金髪のしたで僅かに緊張したように、頬の両線を固くさせている。
「聞いておりますとも。おめでとうございます、ムーン・シャイターン。心よりお喜び申しあげます」
祝福を贈ると、砂漠の英雄は安堵したように肩から力を抜いた。傍目には判らぬ程度の身じろぎであったが、サリヴァンには、彼が密かに緊張していたのだと判っていた。
先達である“宝石持ち”を差し置いて花嫁にめぐり逢えたことに、芽吹いたばかりの心が後ろめたさを囁くのであろう。
「花嫁は健やかにお過ごしですかな?」
水を向けてやると、年若いシャイターンは控えめに頷いた。
「天上の言葉を話すのですが、惜しいことに私には判らなくて……」
「お会いできますかな?」
「はい、もちろん……」
言葉の途中で、砂漠の覇王は複雑そうな表情で黙りこんだ。
サリヴァンの顔に、年を経たからこその笑みが浮かんだ。
「お気になさいますな。同じ“宝石持ち”として、羨ましくもあり、それ以上に嬉しく思っておりますぞ」
本心であった。
宝石を持って生まれたこと。年若いシャイターンの師となること。彼が花嫁を得たこと……
全ては、偉大なるシャイターンの思し召しだ。
自然とそう思えたことに、サリヴァンは流れた月日を思い、ある段階に到達できたのだと、感慨を抱いた。
歴代の“宝石持ち”がそうであるように、サリヴァンもまた赤子のうちから家族と離され、聖都アッサラームの最深層、皇帝陛下の
生誕祝福を受け、信仰の対象とされる神名――シャイターンの名を授かる。
サリヴァン・アリム・シャイターン。
それが正式名となり、成人を迎える十三の歳まで人神として大切に育てられた。
ここにはいない、いるかも判らぬ
己の役目は、先陣を切って東に侵攻することではない。信仰を
いかな賑わいを見せる光景も、サリヴァンの目には
にこりともしない能面顔を見て、育ての神官は笑みを
月日が流れた。
神意を映す鏡のような心に、魂の半身である花嫁への憧れと、天文学への使命だけが自然と灯っていた。
やがて、命じられるままに“宝石持ち”の義務として妻を娶った。
評判の美姫もサリヴァンの心を動かすことはなかったが、彼女たちは聡明で慎み深く、己の役目をよく理解していた。
妻と子を得ても、芯から満たされることはない。叶わぬ想い、満たされぬ愛の苦悩は続く。
あらゆる才に恵まれながら、埋まらぬ心の溝を、離れたところから茫然自失と眺めているかのよう。
この渇きは、いつか癒えるのだろうか?
育ての恩師を青い星へ発つのを見送り、いつの間にか
慰めに先人達の残した書を紐解けば、茜色の羊皮紙には、古い記憶が連綿と綴られていた。
一番最後に記された記憶は、およそ三百年も昔のことだ。
胸を抉るような渇望は、サリヴァンだけが味わうものではない。“宝石持ち”に生まれた以上、避けられぬ道。運よく花嫁にめぐり逢える者は、幾星霜と続くアッサラームの歴史のなかでも、ほんの数えるほどしかいない。
なぜ、このような星の下に……無味無臭の生を受けたのか、
長い祈りは静寂に包まれ、沈黙のほかに応えるものはない。
期号アム・ダムール四三四年一月一日。早朝。
赤子のシャイターンが、大神殿へ連れてこられのだ。圧倒されたものだ。額に持つ青い宝石の、なんと色濃く輝かしいことか!
