アッサラーム夜想曲

あるアッサラームの詩 - 1 -

 ルスタム・ヘテクレース――神殿騎士、花嫁ロザインの従者

 十五歳の頃から、大神殿に預けられたジュリアスに仕え、聖戦後は花嫁にも仕えた。
 敬虔な信徒であり、また二人の素顔を知る、数少ない人間の一人でもある。
 東西戦争の間は、聖都アッサラームに残り、シャイターンと花嫁の暮らす私邸の管理を任された。




― 『あるアッサラームの詩・一』 ―




 アルサーガ公宮の広大な敷地の中に、シャイターンと花嫁の暮らす、美しいペール・アプリコットカラーの豪邸がある。
 クロッカス邸の呼び名で親しまれる邸宅は、その名の通り周囲を一面の青紫色のクロッカスに囲まれており、正面から見た時、睡蓮の浮かぶ泉に鏡のように映りこむ。
 泉の脇には、ツユクサや白いジャスミンが寄り添い、涼しい水辺に彩りを添えている。
 この美しい景観に、思わず足を止める来訪者は多い。
 花嫁の私室はアール川に面しており、テラスに出ると、とう々と流れゆく、煌めく水面を一望できる。花嫁は毎日のように、ここでお茶を飲んだり、朝食を摂って過ごした。天井から吊るされたソファーブランコは特にお気に入りで、時にはシャイターンと並んで座ることもある。
 夕食は専用のパーラーよりも、私室で済ませることが多く、また中庭のゴールデン・アカシアの下で摂ることも好んだ。風や、花と緑、土や夜の匂いが気持ちいいのだろう。
 これらは全て、シャイターンが花嫁を想い、アッサラームの建築家や芸術家達に造らせたものである。
 当時は聖戦の最中で、シャイターンは前線にいた為、建設の進捗管理はルスタムが務めた。
 完成には様々な困難を伴ったが、ルスタムは協力を惜しまなかった。仕える主が花嫁をどれほど渇望していたか、誰よりも知っていたからだ。
 彼は成人したばかりの頃、こんなことを口にした。

 ”――こんな私でも、花嫁に会えたら心が動くのだろうか……”

 あの時は、物悲しく聞こえたものだ……
 ”宝石持ち”とはいえ、成人したばかりの少年が、血を流しても剣を持たされ、唯一口にした希望は、とても望み薄いものであった。
 稀有な”宝石持ち”の殆どは、花嫁に巡り逢えずに生涯を終える。事実、もう一人の”宝石持ち”であるサリヴァンは、今でも花嫁を得ていない。
 巡り逢わせは奇跡にも等しい。
 星の導きのもと、奇跡を与えられたシャイターンには、同じだけの試練が与えられるだろうと、かつてサリヴァンは予言した。
 本人もそう感じていたのだろう。聖戦の前と後では、あらゆる面で変わった。
 花嫁を迎える為に、この素晴らしい邸宅を建てたことも、以前ではとても想像できなかったことだ。
 一兵卒と共に泥にまみれて進軍することも厭わないシャイターンは、自身の身の回りのことに、殆ど興味を示さなかった。与えられたものを、無関心に享受するばかり。
 しかし、花嫁――青い星の御使いを、アッサラームに迎えるにあたり、決して天上の暮らしに劣らぬようにと、前線で戦いながら頻繁に伝令を飛ばし、精力的に新居に取り組んだ。

 ”うわあーっ、すごく綺麗です”

 苦労の甲斐があり、花嫁は新居をとても喜んだ。花嫁の朗らかな笑顔は、その場にいた全員を笑顔に変えたものだ。
 あの日から、このクロッカス邸は二人の主の帰る家となった。
 長く不在にしている主達は、間もなく東西戦争から帰還する。
 彼等を迎えるにあたり、やることはたくさんある。
 ルスタムは主の帰還に合わせて、内装の模様替えや、召使の人事等に着工し始めていた。この日は、庭園整備の専門家を屋敷に呼んだ。

「お久しぶりです、ルスタム様」

 四十前後の誠実そうな男、アーナトラは嬉しそうに表情を綻ばせた。
 アーナトラはこの邸宅の庭園を手がけた筆頭庭師であり、アッサラーム史上でも三本の指に入ると称される、偉大な庭園建築家でもある。

「お元気そうですね、アーナトラ殿」

「私にできることであれば、良いのですが」

 アーナトラは柔和な瞳に、からかいの色を浮かべてルスタムに問いかけた。

「ご安心ください。些細な注文ばかりですから」

 当時は邸宅の完成に向けて、無理難題の応酬だったが、今回はそんな事態にはならない。軽微修繕と模様替えが主である。

「ご遠慮なく、やり甲斐のある庭園ですよ。我ながら最高傑作ですとも。クロッカスも見事に咲きましたねぇ」

 アーナトラはしみじみと呟き、ルスタムも相槌を返した。
 今でこそ庭園を一面青紫色に染めているクロッカスだが、植えた当初はまだ根が小さく若葉色であった。あの時は、海を越えて輸入した、球根や種の検疫に苦戦させられた。おかげで予定よりも納品が遅れ、花嫁の到着まで十日を切った時点で、庭園のあちこちで地肌が覗いていた。
 庭園に限らず、テラスやサンルーム、浴室に使用する大理石や胡桃や棕櫚しゅろ等の高級木材も足りず、アッサラームを中継する隊商キャラバンを駆けずり回り、どうにか取り寄せたものだ。

