アッサラーム夜想曲
帰還 - 10 -
― 『帰還・十』 ―
ダリア・エルドーラ市場を抜けた後、旧市街の街並みを散策した。
大通りは、あらゆる施設に通じている。
学校、図書館、病院、宿泊所、給食所、隊商宿 、大衆欲場 、神殿。
特に神殿の数は多い。アッサラームには大小合わせて、二千もの神殿がある。
そして神殿の傍には、必ず身を清める為の沐浴場が併設されている。祝福日には一際賑わいを見せる一角だ。
ふと、どこからか教義を口ずさむ子供達の声が聞こえてきた。近くに、神殿があるのだろう。一角に設けられた学び舎で、教義を習っているに違いない。
道の反対側からは、笑い合い声をあげながら子供達が駆けてくる。
「ジュリの子供時代を見てみたかったなぁ……」
小さな彼等の姿に光希は眼を和ませると、ぽつりと呟いた。
「神殿で物静かな日々を送っていましたよ」
あんな風に、声をあげて笑うような子供ではなかった。“沈黙の戒律”に縛られているだけにあらず、感情そのものが希薄だった――光希に出会うまでは。
「小さいジュリは、すごく可愛かったんだろうね」
黒い瞳を細めて、ジュリアスを見上げる。
「私こそ、光希の幼い頃を見てみたかったな」
天使のようにあどけなかったに違いない。本人を前に言えないが、初めて会った時から、いとけない印象を抱いていた。成人すら疑ったくらいだ。
「ジュリと全然違うよ。僕は『ゲームバッカリ……ヒキコモリトイウカ』まぁ、うん……大人しい子供だったよ」
もし、小さな光希が目の前にいたら……想像すると、思わず笑みが浮かんだ。大人が子供に構う気持ちもよく判る。
とても眼を離せやしないだろう。何をするにも、はらはらしてしまいそうだ。
「何で笑うの?」
不思議そうに問われる。
「いえ……小さいな光希の姿を思い浮かべたら、可愛いなと思いまして」
「大丈夫、ジュリの方が可愛いから」
強い調子で告げる姿が可笑しくて、笑みが零れた。どう考えてみても、彼の方が可愛いと思う。
しばらく練り歩いた後、道沿いの茶屋に入った。
アッサラームでは、一日は紅茶に始まり、紅茶に終わると言っても過言ではない。朝食の後、昼食の後、夜の団欒にも紅茶を飲む。
この風習を、光希は公宮に入った当初から受け入れた。
国柄、街中にも喫茶を提供する店は数多くある。買い物に疲れた客達が一休みするのだ。
本当はアージュに教えてもらった“金の刺繍”で喫茶をしたいと話していたのだが、凱旋門の方まで戻らねばならず、残念ながら一日では行けない。
「アージュは疲れてないかなぁ」
ジャスミン茶に口をつけながら、光希は護衛の少年を案じるように呟く。
「……平気だと思いますよ」
光希は気付いていないようだが、アージュは護衛の傍ら、露店で度々買い物をしていた。屋根の上で焼き串を頬張っている姿も目撃している。
煩くは言わないが、ジュリアスでなければ譴責 が飛んでも文句は言えまい。
+
暮れなずみ、空の裾に色が差した。
帯状にたなびく雲の輪郭は、沈みゆく光線を浴びて、黄金色に縁取られる。街の灯がともり始める光景は一際美しい。
薔薇色に染まる聖都アッサラームに、大神殿のカリヨンが空高く鳴り響く。
運河に沿う遊歩道を並んで歩きながら、光希は空を仰いだ。
「なんでだろう……胸を打たれるなぁ」
空には白い鳥が群れ飛び、どこか物哀しい声で鳴き騒いでいる。それらに耳を澄ませて、光希は呟いた。
「たくさん歩いたから、疲れたでしょう?」
「少しね。でも平気」
「夕食を食べに行きますか?」
「ごめん……食べ過ぎたみたい。苦しいくらいなんだ」
済まなそうに謝る姿に、思わず吹き出してしまった。だから言ったのに。茶屋に二度入り、道行く先の露店で飲んで、食べてを繰り返していたのだ。
「では、もう少し歩きますか?」
歩けば、重たい胃も少しは軽くなるだろう。そうして気が向けば、店に寄ればいい。
「うん、そうしよう」
「楽しい一日でしたね」
街に繰り出して、これほど楽しいと感じたのは初めてだ。良い気晴らしにもなった。
