アッサラーム夜想曲

祈り - 1 -

 ナフィーサ・ユースフバード――神殿上級神官、花嫁ロザインの従者

 中央広域戦――史上最大の東西戦争では、シャイターンの花嫁の身の周りの世話を務める従者として通門拠点に同行する。

 東西戦争における後方支援の要、通門拠点「国門」にて、ナフィーサは花嫁らと共に、日夜運ばれる負傷兵の看護に奔走。多忙を極める日々の中、花嫁の傍で幾つもの苦楽を共にし、ナフィーサは十二歳になっていた。
 目まぐるしく日々。出会ってから、およそ一年半近くが経とうとしていた――




― 『祈り・一』 ―




 代々神官を務める名門に生まれたナフィーサは、五歳になると共に親元から離され、大神殿の神官宿舎に預けられた。
 短い子供時代は終わりを告げる。
 それまでの裕福な暮らしから一遍して、厳しい沈黙の戒律、贅沢とは対局にある清貧の暮らしを強いられた。最初は辛くて泣いてばかりいたが、どれだけ泣いても、無邪気な子供時代には戻れなかった。
 給仕や召使の仕事をしながら、あらゆる礼儀作法を学んだ。
 末子のナフィーサは内省的な性格で、幼少時は優秀な兄達の影に隠れがちであった。しかし、神官宿舎で共同生活を送るうちに才能を認められ、七歳になる頃には一位神官として、典礼儀式に従事するようになる。
 八歳を迎える頃には、早くも上級神官として認められ、天球儀の指輪を授けられた。高名な最高位神官シャトーウェルケ、サリヴァン・アリム・シャイターンや神殿楽師シャトーアーマルのイブリフ老師から、天文学信仰を学び、同時に公宮作法や様々な神事を学んだ。
 そして九歳の終わりに、運命は大きく動く。
 厳しい聖戦のさなか、ムーン・シャイターンが花嫁を得た朗報に、アッサラーム中が歓喜した。
 アッサラーム軍の凱旋直前まで、大神殿では花嫁の傍に召し上げる神官人事について、協議が交わされていた。
 一名はムーン・シャイターンに幼少時から仕えている、ルスタム・ヘテクレースにほぼ確定していたが、もう一名の選定に難航していた。
 由緒正しいユースフバード家も候補に挙げられていたが、優秀な兄が上に二人いるので、ナフィーサは己に白羽の矢が立つとは露ほども考えていなかった。
 審査過程は極秘の為、詳細は不明であるが、神殿の選定をムーン・シャイターンが認可する形で、最終的に選ばれたのはナフィーサであった。

 ――私に務まるのでしょうか……。

 最初は戸惑いの方が大きく、凱旋の日を迎えることが怖くもあった。
 家族からは賛辞と激励を送られ、栄えある名誉を受け入れなくては……そう思っていた。
 初めて主となる花嫁に出会った日のことを、今でも忘れない――

「あ……僕は光希と言います。これからお世話になります。よろしくお願いいたします」

 花嫁は年の割に小柄で、本当に、黒い髪と瞳をしていた。
 清らかで親しみやすい笑顔を見た瞬間に、迷いは消えた。この方に全身全霊をかけてお仕えしよう、そう心に決めた――

 +

 あれから、一年半。ナフィーサの信仰と生活は、全て花嫁と共にある。
 ルーンナイト皇子が国門からノーヴァ海岸に向けて軍を発した後、アッサラームと通門拠点間の伝令を務めるケイトが、任務の合間を縫って国門へ立ち寄った。
 ナフィーサは敬愛する主を想い、とある提案をする。
 机の肥やしになっている花嫁の手紙を、ムーン・シャイターンに届けるのだ。ケイトに託すと快諾と共に、その日のうちに前線に向かってくれた。
 数日後。ケイトはムーン・シャイターンの返事を携えて、国門に無事帰還を果たした。

