アッサラーム夜想曲

祈り - 3 -

― 『祈り・三』 ―




 翌朝。嬉しい知らせは続く――
 アルスランは病室の入り口に立つと、誰かを探す素振りを見せ、花嫁を見るなり駆け寄ってきた。慌ただしい様子に、周囲は何事かと顔を上げる。
 彼は花嫁の傍に跪くと、口を開きかけて迷ったように閉ざした。

「アルスラン……?」

 花嫁はアルスランの強張った顔を見て、緊張したように姿勢を正した。悪い知らせなのだろうか……ナフィーサも身構えてアルスランの言葉を待った。

「今、斥候せっこうから知らせがありました。ジャファールが、無事だと……」

「本当っ!?」

「あぁ」

「良かった――っ!」

 室内の空気は一瞬にして明るくなった。悪い知らせどころか、ここにいる全員に希望を与えてくれる、素晴らしい知らせではないか!

「おぉっ……、ご無事であったか」
「それは良かった」
「生きておられたか」
「いつ、お戻りになるのですか?」
「今、どちらに?」
「戻ってこられるのですか?」
「誰が知らせを?」

 唾を飛ばしかねない勢いで、矢継ぎ早に飛んでくる質問に、アルスランは一つずつ答えた。

「中央遠路に向かう輜重しちょう隊の、護衛任務に就いたサイードからの連絡だ。ノーヴァ側の絶壁に暮らす、山岳民族の集落にいるらしい。怪我を負っているそうだが、命に別状はないと。回復を待って、本陣と合流してから戻ると聞いた」

「良かったぁ、本当に……」

 声を震わせ目頭を押さえる花嫁を見て、あちこちでもらい泣きしている。ノーヴァから生還した飛竜隊の兵士は、その場に泣き崩れた。くぐもった唸り声を上げる同胞を、周囲の兵士が背中を叩いて慰める。

「アルスランッ! 良かったですね!」

 花嫁がアルスランの肩をぐっと掴むと、彼もようやく表情を緩めた。潤んだ眼差しを隠すようにして顔を俯ける。

「――はい」

「絶対に、会えますよ」

 花嫁は膝立ちになると、下を向いているアルスランの頭を抱きしめた。アルスランも左腕を伸ばして、花嫁の背中をきつく抱きしめる。大きな手は、少し震えていた。

「生きていてくれた……」

 掠れた声には、絶望に射しこむ一条の光を見出したような響きがあった。それを聞いて、ナフィーサの胸は杭を打たれたように締めつけられた。
 皆が待ち望んでいた知らせだが、兄弟の絆で結ばれた彼こそ、待ち望んでいたことだろう……。
 誰も口にはしなかったが、ジャファールの安否は絶望的だった。
 もう、戻ってくることはないだろうと……ほぼ全員が思っていたはずだ。ナフィーサもそうだ。気丈に振る舞うアルスランの前では、とても口にできないが、いよいよ本陣を引き上げる時、彼にどんな言葉を掛ければいいものか、昨夜も考えていたくらいだ。
 彼は、挫けずに祈り続けていた。聴きれずには、いられなかったのだろう。天は汲み取ってくださったのだ。

「大丈夫、絶対に皆で帰れます」

 花嫁が声をかける度に、アルスランは小さく頭を上下させて頷いた。昨日とは慰める立場が逆だ。ナフィーサの目には、花嫁がそうして慰める様は、とても清らかな光景に映った。
 アルスランはやがて顔を起こすと、少し赤い眼をして笑った。

「これから、撤収準備で忙しくなりますよ」

 抱擁される間に、自分を立て直したらしい。いつもの冷静な口調に戻っている。

「そういう忙しさなら、大歓迎です!」

 花嫁の笑顔は、周囲にも伝染した。木漏れ日が差すように、暖かな空気が流れる。

「ノーヴァ海岸も持ちこたえました。引き際の判断が難しかったが、ルーンナイト皇子の粘り勝ちでしょう」

「良かったぁ……」

「彼も大きな軍功を立てましたね。あとはもう、上層部の仕事でしょう。我々の任務は、後片付けと撤収編隊です」

 アルスランが周囲に向かって「お前達も、早く治せよ」と声をかけると、威勢のいい返事があちこちから返ってきた。

 +

 サルビア陣営から和睦調停の申し入れがあり、八十日以上にも及ぶ東西大戦は収束に向かいつつある。
 アルスランの言った通り、国門は大戦の事後処理に追われ、全員が深夜まで作業をしなければならなかった。
 それでも、任務に従事する兵士の顔は明るい。
 ノーヴァ海岸の飛竜大隊は早くも撤収を始め、アッサラームに向けて順々に戦地を後にしていた。
 ノーグロッジ拠点と中央拠点も撤収の目途が立ち、三十日も経てば国門を通過するだろう。
 いよいよ、アッサラームへの帰還が目に見えてきた。
 開戦から九十余日。
 花嫁はアンジェリカから二通の手紙を受け取り、返事に頭を悩ませていた。

「……謝罪の便りに対して、お返事をすれば宜しいのでは?」

 文面の仔細は知らぬが、およその事情は聞いた。アンジェリカは、送るつもりのない手紙を手違いで送ってしまい、その詫びを二通目にしたためたらしい。

「まぁね。ただ、最初に届いた手紙も、彼女の本音だからな。聞かなかったことにするのも……」

「ですが、向こうはそうして欲しいのでは?」

「うーん……アッサラームに着いたら会えるかな。顔を見て話した方が早そうだ……。僕で良ければ、いつでも話を聞きますよ……っと」

 返事の方針が決まったらしく、花嫁はさらさらと筆を走らせた――