アッサラーム夜想曲

帰還 - 5 -

 ― 『帰還・五』 ―




 凱旋の翌朝。
 久しぶりに宮殿敷地内の軍部――クロガネ隊の工房へ、光希は張り切って出向いた。
 十ヶ月ぶりの復帰である。
 昼過ぎに、宮殿を訪れるアンジェリカと約束があるというので、ジュリアスも同席を名乗り出た。
 約束の時刻が近付き、ナディアを連れて中庭を訪れると、間もなくアージュと共に光希がやってくる。
 やがてアンジェリカも姿を見せたが、その表情はいつになく昏い。心酔するナディアがいるというのに、どうしたことだろう。まるで、敵と一戦交えて惨敗を喫したかのように、悄然と俯いている。

「わー……沈んでる」

 隣で光希が、小声に独りごちた。

「どうしたのでしょう、あの娘は……」

「うん、心当たりはあるんだけど……気にすること、ないんだけどなぁ」

 言うが早いか、光希は苦笑と共にアンジェリカの傍へ歩み寄る。娘はジュリアスよりも先ず、光希に対して深く頭を下げた。

「お久しぶりです、殿下……先日は、大変不躾な手紙を送ってしまい、誠に申し訳ありませんでした」

 この娘にしては、ありえないほどの暗い声と顔つきで、深刻そうに謝罪する。

「久しぶり、アンジェリカ。手紙のことは、気にしてないから。僕も気付けずにごめん」

 ふと思う。光希はいつの間に、名前を呼び捨てるようになったのだろう……。

「恥ずべき振る舞いでした。悔いております。なのに、お優しい言葉をかけていただいて……」

 俯いたままに、声は潤みかけた。

「本当に気にしていないから、そんなに気に病まないで……」

 娘はぼろぼろと泣き始めた。一体、どんなやりとりがあったと言うのだろう。隣でナディアも目を瞠っている。

「わ、泣かないで……」

 光希は宥めるように、アンジェリカの髪を撫でた。
 距離が近過ぎる。しかも何やら小声で「ジュリとナディアには話していないから」と親密な様子で告げている。気になる。一体、何があったというのか。

「お気遣いまで……殿下、本当に申し訳ありませんでした」

 嗚咽の合間に、途切れ途切れに謝罪する娘を、困ったように黒い双眸は見つめている。
 何だこの事態は。
 視線でナディアに問いかけると、私にも何のことか……といった無言の応えが視線で返された。
 原因不明か。だが、今はそんなことよりも。
 このままでは、抱擁しかねない。
 ある種の危機を覚えたジュリアスは、冷静に当意即妙とういそくみょうな対応を取る――ナディアの背中を押してアンジェリカにぶつけた。
 瞬時にあらゆる連鎖反応を引き起こす。
 光希は驚いて娘から距離を取り、次いでナディアは障害物――アンジェリカの肩を掴んだ。
 娘はたちまち息を呑み、驚きのあまり涙を止めた。良かったではないか。ジュリアスは、その隙に光希の肩を抱き寄せた。

「では、私達はこれで」

 来たばかりだが、目礼して背中を向ける。後のことは、全てナディアに押しつけた。
 しかし、退散しようとすると、アンジェリカばかりかナディアにも呼び止められる。

「お会いしたばかりですわっ」

「挨拶しか口にしていませんよ」

 そんなことは判っている。顔に笑みを貼り付けたまま振り返った。

「久しぶりに会えたのでしょう? 遠慮はいりませんから、どうぞごゆっくり」

「いや、僕も話したい――」

 隣から聞こえる抗議は、視線で黙らせた。顔を伏せる様子に、己の失敗を悟るが、この場を離れることの方が先決だ。

 +

 中庭を離れる道すがら、光希に「怒っている?」と尋ねられた。見上げる双眸は、少々不安そうに揺れている。
 やはり、先程の一瞥のせいで委縮させてしまったらしい。

「いいえ……」

「手紙のことは、黙っていてごめん。でも、とても個人的なことだから……」

「判っています」

 手紙とは本来そういうものだ。個人に宛てたものを、他者が暴くようなものではない。
 判ってはいても……自分の知らないところで、親密なやり取りがあったのかと思うと、やはり面白くない。名前を呼んでいたことも気に食わない。
 ふと光希の方から手を繋いできた。
 見下ろすと、今度は穏やかな眼差しと目が合う。

「……」

 凪いだ眼差しに映るうちに、悔悟の念が湧いた。あれはどう考えても、浅慮な言動であった。
 ばつの悪い思いに駆られていると、光希は大人びた笑みを浮かべた。

「ジュリはいつも、真っ直ぐに想ってくれるね」

「……光希こそ、怒っていませんか?」

「怒ってないよ」

 寛容な恋人と違い、我が身のなんと心の狭いことか。

「すみませんでした」

 ようやく謝罪が口をついた。

「あの二人も、僕等がいない方が、気兼ねなく話せるでしょう。このまま、散歩でもしようか?」

 素晴らしい提案に、ジュリアスも自然と表情を綻ばせるのであった。