アッサラーム夜想曲

あるアッサラームの詩 - 2 -

― 『あるアッサラームの詩・二』 ―




 ルスタムは、夕陽に染まる美しい邸宅をしみじみと眺めた。
 黄昏の静かな一時に、在りし日の二人を思い出す。
 花嫁ロザインの従者であるルスタムは、もう一人の従者ナフィーサと、花嫁が行く場所はどこへでも同行した。時には二人の邪魔をしないよう、見えない所まで下がる。そんな時、傍らでナフィーサはこんな言葉を零した。

「時々、お二人を見ていると、詩のように美しいと思うことがあります」

 ナフィーサは照れたように、大袈裟でしょうか? と続けたが、ルスタムも同じように思ったことがあった。
 例えば……
 アール川の河川敷にビロードの絨緞を敷いて、二人で寝そべり、のんびりと煌めく川面を眺めている後ろ姿。
 流れる風は微かに梢を揺らし、水面を揺らめかせる。せせらぎと梢の音。小鳥の囀り。静謐せいひつな美しい時間は、見ているだけで不思議と心が安らいだ。

 例えば……
 青紫色に染まるクロッカスの庭園を並んで歩く姿。
 散歩を好む花嫁は、一人でもよく中庭を歩いている。気ままに草花を眺めて、時には椅子に掛けて一休みする。
 シャイターンが傍にいる時は、それらの散歩道を並んで歩く。手を繋いで歩く姿は、見ていて微笑ましいものであった。
 他にも、数え上げれば切がない。
 朝露に光る石畳を、並んで歩く姿。木漏れ日の下で寛ぐ姿。夜のとばりの下、森の匂いの立ちこめる庭園を眺めている姿。
 中でも、特に忘れられない光景がある。
 黄金色に染まる、黄昏時。
 アルサーガ宮殿の黒いシルエットが空に浮かび上がり、白い鳥の群れが色を添えるように、優雅に飛んで行く……
 遠くで鳴る、大神殿のカリヨン。
 夕暮れの心地よい風。
 漂うジャスミンの香り。
 音も、風も、光も、香りも……全てが見事に調和していた。
 そんな詩のように美しい一時を、二人は中庭に置かれたソファーで寄り添い、夕涼みをしながら楽しんでいた。
 深い感動を受けたことを、今でも覚えている。
 アルサーガ宮殿での華々しい婚礼儀式や、二人で正装して神事に出席する姿も、厳かで素晴らしいが、それよりも、何気ない日常の光景の方が不思議と心に残っている。
 それはきっと、二人並んで寛ぐ姿が、神聖というよりも、温度のある優しさを見る者に与えるからだろう。
 そんな話をナフィーサにすると、その時の光景を隣で見ていた彼もまた、深く同意を示した。

「覚えています、その時のこと。日常の一時に、そんな感動を味わえるなんて、とても幸せだなぁと思いましたよ」

「本当に。この邸宅を建てるにあたり、苦労があった分、尚更そう感じるのかもしれませんが……」

 邸宅の完成にいたる経緯を、多少なりとも知っているナフィーサは、ルスタムを見上げて、労わるように深く頷いた。

「本当に、素晴らしいお邸宅です」

 そしてナフィーサもまた、特に忘れられない光景を語った。

「幸運なことに、日々お目にかかれる光景なのですが、殿下が青い星を仰ぎ見るお姿に、心を打たれます。青い星の御使いがアッサラームに降りてきてくださり、今私の目の前にいらっしゃるのだと……実感するあの瞬間は、もう、本当に言葉に言い表せません」

 なるほど、ナフィーサらしい……それにしても、同じ光景でも、見る者によって印象は変わるものだ。

「そうですね。同じ光景を、シャイターンは、どちらかといえば不安に思われるそうですよ」

「えっ?」

「花嫁が、神の御許に還ってしまうのではないかと思うそうです。殿下が昼でも星の見える望遠鏡を造られ、彼の星を覗いた時は、特にそう思われたとか」

 ナフィーサは表情を曇らせた。

「そんな……それは、悲しいお考えでは。殿下は、そんなおつもりはないと思うのですが」

「時には、懐かしく思われるのかもしれませんよ」

「ですが……」

「我々も神殿に預けられた時から、それまでの生活とは断絶させられますが、それでもアッサラームにいることに変わりはありません。殿下はもう……青い星に還ることは叶わないのですから」

 ――生きている限りは……

「いいえ。アッサラームこそ、殿下のお還りになる場所です」

 ナフィーサは少々むきになったように、はっきりと告げた。あのやり取りを懐かしく感じる。思えばあの年若い神官にも、しばらく会っていない。
 元気にしているだろうか?  花嫁は、危ないからとナフィーサを置いて行こうとしたが、本人は頑として譲らなかった。
 信念や忠誠に年は関係ない。ナフィーサは真剣だった。
 迷いのないナフィーサの想いは、最終的に花嫁の心を動かし、アッサラームから遠く離れた国門への同行を許された。
 東西戦争は終結に向かっている。
 もう間もなく、花嫁はシャイターンと共に帰ってくるだろう。
 また、寄り添う二人の姿を傍で見ることができる。日常の小さな感動を再び味わえるのだ。

 夕陽に染まる庭園に一人立ち、ルスタムは彼等の無事を祈った。