アッサラーム夜想曲

帰還 - 9 -

 ― 『帰還・九』 ―




 光希はなかなか水煙草みずたばこを諦めなかった。

「いいじゃない」

 店の前で、子供のように粘る。

「また今度にしましょう」

「今度があるの?」

 瞳を輝かせる様子に、自然と笑みが浮かぶ。

「いつでも。私と一緒なら」

 嬉しそうに微笑む光希の肩を抱いて、ようやく店の前を過ぎると、今度は見知らぬ男女に呼び止められた。

「アッサラームは初めて? 案内しましょうか?」

 若い男は、人当りの良い笑顔を向ける。水先案内を生業とする者だろう。通りのあちこちで足を止めていたので、目をつけられたのかもしれない。
 光希はフードを目深に被り直し、顔を伏せた。わざわざ覗き込もうとする男の態度に苛立ちが湧く。

「不要です。二人きりで見て回りたいので」

 おせっかいな営業を断り、光希の肩を抱いて歩き始めると、男は後ろを追いかけ食い下がる。

「仲が宜しいですねぇ。お昼はどこで食べるんですか? 決まっていないなら、良い店を紹介しましょうか?」

 まずいことに、光希は興味を引かれたらしい。顔をあげると外套の陰翳から、闇夜のような眼差しを向ける――男は眼を見開いて息を呑んだ。

「遠慮します。放っておいてください」

 顔を隠すフードを押さえて、今度こそ連れ出すと、男は「待って」と手を伸ばす。遠慮なく払いのけた。

「触れないでください」

 声の調子を下げて一瞥すると、身を弁えたように引き下がる。賢明だ。これ以上しつこいようであれば、手段は選ばぬつもりであった。

「ごめん……」

「いいえ、でも気をつけて」

 錯綜さくそうする通路をゆくと、ハーブと香辛料の匂いが漂ってきた。光希は腹を押さえて、ジュリアスを見上げる。

「お昼にしない? お腹すいた。ジャファールの教えてくれたかまど屋に行こう」

 二人で向かった竈屋は、ジャファールが推薦するだけあり、美味しい雉料理を提供してくれた。
 焼いた雉肉の表面を削げ落とし、刻んだ野菜を胡桃のパンに挟んで食べるのだが、大層美味しく、光希も無心にかぶりついていた。

「ここは、僕がご馳走します」

 丁寧な口調ではにかむ姿は、胸を打たれるほど可愛らしかった。
 腹ごしらえをして外へ出ると、周辺に軒を連ねる食料品店を見て回る。巣入りの蜂蜜を見つけて、光希は眼を丸くした。

「買ってあげましょうか?」

 欲しいのかと思い尋ねると「いや」と首を振る。

「加工された蜂蜜しか見たことないから、新鮮だっただけ……」

 不思議に思い首を傾げると……聞けば、光希の生まれた天上の世界では、硝子瓶に、屑一つ浮かばぬ綺麗な蜂蜜を詰める技術があるという。
 昔はそうした話を聞く度に、アッサラームに不便はないかと不安を覚えたものだが、彼の朗らかな態度は、あの頃から少しも変わらない。

「住めば都だよ……ジュリもいるしね」

 照れくさそうに、嬉しいことを言ってくれる。
 恥ずかしがり屋な光希は、愛情をあまり表に出さないが、時に思いがけず言葉を紡いでくれる。
 公宮へ迎えた当初は、この人の心が欲しくて、身の周りに何もかも最上の物を並べようと躍起になったものだ。住めば都……とは、当時からよく聞かされた言葉である。

「僕の知る世界にはない技術も、アッサラームには山とあるよ。くろがねの奇跡は最たるものだ」

巧緻こうちな装飾を施せるのに?」

「今でこそね。技術もそうだけど、考え方からして違うから……シャイターンの守護があるこの地でなければ、僕の打つ彫刻は、ただの装飾と同じだよ」

「いつまでもいてくださいね」

「当たり前だよ」

 綻ぶように笑顔を向けてくれる。
 天上の話に触れた後は、毎回つい言わせてしまう。以前ほどではないが、彼の口から“傍にいる”と聞かない限り、安心を得られないのだ。
 彼の口を重くさせてしまうのは、そうしたジュリアスの態度のせいもあるだろう。忖度そんたくに長けた人だから……。
 しかし、他ならぬ光希に遠慮をさせてしまうのは不本意だ。切り出してみようか……迷っていると、くんっと繋いだ手を引っ張られた。

「面白かったね。旧市街も歩いてみようよ」

 場を和ますように、光希から提案してくれる。笑みながら、その提案にありがたく乗ることにした。
 この先も二人で過ごす時間は続くのだから――今日はアッサラームの隅々まで、楽しんで欲しい。