アッサラーム夜想曲

帰還 - 2 -

 ― 『帰還・二』 ―




 翌朝。
 暁光ぎょうこうを浴びながら早朝に天幕を畳むと、ジュリアスらは延々と続く隊伍たいごを整えた。
 長の行軍に薄汚れ、顔に疲労を滲ませる将兵らも、表情は誇らしげに輝いている。
 凱旋の先頭をゆくジュリアスと光希は、白銀装甲によろわれた、華美な四足騎竜の籠に乗った。

「また、これかぁ……」

 小声を拾い隣を見下ろすと、光希は苦笑いで応えた。

「なんでもない。頑張る」

「疲れたら、中で座っていいですよ」

「いいの!?」

 勢いづいた返事に、思わず笑みが洩れた。

「見えないようにね」

「任せて」

 眼を輝かせる様子にふと和み、次いで、合図を待つ後方を見やる。アーヒムとヤシュムが頷くのを見てから、

「全軍、前進!」

 いつかのように、号令をかけた。
 万を超える隊伍は、一糸乱れぬ分列行進を開始する。
 ひるがえる青い双龍の軍旗。石畳を鳴らす、勇ましい蹄鉄や軍靴ぐんかの音が、空の彼方まで響き渡った。
 凱旋門を抜けると、視界を埋め尽くさんばかりの、色鮮やかな花びらが宙を舞う。
 花道の左右にはずらりと人が並び、通路の狭間や窓、屋根、あらゆる所から花びらの雨を降らせている。

「「アッサラーム・ヘキサ・シャイターン万歳ドミアッロ!!」」

 遠征から生還した獅子達に、流星雨のごとき喝采が浴びせられる。
 中には隊を乱して、抱き合って再会を喜ぶ者もいれば、むせび泣く者もいる……事情は判る。今日ばかりは彼等を諫めることは難しい。
 観衆に応えて腕を上げるジュリアスの隣で、光希もまた腕を振って応えている。零れる笑顔の、なんと眩しいことか。
 アッサラームに迎え入れた時よりも、光希は格段に綺麗になった。
 清廉さはそのままに、しなやかな強さを身に着け、臆することなく堂々とジュリアスの隣に立つ……見惚れていると、ひょいと籠の中に小柄な身体を潜めた。

「交代で休憩しよう」

 囁きを聞いて、思わず笑ってしまった。あの時にはなかった、籠の中で休憩する余裕すら身に着けたらしい。
 やがて、アルサーガ宮殿の正門に辿り着くと、盛大に祝砲が打ち上げられた。
 宮殿のみやびさも、久しぶりとなると新鮮に感じる。
 敷布に用意された玉座に待つ皇帝は、矍鑠かくしゃくとした佇まいでジュリアスを迎えた。
 彼の隣には、アースレイヤとルーンナイトの姿もある。
 皇太子の貼り付けたような微笑は相変わらずだが、隣にルーンナイトが立つせいか、いつもより気を抜いているように見える。

「よくぞ、無事に戻ってくれた」

 皺を刻む双眸には、偽りのない感謝と労いの色が浮かんでいる。
 ジュリアスも視線で応えながら、後方に控えるアーヒムから青い軍旗を受け取り、跪いて両手で捧げた。

「勝利へと導いた軍旗を、謹んでお返しいたします」

 軍旗の返上と共に、遠征に与えられた全権を返上する。

「国の存亡を賭けた、東西の衝突であった。全てのアッサラームの民を、よくぞ救ってくれた。時代の節目に立ち合えたことを、シャイターンに深く感謝する」

 頭上から降る静かな声には、どこか遠い記憶を紐解くような響きがあった。胸に灯されたのは、彼自身の駆けた艱難辛苦かんなんしんくの遠征かもしれぬ。
 アデイルバッハ皇帝陛下……彼の御代では、この遠征が最後になるだろう。
 聖戦の遠征が無ければ、花嫁ロザインに巡り合うことは叶わなかった。彼もまた、ジュリアスを導いてくれた一人だ。

「全ては、砂漠を守護するシャイターン、そして我がアッサラーム軍、全将兵の力の賜物です」

 想い込めて告げた。掌の上から軍旗の重みが消える――

「長きに渡る遠征、誠に大義であった!」

 皇帝は、旗を天に向けて掲げた。
 祝砲は再び打ち上がり、割れんばかりの拍手喝采が沸き起こる。名を呼ぶ声に振り向けば、喜びを湛える黒い双眸と眼が合った。
 唐突に想う。
 花嫁――光希に引き合わせてくれた、全てに感謝を捧げたい。
 生まれた時から、人よりも天に教えられてきた。己は神意を映す鏡だと考えていた……。
 けれど、シャイターンに限らず、ここまでジュリアスを引き上げてくれた、全ての人に感謝を捧げたい。

 +

 クロッカスの綻ぶ懐かしい私邸に戻ると、腹心の部下に出迎えられた。

「お帰りなさいませ」

「ただいま、ルスタム!」

 光希は満面の笑みを浮かべ、飛びつきそうな勢いだ。追従するナフィーサも、表情を綻ばせている。
 懐かしい顔に再会して、気が緩むのはジュリアスも同じ。
 手入れの行き届いた屋敷を眺めやり、ようやく寛げる場所に帰ってこれたのだと、自然と肩から力が抜けた。
 光希も人目を憚らず、思い切り腕を伸ばしている。

「紅茶を煎れてくれる?」

 どこか甘える口調で、じゃれつくようにナフィーサの肩を掴んでいる。

「仰せのままに」

 行軍の合間に、また背の伸びた少年は笑顔で応じる。
 光希と共に私室に下がると、テラスから滔々と流れるアール川の煌めきを眺めやる。
 肩を抱き寄せれば、黒い双眸はこちらを向く。衝動のままに顔を近付けると、光希も首を伸ばして瞼を閉じた。
 柔らかな唇を塞ぐと、不思議と匂い立つジャスミンが香る。彼がシャイターンの御使いだからなのか、ジュリアスの花嫁だからなのか……。

「ん……」

 息継ぎの合間に微かな声。漏れる吐息を、どうしてこれほど甘く感じるのだろう……。
 身体だけではなく、心にも熱を灯される。光希だけだ。ジュリアスをここまで満たしてくれるのは……。