「ありがとう、ケイト!」

「お役に立てて、光栄です」

 返事を両手で受け取り、満面の笑みを浮かべる主を見て、ナフィーサはケイトと密かに視線を交わし、互いの健闘を讃え合った。
 すぐにでも手紙を読みたいであろう、主の傍をしばし離れる。
 頃合いを見て私室を訪ねると、花嫁は寝椅子に深く沈み込み、手紙を握りしめたまま涙を流していた。

「殿下……?」

「あ、ごめん……心配しないで。悪い知らせじゃないから」

 花嫁は頬を流れる涙を拭いながら、照れくさそうに笑った。

「お茶をご用意したのですが……」

「ありがとう。もらうよ」

 ジャスミンを浮かべた紅茶をカップに注ぎながら、花嫁に尋ねてみた。

「……ムーン・シャイターンは、なんて?」

「うん……順調みたい。ヤシュム達も皆元気だって。あとは、僕の心配ばかり書いてあるよ。衛生の手伝いも程々にとか、クロガネ隊の仕事まで掛け持ちは止めなさいとか……」

「その通りでございますね」

「僕が斥候せっこうの中継は難しいって書いちゃったものだから、アルスランによく相談するようにって、いろいろ助言が書かれてるんだけど……僕のせいで困ったことになってないか、心配になってきた」

 花嫁は手紙から顔をあげると、不安げに視線を揺らした。

「アルスラン将軍がいらしてから、ここも大分落ち着きましたよね。お忙しくされていますが、皆同じでございます。殿下も十分お忙しいではありませんか」

「僕は要領悪いだけ。アルスランってすごいよね……ジュリがナフィーサの仕事ぶりを褒めてるよ。この手紙の件にしても……面倒ばかりかけて、ごめんね」

「いいえ! とんでもありません」

「ジュリ、すごく喜んでくれたみたい……。背中を押してくれて、ありがとうね」

 穏やかな笑みを浮かべる主を見上げて、ナフィーサも表情を綻ばせた。

「我が喜びです」

「はぁー……、会いたいなぁ」

「そうですねぇ……」

「ジュリの顔を忘れそうだよ」

「まさか!」

 なんという不敬を口にするのか。しかし、花嫁の瞳は「冗談だよ」と笑っている。

「早く、お戻りになって欲しいですね」

「本当にね……そのうち、手紙に向かって話しかけちゃいそうだよ」

 主は寂しそうに手紙を眺めたかと思えば「元気?」と本当に声をかけた。
 返事を届けたくとも、間もなくノーヴァ海岸と中央陸路で同時に開戦を迎える。しばらく個人的なやりとりを交わす余裕はなくなるだろう。

「……ナフィーサ、大きくなったよねぇ」

 茶器を片そうと立ち上がると、花嫁はナフィーサを見上げて、唐突に呟いた。

「そうですか?」

「初めて出会った時は、僕よりずっと小さかったのに……。何歳になるんだっけ?」

「十二でございます」

「来年はもう成人かぁ」

 親が子の成長を愛でるような眼差しを向けられ、ふと照れくさい想いに駆られた。

「ナフィーサが成人にくサーベルには、僕が彫刻を入れるよ」

「え、本当ですか?」

 シャイターンの花嫁は、優れた細工師でもある。特にくろがねの彫刻には、素晴らしいシャイターンの加護を宿すのだ。

「うん。何でも好きなを入れてあげる」

「ありがとうございますっ!」

 晴れやかな気持ちで、ナフィーサは満面の笑みを浮かべた。
 ナフィーサは、サリヴァン師のように星詠神官メジュラを目指しているが、花嫁に仕える限り護剣の役目も担う。刀身に花嫁自ら神力を与えてくれたら、きっと何よりも強い剣となるだろう。

「そのうち、背も抜かされちゃうんだろうなぁ……」

 誇らしい気持ちで頷いた。そうでなければ困る。花嫁を守る従者なのだから――