アッサラーム夜想曲

帰還 - 8 -

 ― 『帰還・八』 ―




 聖都は、朝陽の浴びて金色に光り輝いている。
 シャイターンの神像、いたる所に咲くジャスミン、そして神殿の尖塔が人々の営みを静かに見守っている。
 アルサーガ宮殿から一番近い桟橋へ寄ると、ジュリアスは光希と共に、荷積みを終えたはしけに同乗した。旧市街まで運んでもらうのだ。
 市井しせいに繰り出す今日、二人はちょっとした変装をしていた。
 ジュリアスは髪を銀粉で染め、目深に被った帽子で青い宝石を隠している。光希も同様に髪を染めて、顔には褐色粉をはたいている。
 お忍びといえど、離れた所に護衛をつけさせている。アージュも屋根を伝って、光希の後をついてきている。

「綺麗だなぁ……」

 日射しに照らされて、銀班ぎんはんに煌めく運河を見やり、光希はフードの奥から瞳を輝かせる。
 普段とは違う恋人の姿に、ジュリアスは眼を和ませた。蜂蜜を溶かしたような肌も魅力的だが、濃い肌色もよく似合っている。

「アッサラームに結構いるのに、運河を渡るのは初めてだよ」

「気に入った?」

「うん! 気持ちいいねぇ」

 嬉しそうに笑う光希を見て、ジュリアスも微笑む。きっと気に入ると思った。やはり連れてきて正解であった。
 心地よい風に吹かれ、隣には光希がいる……いい気分だ。
 暫し船旅を楽しんだ。
 ダリア橋の傍で降りると、目的地――ダリア・エルドーラ市場まで、並んで歩く。
 古い歴史を持つ旧市街には、古色蒼然こしょくそうぜんとした美しさがある。それでいて、朝から人の賑わいで活気づいている。暮らしに溶け込む喧噪は、不思議と心を和ませてくれる。

「市場って感じがする!」

 隣ではしゃいだ声を上げる。
 黒貂くろてんの毛皮、西方の銀細工、真鍮や銅製品。造花に、数百種もの更紗さらさ。兎売りや、焼き立てのパンを売る者……光希の気を引くものは多い。
 人目を避けて目深にフードを被っていても、三歩もゆけば何かしらに興味を引かれ、すぐにフードを上げてしまう。
 好奇心を抑えきれない姿は、自然とジュリアスの笑みを誘う。

「走らないように」

「あれ見てよ、すごい絨緞!」

 山と積まれた草花、幾何学、民族模様の手織り絨緞を見やり、光希は何度目かの歓声を上げた。素直な賞賛は、道ゆく人の笑みをも誘う。
 近年は、合理的な合成染料が主流になりつつあるが、ジュリアスは時を経て自然と風合いを増す、草木染めの絨緞が好きであった。

「気に入ったものがあれば、教えてください……」

 団欒の用途に、もう何枚かあってもいいかもしれない……そう思ったが、店の主が光希の瞳の色に気付いて目を瞠る。

「出ましょうか」

 不思議そうに頷く光希の肩を抱いて、さり気なく店を出る。店を通り過ぎた後も、しばらく背中に視線を感じていた。
 変装をしていても、街中をゆけば自然と光希に視線が集まる。護衛をつけてはいるが気を抜けない。
 こうして隣に立ち、彼に集まる視線を意識すると……決着はついているとはいえ、かつて犯したユニヴァースの浅慮に、今更ながら腹が立つ。

「やっぱり、ジュリの隣にいると人目を集めるな……」

「私ではなく、光希の方でしょう」

 間髪入れずに応えた。一般的な銀色に髪を染めたジュリアスは、かなり周囲に溶け込んでいるはずだ。
 しかし光希はそうは思わないようで、胡乱うろんな眼差しで見上げる。

「違うよ。ジュリだよ。普段からこんな感じなの?」

「どうでしょう、あまり周囲を意識して歩きませんから……」

 周囲の人間は背景も同じ。今更、他者の視線を煩いとも感じない。

「ジュリも、歩いてて声をかけられたりする?」

「声?」

 光希は不意に、何も言わずジュリアスの腕にしがみついた。往来の真ん中で、彼にしては珍しい行為だ。

「光希?」

「今すれ違った人、振り返ってジュリを見ていたよ。壁に衝突しそうな勢いでさ……」

 周囲を警戒するように呟く。どうやら、誰とも知れぬ相手に妬いているらしい。そんなことで気を揉む必要は無いのだが……嬉しい。
 自分も光希を前にすると、よく些細なことで妬いてしまうので、理屈ではないのだと知っている。
 寄り添って歩いてくれるので、つい額に口づけたら腕を解かれてしまった。残念に思いながら、ふと気になったことを尋ねてみる。

「さっき、ジュリも……って言いましたね。誰のこと――」

「おーっと、あれは何だろうっ!?」

 光希は不自然に、果実水を売る商人を指差した。今度はジュリアスの方が、胡乱な眼差しで見下ろす。
 問い詰めたい気もするが、誤魔化すように笑う姿が可愛いので、まぁいいか……と思い直した。代わりに手を繋ぐと、戸惑いの浮かぶ黒い双眸が見上げる。

「いいでしょう?」

 尋ねると、光希は照れたように視線を前に戻した。ふと沈黙が下りて、耳は自然と周囲の喧噪を拾う。
 通りのあちらこちらで、客を呼び込もうと物売りが一際大きく声を響かせる。生きる喜び、活気に満ち溢れている。
 交わされる言葉は、公用語に、南に普及する南陽語、さらに砂漠と荒野と波濤はとうの先の言語までも耳に届く。

「……結構、聞き取れない言葉もあるなぁ」

 同じく喧噪に耳を澄ませていた光希は、飛び交う言語の豊富さに眼を丸くしている。
 市井しせいに疎い彼の驚きも宜(むべ)なるかな。なんといっても、多種多様な商品で溢れた市場は、あらゆる商店や卸問屋がうずのように取り巻いているのだ。

「アッサラームで商売するのなら、最低でも五、六ヵ国語に通じていなくてはいけません」

「ジュリも話せるの?」

「はい。西の主要な言葉は一通り。公用語を学んでおけば、不便はありませんけれど」

「すごいなぁ……」

 やがて人の出入りの多い、水煙草みずたばこ屋の前で、光希は足を止めた。肩を抱いて歩くよう促すと、足を踏ん張り、ジュリアスの袖を引く。

「喫ってみたい」

 言うと思った。

「駄目です」

 即答する。
 昔はどちらからといえば年配者のたしなみであったが、近年は若者に人気だ。
 一服を一刻ほどかけて喫うので、自然と隣合う客と長話になる。光希を連れて入るには懸念が多過ぎた。