アッサラーム夜想曲

再会 - 7 -

 ― 『再会・七』 ―




 本陣到着から三日。
 国門の朝に、清廉な鐘の音が響き渡った。
 光希はみそぎを終えると、白を基調とした聖衣に着替えて、国門で一番大きな礼拝堂に足を運んだ。これから、鎮魂の儀を執り行うのだ。
 数百人を収容できる礼拝堂には、既に多くの信徒が集まっていた。
 高窓から斜めに降り注ぐ陽光は、石造りの主身廊にじかに座り、礼拝の始まりを待つ彼等を優しく照らしている。
 主身廊には、ナディアやジャファール達、前線から生還した将らの姿もある。
 皆、汗や汚れを落として、すっかり身を清めてきている。例え要塞を兼ねる国門であっても、礼拝に血の匂いを運んでいはいけない。礼拝の前には、身体だけでなく、携帯する武器も清める必要があった。

「殿下、こちらへ」

 光希はナフィーサに手を取られて、祭壇に続くきざはしを登った。辿り着いた高みには、清らかな純白のジャスミンが飾られている。
 アッサラームの典礼儀式に比べたら、大分簡略しているが、パイプオルガンの演奏と共に礼拝は始まった。
 進行役の星詠神官メジュラはナフィーサが務める。
 一礼すると、澄んだアルトの声で、祈祷の言葉を諳んじ始めた。
 玻璃はりのように透明な声は、偶数の接尾が韻を踏む八音節形式を、まるで詩のように美しく響かせる。
 霊気を帯びた言の葉は、石造りの礼拝堂に厳かに響き渡り、耳を澄ませるアッサラーム信徒の心に沁み渡った。
 皆、胸の前で両手を交差し、眼を閉じて黙祷もくとうを捧げている。
 光希も眼を閉じて、心の内に呼びかけた。

 ――戦況を教えてくれなかったのは、俺に見せたくなかったから? それとも、シャイターンにもシャイターンにも読めなかったの?

 もしかしたら、ジュリアスの言う通り、ぼかし、見せないことで、光希を守っていたのかもしれない。
 心を痛めないように……或いは、ハヌゥアビスとの邂逅かいこうから……
 誰にも話したことはないが、灰色の肌をした少年を、夢現ゆめうつつに一度だけ見たことがある。
 錯雑たる感情に揺れはしたが、怒りや憎しみは湧いてこなかった。彼個人に恨みはない。向こうも光希に気付いて、瞳を瞠っていた。かつえる赤い瞳。憎しみは浮いていなかったように思う。むしろ……

「――シャイターン、前へ」

 ナフィーサの声で我に返ると、礼装姿のジュリアスが光希の前に跪こうとしていた。
 ジュリアスはここに集まる信徒の代表、光希はシャイターンの御使いとして祭壇に立っている。赦しを請う者と、与える者だ。

「穢れを払い給う、御手に口づけを」

 ナフィーサの口上に従い、ジュリアスは光希の手を取り、甲に恭しく唇で触れた。次は光希の番だ。事前に言われている通り、ジュリアスの額に唇を押し当てた。
 本当は、信徒一人一人にするべきなのだが、視界に映るだけでも数百人はいるので仕方がない。
 黙祷の後は、参列者による、青き星に捧ぐ魂の合唱――哀悼歌が続く。
 赦し給え。憐み給え――
 この後も礼拝堂は解放されているので、敬虔な信徒達は自由に祈りを捧げられる。
 光希も一刻半ほど、ナフィーサと留まり、静かに黙祷を捧げた。
 あらゆる魂の安らぎを祈ることは、許されないだろうか? 甘いと言われても、本音を言えば、誰にも傷ついて欲しくない……
 ジュリアスの傍に在る為に、最善を尽くすと誓う。しかし、祈りだけは自由に捧げたい。
 瞼を閉じて内心に呼びかけていると、霊気に包みこまれているような、慰められているような気がした。
 朝時課の鐘が鳴り、鎮魂の儀、並びに礼拝は終了した。

「お召し替えされますか?」

 ナフィーサに問われて、光希は頷いた。重たいし、早く脱いでしまいたい。
 聖衣を着ていると、いつもに増して注目される。今は特に、隣にジュリアスもいるので、そこら中から視線を感じる。声をかけられる度に笑顔を浮かべていたら、表情筋が引き攣ってきた。

「殿下」

 中庭に面した回廊で、ナディアに呼び止められた。

「先日はラムーダに柄を入れていただき、ありがとうございました」

 光希は嬉しそうに微笑んだ。律儀なナディアは、前にも前線から便りで、感謝の気持ちを伝えてくれたことがある。

「どういたしまして。音色はどう?」

「素晴らしいです。野営の慰みになりました」

「良かった。僕も久しぶりに、ナディアの演奏を聴きたいな。今度、弾いてくれる?」

「もちろんですよ」

 ナディアは笑みを浮かべて快諾すると、回廊の奥へと引き返していった。どうやら遠目に気付いて、わざわざ声をかけてくれたらしい。
 くん、と繋いだ手を引っ張られて、隣に立つジュリアスを見上げた。

「どうしたの?」

「やたらと、声をかけられますね」

「本当にね、この衣装のせいだよ。早く着替えよう」

「そうしましょう」

 私室に戻り、いつもの隊服に着替えると、光希は肩をぐるぐる回して破顔した。  ジュリアスもかしこまった礼服を脱いで、椅子に座るなり長い足を組んで一息ついている。後ろからぽんぽんと肩を叩くと、ジュリアスは小さく息を吐いた。

「ラムーダなら、私が弾いてあげるのに……」

 思わず、吹き出してしまった。

「ナディアとは、同じ師を仰いだのですから」

 ジュリアスは肩に乗せた光希の手を取ると、甲に唇を落として、光希を見上げた。涼しげな眼差しに、不意を突かれて見惚れてしまい、からかってやろうという悪戯心はどこかへ消えた。

「光希はどこへ行っても人目を引くから、時々隣にいても、遠く感じることがあります」

 切なさを帯びた告白に、光希の顔から笑みが消えた。

「……ありえないよ。それは僕の台詞だよ」

「私を見て、嫉妬深いと笑いますか?」

 ぐ、と唇を引き結んだ。思ったよりも、ジュリアスを傷つけてしまったのかもしれない。

「笑わないよ」

 恋人の沈んだ表情を見て、光希は足元に跪くと、手をとって甲に唇を押し当てた。

「好きだよ。誰よりも。離れていた間もずっと……」

「……」

「本当だよ。久しぶりに会えて、僕はジュリにもう一度恋している」

 口にした途端、恥ずかしさがこみあげたが、ジュリアスはようやく表情を和らげた。

「私も、光希のことが誰よりも好きですよ」

「うん……」

 照れ臭くなり、立ち上がろうとしたら腕を掴まれた。

「口づけて、光希から」

 つんと高飛車に言うと、ジュリアスは返事も待たず瞳を閉じた。
 長い睫毛は伏せられて、目元に濃い陰影を落としている。
 たまには、光希からキスをすることもある。それなのに、今はジュリアスの唇を見つめただけで、頬が熱くなった。
 ぎこちなく顔を傾けて、触れるだけのキスを一つ。すぐに顔を離すと、ジュリアスはゆっくり瞳を開けて、幸せそうに微笑んだ。
 その笑顔を見た瞬間、光希の心臓は撃ち抜かれた。

 嘘ではない――ジュリアスに、もう一度恋している。