何よりジュリアスの隣で、今日という日を光希が心から喜び、楽しんでくれたと判るから……こんなにも満たされた。
「楽しかったなぁ。もう一日が終わってしまうのか……」
名残惜しそうに呟く。ジュリアスも同じ気持ちだ。
「また来ましょう」
明るい気持ちで応えると、光希は隣で歩みを止めた。振り返ると、澄んだ眼差しで見上げる。
「一緒にいようよ。ずっと……」
その言葉の響きに、ふと在りし日の夜に交わした会話を思い出した。
「互いに嘘をつかず、喧嘩をしても、仲直りをして?」
あの日の会話を再現するように継ぐと、光希は悪戯っぽく眼を輝かせる。
「覚えてた? 休みの日には一緒に出掛けよう。今度、水煙草 も試してみたいんだ」
それは、どう応えたものか……。
顔に笑みを張り付けて閉口すると、大して痛くもない肘打ちが脇に入った。
「そこは“そうだね”って言おうよ」
「また今度」
「いいよ。ジュリが付き合ってくれないなら、他の人を誘うから」
それは聞き捨てならない。
「絶対に許しませんよ」
「なら、ジュリが付き合ってくれないと」
「……判りました」
結局、折れるのはジュリアスの方だ。実現するには準備が必要だろう。しかし、満足そうに笑う、愛しい姿を視界に映すと、まぁいいか……という気にさせられる。
光希の為ならば、どんな苦労も惜しむまい。
ふと夕闇に染まる歩道の先に、不思議な光景を垣間見た。
時を重ねた二人――ジュリアスと光希が手を繋いで、笑い合う姿だ。淡い金色に包まれた幻は、ジュリアスの横を通り過ぎてゆく。
「どうしたの?」
呼ばれて我に返った。見下ろせば、歩みを止めたジュリアスを、黒い双眸が不思議そうに見上げている。
「いいえ、なんでも……」
もしかしたら、シャイターンの見せてくれた幻であったのかもしれない。
この先にも、隣に光希がいるという約束。
続いていく道の先にも、変わらずに光希がいてくれるのなら……どこまでも歩いて行ける。
「行きましょうか」
繋いだ手を引いて、再び歩き始めた。
夕暮に染まる、アッサラームの街並みを――
ダリア・エルドーラ市場を抜けた後、旧市街の街並みを散策した。
大通りは、あらゆる施設に通じている。
学校、図書館、病院、宿泊所、給食所、
特に神殿の数は多い。アッサラームには大小合わせて、二千もの神殿がある。
そして神殿の傍には、必ず身を清める為の沐浴場が併設されている。祝福日には一際賑わいを見せる一角だ。
ふと、どこからか教義を口ずさむ子供達の声が聞こえてきた。近くに、神殿があるのだろう。一角に設けられた学び舎で、教義を習っているに違いない。
道の反対側からは、笑い合い声をあげながら子供達が駆けてくる。
「ジュリの子供時代を見てみたかったなぁ……」
小さな彼等の姿に光希は眼を和ませると、ぽつりと呟いた。
「神殿で物静かな日々を送っていましたよ」
あんな風に、声をあげて笑うような子供ではなかった。“沈黙の戒律”に縛られているだけにあらず、感情そのものが希薄だった――光希に出会うまでは。
「小さいジュリは、すごく可愛かったんだろうね」
黒い瞳を細めて、ジュリアスを見上げる。
「私こそ、光希の幼い頃を見てみたかったな」
天使のようにあどけなかったに違いない。本人を前に言えないが、初めて会った時から、いとけない印象を抱いていた。成人すら疑ったくらいだ。
「ジュリと全然違うよ。僕は『ゲームバッカリ……ヒキコモリトイウカ』まぁ、うん……大人しい子供だったよ」
もし、小さな光希が目の前にいたら……想像すると、思わず笑みが浮かんだ。大人が子供に構う気持ちもよく判る。
とても眼を離せやしないだろう。何をするにも、はらはらしてしまいそうだ。
「何で笑うの?」
不思議そうに問われる。
「いえ……小さいな光希の姿を思い浮かべたら、可愛いなと思いまして」
「大丈夫、ジュリの方が可愛いから」
強い調子で告げる姿が可笑しくて、笑みが零れた。どう考えてみても、彼の方が可愛いと思う。