「……あの奔走した日々を、昨日のことのように思い出しますよ」

 同じことを考えていたアーナトラは、ふと遠い眼をして懐かしそうに呟いた。

「忘れられませんね」

「いい思い出です。さて、どのようにいたしましょう?」

 アーナトラは微笑んだ。

「正面のパーゴラに、もう少し色が欲しいのですが」

「あのパーゴラも、わずか三株のモンタナが遂に天辺まで伸びましたねぇ……花つきも見事だ。ラウンド型のハンギングバスケットを吊るしましょうか。お帰りになるお二人を祝福して、リボンを結びましょう」

「お任せします。花は黄色にしてください」

「殿下のご趣味でしたね。八重咲きのマリーゴールドあたりを合わせましょう。玄関に飾るコンテナも色を変えますか?」

 アーナトラに言われて、玄関の左右に置いてある、白磁のコンテナを思い浮かべた。現在、垂れ下がるシルバーリーフに、モリスやポピーが植えられている。色合いは良いが、少々育ち過ぎてしまったので、形を整えて欲しいと思っていたところだ。

「そうですね……ラベンダーを混ぜてください」

「かしこまりました。青と白の配色で、ロベリアを混ぜて、透明感のある青にいたしましょう……」

 一通り庭園を見て回り、おおよその要望を伝え終えると、確かにささやかでしたよ、とアーナトラは取り繕いもせず、ほっと胸を撫で下ろした。なんだかんだ言って、やはり心配していたのだろう。

「今回は、”青い煌めき”はお造りにならないのですね」

 仕事の話が一段落すると、アーナトラは軽口を叩いた。

「花嫁はお喜びにならないと、判っておりますからね」

「素晴らしい至宝ですけれどね」

 聖戦後、シャイターンは、アッサラームに花嫁を迎え入れるにあたり、いくつもの贈り物を用意していた。
 中でも話題を呼んだのが、”青い煌めき”と呼ばれる、ダイヤモンドのティアラである。
 二四九個ものラウンド・ブリリアント・カットのダイヤモンドを敷き詰め、中央にはえもいわれぬ輝きを放つ、二十五カラットの最高級ブルー・ダイヤモンドが埋め込まれた。フローレスに近い、こわいほどの透明度。恐ろしいほどの稀少価値。光を弾く様はまさに”青い煌めき”――
 値段はつけられないとまで言われた。
 あまりの貴重さから、宝石商から邸宅に運び入れる際、精鋭騎馬隊が周囲を警護したほどである。
 しかし、残念ながら花嫁がそのティアラを身に着けることは殆どなかった。
 誰しもが溜息をつくと誉めそやされたが、万人を虜にできるわけではないのだと、くしくも花嫁で証明されてしまった。
 天上人であらせられる花嫁は、後々明らかになるのだが、宝石を含め、贅沢な嗜好品に殆ど興味を示さなかったのである。
 しかし、富も名声もある砂漠の英雄は、花嫁を喜ばせたい一心で、ことあるごとに、そういった贈り物を用意した。
 公宮における寵は、贅沢な贈り物も物差しの一つである。そのように教えられた主が、勘違いをするのも無理はない。
 彼が間違いに気付くまでには、少し道のりがあり、花嫁の好みを心得てからは、実用的な装剣金工の細工道具、装飾の参考になりそうなカリグラフィー、いい香りの花束、肌触りの良い麻布まふ……身の回りのささやかなものを贈るようになった。
 中でも特に喜ばれたのは、私室に隣接する応接間を、花嫁の為に工房へ改装したことだろう。ただ、花嫁は仕事を私邸に持ち帰るようになってしまい、心配の種が増えた……というのは、余談である。

「……華美な贈り物より、ささやかな気遣いを喜ばれる方ですから」

「庭園を歩くお二人の姿を、見れないことが残念でございます」

「いずれ、機会がありましたら」

 ルスタムは控えめに微笑んだ。アーナトラは気のいい男だが、ルスタムの一存で主達との面会を約束することはできない。彼もそれを十分に承知しているのであろう。気持ちの良い笑顔を浮かべた。

「それでは、近日中に鉢植え等を揃えてお持ちいたします」

「よろしくお願いします」

 ルスタムは玄関の外に立ち、アーナトラの背中が見えなくなるまで見送った。