アッサラーム夜想曲

恋と友情 - 2 -

― 『恋と友情・二』 ―




 私室に戻ると、陶器の文箱を空けて、花嫁ロザインからもらった手紙、そしてナディアからもらった手紙を取り出した。
 もう何遍も読み返している。
 想い人の手紙は簡素な文面であるが、初めて目にした時は手が震えて、そのまま倒れてしまうかと思った。幸せ過ぎて、枕元に置いて眠ったほどだ。今は箱にしまい大切に保管している。
 花嫁からは、これまでに何通かもらっている。いつも思い遣りに満ちた文面で、国門の様子なども差し支えない範囲で教えてくれる。直筆と判る、大きくて崩れがちな文字も、見ていて心が和む。美しい代筆よりも遥かに嬉しい。
 花嫁の優しさは、上辺だけでないと知っている。アンジェリカに多少なりとも気を許していなければ、こんな風に繰り返し便りを届けてくれはしないだろう……。
 実際に見せられはしないが、友情を疑うアマハノフの前に拡げて「ほら!」と言ってやりたい気持ちもある。
 五歳の時にナディアに一目惚れをしてから、特に夢みがちな性格に育った自覚はあるが、相手を思い遣れないほど鈍感なつもりはない……。
 しかし、思いにふけるうちに、短気は去り、不安が芽生えた。
 アマハノフの言う通り、友達と思っているのはアンジェリカだけで、花嫁の優しさに甘えているのだとしたら?
 実際――
 以前のナディアであれば、アンジェリカに手紙をくれるなんて、とても考えられなかった。今でこそ大分落ちついたけれど、子供の頃は彼に相当しつこくつきまとい、煙たがられたものだ。
 十歳年の離れたナディアは本当に大人で、全然手が届かない。
 片思いでも幸せだけれど……叶うことなら、両想いになりたい……。
 少しでも好きになって欲しくて、躍起になればなるほど気持ちは空回った。いつしか、縮まらない距離を、寂しく見つめるばかりになってしまったけれど……。
 花嫁に出会ってから、少しずつ好転した。この手紙にしても、花嫁の影響だろう。
 思い当たる節がある。
 以前、中庭で偶然ナディアに出会い、つれない態度を取られたところを、花嫁に見られたのだ。
 思えば、あの日を境に変わった気がする。
 遠征に旅立つナディアの見送りも、一度は本人に断られたが、花嫁が取り成してくれたおかげで軍部の敷地に入ることを許された。
 ナディアの凛々しい姿を目の当たりにして、視線をもらえた時は感動のあまり泣いてしまった。
 花嫁には本当によくしてもらっている。
 でも……ほんの少し、花嫁が羨ましい。
 つれない想い人は、アンジェリカよりも彼と話している方が楽しそうなのだ。
 哀しみに相まって、どうにもならない、醜い妬心が芽生える。歪みそうになる顔を掌に沈めて、くぐもった声を上げる。
 自己嫌悪と嫉妬が膨れ上がり、その辺を転げ回りたい衝動に駆られた。

 ――こういう時は、思う存分っ、気持ちを吐き出すに限りますわっ!!

 アンジェリカは勢いよく顔をあげると、書斎机の前に座り、紙と筆を取り出した。
 深呼吸を一つ。
 心胆しんたんを整えると、脇目も振らず、くすぶる想いを猛然と書き綴り始めた。

“殿下がお羨ましい。私はお傍にいても視線一つもらえないのに、いともあっさり視界に留まり、優しくお声をかけていただいて、羨ましい”

 不敬極まりない文面だが、今は気にしない。

“ナディア様もナディア様です。婚約者が目の前にいるというのに、殿下ばかりにお声をかけて、私のことは放置されるのですから。私は視界に入っていないとでも? その眼は節穴ですの? 嫌がらせですの?”

 つれない想い人にも、筆による舌鋒を容赦なく浴びせる。食らうが良い!
 調子が出てきた。手は休まることを知らない。天衣無縫の詩人のように、淀みなく白紙を埋めていく。

“子供の頃、ラムーダを触らせて欲しいとお願い申し上げた時、すげなく断れました。あれ以来怖くて口にできません。私が怖くてできないことを、殿下は容易く叶えてしまう。羨ましいのですわ”

 音楽を愛する人だから、ラムーダに神力が宿ると聞いて、喜ばしく思ったけれど……本当は、心のどこで哀しみも感じていた。

“こんな風に妬んでばかりいる、自分が大嫌い”

 アンジェリカは手を休めると、息を吐いた。己の未熟さに向き合うのは、勇気がいるし胸が痛む。
 けれど、顧みることも必要だ。再び机に向かうと、勢いよく筆を走らせた。

“大人になりなさい。妬んでも無意味なのだから。教養と忍耐を身につけなさい”

 短気を起こす度に思う。家族は皆、沈思黙考ちんしもっこうに秀でた佳人だというのに、どうして一人だけこうも味噌っかすなのか……。

“一途に自信があっても、主張が過ぎては意味がないのよ”

「ふぅ……」

 ようやく筆を置くと、勢いで書いた手紙を読み返してみた。
 上出来だ。
 とても人には見せられない、過激な心の声が全て書かれている。
 綺麗に封をして、アンジェリカの署名を入れた。あとは使いに渡せば届く。
 もちろん、渡さない。
 これはアンジェリカ流の、落ち込んだ時の対処方法なのである。
 勢いに任せて筆を走らせ、きちんと封をして机に眠らせる。その気になれば、いつでも渡せる、という風にしておく。しかし実際は、どんなに苛立っていても、二・三日も経てば、その手紙を本人に渡そうという気は微塵もなくなる。むしろ読み返すと、恥ずかしさの余り顔から火が出そうになる。
 最後は燃やすか細かく千切るかして、どうしようもなかった気持ちを消化させるのだ。
 一仕事を終えて、非常にすっきりした。
 しかし――
 すっきりし過ぎたせいで、アンジェリカはよりによってこの日、その手紙をしまい忘れて、書斎机の上に置きっぱなしにしてしまった……。
 更に気分転換しようと午後から出掛けてしまう。
 日頃手紙を預かる召使は、机の上に置かれた手紙を見て、いつものように回収してしまった。そのように命じられてる召使に罪はない。
 帰宅したアンジェリカが気付いた時には、手遅れだった。

「あぁぁ――っ!!」

 絹を引き裂くような叫び声を聞いて、家中の人間が集まった。アンジェリカは泣きながら、ことの顛末をアマハノフに聞かせた。

「わ、私……っ……取り返しのつかないことを……っ!! いくら殿下だって、怒られるわ! 嫌われたっ、きっと嫌われた……っ、どうしようっ」

 憐れ――慨嘆がいたんむべなるかな……。
 勝気な娘が取り乱す姿を、アマハノフは久しぶりに見た。
 しかし、その恥も外聞もなく狼狽える姿は“友達”だと言ったアンジェリカの言葉を、思慮深く明晰な彼に信じさせた。

「もし、本当に殿下が友誼ゆうぎを抱いてくださっているのなら、ご寛恕かんじょくださるだろう。出してしまったものは仕方がない。急ぎ、もう一通書きなさい。誤魔化すのではなく、偽りのない澄んだ本心を伝えなさい。嫌われたくない、友達でありたいのだと」

 賢明な父の言葉に従い、アンジェリカは胃を痛くしながら、何度も書き直した。
 完全に自業自得であるが、ぼろぼろになりながら手紙を書き上げ、縋るように召使に託す姿は憐れであった。

 結果は、果たして――