しばらく練り歩いた後、道沿いの茶屋に入った。
アッサラームでは、一日は紅茶に始まり、紅茶に終わると言っても過言ではない。朝食の後、昼食の後、夜の団欒にも紅茶を飲む。
この風習を、光希は公宮に入った当初から受け入れた。
国柄、街中にも喫茶を提供する店は数多くある。買い物に疲れた客達が一休みするのだ。
本当はアージュに教えてもらった“金の刺繍”で喫茶をしたいと話していたのだが、凱旋門の方まで戻らねばならず、残念ながら一日では行けない。
「アージュは疲れてないかなぁ」
ジャスミン茶に口をつけながら、光希は護衛の少年を案じるように呟く。
「……平気だと思いますよ」
光希は気付いていないようだが、アージュは護衛の傍ら、露店で度々買い物をしていた。屋根の上で焼き串を頬張っている姿も目撃している。
煩くは言わないが、ジュリアスでなければ
+
暮れなずみ、空の裾に色が差した。
帯状にたなびく雲の輪郭は、沈みゆく光線を浴びて、黄金色に縁取られる。街の灯がともり始める光景は一際美しい。
薔薇色に染まる聖都アッサラームに、大神殿のカリヨンが空高く鳴り響く。
運河に沿う遊歩道を並んで歩きながら、光希は空を仰いだ。
「なんでだろう……胸を打たれるなぁ」
空には白い鳥が群れ飛び、どこか物哀しい声で鳴き騒いでいる。それらに耳を澄ませて、光希は呟いた。
「たくさん歩いたから、疲れたでしょう?」
「少しね。でも平気」
「夕食を食べに行きますか?」
「ごめん……食べ過ぎたみたい。苦しいくらいなんだ」
済まなそうに謝る姿に、思わず吹き出してしまった。だから言ったのに。茶屋に二度入り、道行く先の露店で飲んで、食べてを繰り返していたのだ。
「では、もう少し歩きますか?」
歩けば、重たい胃も少しは軽くなるだろう。そうして気が向けば、店に寄ればいい。
「うん、そうしよう」
「楽しい一日でしたね」
街に繰り出して、これほど楽しいと感じたのは初めてだ。良い気晴らしにもなった。
何よりジュリアスの隣で、今日という日を光希が心から喜び、楽しんでくれたと判るから……こんなにも満たされた。
「楽しかったなぁ。もう一日が終わってしまうのか……」
名残惜しそうに呟く。ジュリアスも同じ気持ちだ。
「また来ましょう」
明るい気持ちで応えると、光希は隣で歩みを止めた。振り返ると、澄んだ眼差しで見上げる。
「一緒にいようよ。ずっと……」
その言葉の響きに、ふと在りし日の夜に交わした会話を思い出した。
「互いに嘘をつかず、喧嘩をしても、仲直りをして?」
あの日の会話を再現するように継ぐと、光希は悪戯っぽく眼を輝かせる。
「覚えてた? 休みの日には一緒に出掛けよう。今度、
それは、どう応えたものか……。
顔に笑みを張り付けて閉口すると、大して痛くもない肘打ちが脇に入った。
「そこは“そうだね”って言おうよ」
「また今度」
「いいよ。ジュリが付き合ってくれないなら、他の人を誘うから」
それは聞き捨てならない。
「絶対に許しませんよ」
「なら、ジュリが付き合ってくれないと」
「……判りました」
結局、折れるのはジュリアスの方だ。実現するには準備が必要だろう。しかし、満足そうに笑う、愛しい姿を視界に映すと、まぁいいか……という気にさせられる。
光希の為ならば、どんな苦労も惜しむまい。
ふと夕闇に染まる歩道の先に、不思議な光景を垣間見た。
時を重ねた二人――ジュリアスと光希が手を繋いで、笑い合う姿だ。淡い金色に包まれた幻は、ジュリアスの横を通り過ぎてゆく。
「どうしたの?」
呼ばれて我に返った。見下ろせば、歩みを止めたジュリアスを、黒い双眸が不思議そうに見上げている。
「いいえ、なんでも……」
もしかしたら、シャイターンの見せてくれた幻であったのかもしれない。
この先にも、隣に光希がいるという約束。
続いていく道の先にも、変わらずに光希がいてくれるのなら……どこまでも歩いて行ける。
「行きましょうか」
繋いだ手を引いて、再び歩き始めた。
夕暮に染まる、アッサラームの街並みを――