一目見て悟った。
彼こそは、東の脅威に打ち
衝撃は、幼いシャイターンの眼差しに映るうちに霧散した。こういう、運命なのだろう。
受け入れねばならない。
神に、いかなる運命を与えられようとも――たとえ花嫁にめぐり逢えなくとも、最善を尽くさねばならない。そうすれば、後に続く者の励みとなる……
先人達もそうして、生涯の記録を残してきたのだ。次の“宝石持ち”の為に。迷えるサリヴァンの為に。
今度は、サリヴァンの番だ。
神名を授けられし幼い少年、ジュリアス・ムーン・シャイターンを導き、彼が進むであろう
彼の為に、アッサラームの為に、智恵の柱となろう――そう決意した。
幼い英雄との出会いから、十五年。
聖都アッサラームは、東の侵攻に苦しめられていた。敵軍勢は、巧みに難攻不落の国門を迂回し、ついにスクワド砂漠に駒を進めた。
国の存亡を賭けた聖戦に、多くの兵士、信徒は進んで戦役に従軍し、勇敢に戦った。
劣勢が続くなか、アースレイヤ皇太子は議会の――ヴァレンティーンの決定に唯々として従い、年若いシャイターンを過酷な最前線へと送りこんだ。
彼の神力のほどを知っていてもなお、命を散らしてしまうのではないかと、サリヴァンは危惧した。
東の侵攻から三年。
前線はよく持ちこたえているものの、膠着状態が続き、アッサラームを照らす希望の灯は陽炎のように揺れていた。
そんな折、随喜の知らせがアルサーガ宮殿に伝えられた。
「伝令! シャイターンの花嫁が、砂漠に降臨されました」
黎明の冷えこみを
頬を紅潮させて伝令が口早に告げるや、居並ぶ
「なんとめでたい!」
「それは真なのか!?」
「おぉっ! 明けぬ戦に、シャイターンが応えてくださったのだ……っ!」
口々に喜びを叫ぶ。
無理もない。久しぶりの朗報、それも国を揺るがす吉報だ。聖都はもちろん、過酷な戦いを強いられている前線は息を吹き返すことであろう。
議会に列席していたサリヴァンは、ひっそりと表情を緩めた。
年若いシャイターンの慟哭の深さは、誰よりも知っている。並外れた神眼で、花嫁の気配を微かでも感じ取ることができるだけに、触れられぬ辛さは一押しであったろう。
彼は、ついに花嫁を手に入れたのだ。
羨む心もある。
だが、それ以上に祝福する思いがサリヴァンを満たした。
彼はサリヴァンにとって、偉大な砂漠の英雄である前に、教え子であり、額に宝石を持つ同胞なのだ。
花嫁を求める渇望を身を以て知っているだけに、目頭は自然と熱くなった。よく耐えたものだ。あの厳しい地で、挫けずに、本当によく耐えた……
シャイターンは、宿命を課すだけではない。アッサラームを導く救いの手を、こうして差し伸べてもくださる。
花嫁の出現により、戦況は一変した。
青い星の御使い。花嫁の存在は、アッサラーム全土に希望を与えたのだ。
アッサラーム軍総勢五万に対し、サルビア軍総勢十万。
圧倒的不利な状況下で、ジュリアス・ムーン・シャイターンは見事に敵の総大将を討ち取り、長く苦しめられた、難関の山岳拠点を制圧せしめた。三年に渡る東の猛攻を耐え抜いたのだ。
期号アム・ダムール四五〇年九月二四日。
サルビア軍は撤退し、アッサラーム防衛戦への勝利は決定した。
聖都が喜びに沸くなか、サリヴァンは飛竜の背にあった。砂漠に散った同胞の魂を、鎮めにゆく為である。
十数日をかけて、
眼下に見下ろす白い砂は、やがて、青い燐光の立ち昇る戦場へと変貌してゆく。
美しくも哀しい光景に、サリヴァンは目を瞑って思索に
戦場の苛烈さを思いながら、味方陣営の拠点へ降りると、懐かしい顔ぶれが集まってきた。
「老師、お久しぶりです」
教え子であったナディアに呼び止められ、サリヴァンは笑みを浮かべた。
「おお! ……元気そうだ。苦しい戦いでしたね」
本当に、と応える彼は幸いにして怪我はないようだ。その後ろから、ジャファールとアルスランも姿を見せた。
黒地の軍服は砂で白く薄汚れているものの、目に見える外傷はなく、零れる笑顔は澄んでいる。
「よくぞお越しくださいました」
「お待ちしておりましたよ」
それぞれ声をかけられ、サリヴァンも笑顔で応じた。希薄な心でも、年の功でいまや、自然な笑みを浮かべられる。懐かしい顔ぶれを眺めて、気分が高揚していることも確かだった。
ふと、黄金色の奔流が視界に映った。
「サリヴァン、お久しぶりです」
「……お久しぶりです」
反応が遅れてしまったのは、彼の変貌ぶりに驚いたせいだ。溢れでる覇気の、なんと強いことか。花嫁を得て、神力を更に高めたようだ。
「花嫁を見つけました」
告げる口調は、やや硬い。金髪のしたで僅かに緊張したように、頬の両線を固くさせている。
「聞いておりますとも。おめでとうございます、ムーン・シャイターン。心よりお喜び申しあげます」
祝福を贈ると、砂漠の英雄は安堵したように肩から力を抜いた。傍目には判らぬ程度の身じろぎであったが、サリヴァンには、彼が密かに緊張していたのだと判っていた。
先達である“宝石持ち”を差し置いて花嫁にめぐり逢えたことに、芽吹いたばかりの心が後ろめたさを囁くのであろう。
「花嫁は健やかにお過ごしですかな?」
水を向けてやると、年若いシャイターンは控えめに頷いた。
「天上の言葉を話すのですが、惜しいことに私には判らなくて……」
「お会いできますかな?」
「はい、もちろん……」
言葉の途中で、砂漠の覇王は複雑そうな表情で黙りこんだ。
サリヴァンの顔に、年を経たからこその笑みが浮かんだ。
「お気になさいますな。同じ“宝石持ち”として、羨ましくもあり、それ以上に嬉しく思っておりますぞ」
本心であった。
宝石を持って生まれたこと。年若いシャイターンの師となること。彼が花嫁を得たこと……
全ては、偉大なるシャイターンの思し召しだ。
自然とそう思えたことに、サリヴァンは流れた月日を思い、ある段階に到達できたのだと、感慨を抱いた。