アッサラーム夜想曲

恋と友情 - 1 -

 アンジェリカ・ラスフィンカ――ナディア・カリッツバークの婚約者

 東西戦争の開戦から八十日、ムーン・シャイターンがハヌゥアビスに勝利したことにより、戦況はアッサラーム軍に大きく傾いた。
 中央陸路をアッサラーム軍が制すると、ノーヴァ海岸を猛攻していたサルビア軍も不利を悟り、中央から送られたアッサラーム軍の援軍と殆ど一合もせずにして撤退した。
 アッサラーム陣営が今大戦における二大拠点を制圧すると、その他拠点の混乱も次第に治まり、サルビア軍はアッサラーム軍に和睦調停を申し入れた。
 開戦から九十日。
 アルサーガ宮殿では戦争終結に向けて、事後処理に追われていた――




― 『恋と友情・一』 ―




 アンジェリカの父、アマハノフ・ラスフィンカ、そして長兄、ルシアン・ラスフィンカは東西戦争における、サルビアの属国、ベルシア公国との外交を担当していた。
 ベルシア公国はバルヘブ東大陸の最南端に位置する要塞都市で、王を冠するサルビアに従属しながらも、政権交代を狙って過去に何度か反乱を起こしている。アッサラーム陣営は開戦前、ベルシア公国に巨額の資金援助と引き換えに、サルビア軍の発する東連合軍からの離反を約束させていた。
 この交渉成立には、長い経緯がある。
 ベルシアは交渉の劈頭へきとう花嫁ロザインの身柄を要求してきた。しかし、ムーン・シャイターンが断固拒否するや、貿易航路の融通や城塞の明け渡しといった無理難題を求めた。交渉は難航したが、最終的にサルビアの提示した報酬金額の二倍を支払うことで納得させた。
 この交渉を中心になってまとめた人物こそ、アマハノフである。
 彼は既にアッサラームに帰還し、アルサーガ宮殿に従事しているが、ルシアンは今もベルシア公国に残り現場交渉役を務めていた。

「お父様。アッサラーム軍は中央拠点を発ったとお聞きました。戦争はもう終わるのに、ルシアンお兄様はまだ戻れませんの?」

 柔らかな斜光の射す書斎に、少女の思案げな声が流れた。
 ルシアンがベルシア公国に渡航してから、既に半年が経過している。一向に帰還目途の立たない兄のことを、アンジェリカはずっと心配していた。

「耳が早いね。まだ、しばらくは無理だろう。東西の対決は一先ず決着がついたが、ベルシア公国はこれからが勝負だ」

 いかにも知的な紳士、アマハノフは書斎机に筆を置くと、諭すようにアンジェリカを見つめた。

「納得できません。こちらは約束した金額を全て納めるのに、何故お兄様を返してくださらないの」

「サルビアにしてみれば、ベルシアの離反は裏切りでしかない。報復も兼ねて、東西戦争の負債をベルシアで清算しようと考えているだろう。だからベルシアも、アッサラームとの縁をまだ切りたくないのだよ」

 言わんとすることは判る。しかし、アンジェリカは不服そうに眉をひそめた。

「私達に、ベルシアの戦争を手伝えとでも?」

「何しろ遠い。遠征は無理だが、今後何かしらの要請をしてくることは考えられるね」

「切がありませんわ!」

 苛立たしげに声を荒げると、穏やかな紳士は、やむをえまいと言うようにため息をついた。

「気持ちは判るが、無下にも突き放せまい……サルビアが戦争を長期化せず和睦調停を申し入れたのは、自国の背後への憂慮があったからこそだ」

 ご尤も――やるせなさを噛みしめながら、アンジェリカは沈黙を強いられた。
 サルビアは自国の背後に、虎視眈々と反乱を狙う勢力を残している。故に、軍事の主力を国から長く遠ざけていることに危機感を持っているのだ。その背景があるからこそ、短期間のうちに調停は進められていた。

「……アッサラーム軍が凱旋する時までには、ルシアンお兄様も戻ってこられるかしら?」

 少女が声の調子と肩まで落として尋ねると、アマハノフは瞳に愛情を灯して愛娘を見やった。

「その時までには、大分情勢も落ち着いているだろう」

「皆で喜びを分かち合いたいもの……お兄様方にも、傍にいて欲しいわ」

 寂しげな声を、紳士は優しい微笑で受け留めた。

「ベルシアも保険が欲しいだけで、ルシアン達を本気で危険に晒すつもりはないよ。我々を怒らせたら、酷い報復が待っていることは向こうも承知しているはずだ」

「お父様やルシアンお兄様ばかり、ご苦労なさっている気がするわ……ベルシアに関して、議会の皆様方はお味方になってくださらないの?」

 彼はベルシアから帰還した後も、毎日遅くまで執務に携わっていた。たまに私邸に帰ってきても、仕事を山ほど持ち込んで書斎から殆ど出てこれない。
 ノーヴァ壊滅の一番苦しい時期には、保身に走る議会に拘束される傍ら、和平交渉に携わった貴人達の間を奔走して離反を防いでいた。

「お前は笑ったり怒ったり、忙しいね。この間までナディア殿の心配に忙しかったのに」

 案じられることを嬉しく思いながら、アマハノフはからかうように笑った。アンジェリカも誘われるように、笑みを閃かせる。

「ナディア様のご無事は確信いたしましたもの! 中央はノーヴァ海岸に援軍を派出する余裕も生まれましたし、ムーン・シャイターンもいらっしゃいますわ。国門に発つと聞きましたし……もう大丈夫ですわ」

 アマハノフは感心したように目をまたたいた。

「やぁ、本当に最近とても耳聡いね。私の書斎に潜りんでいるのかね?」

「心強い味方がいるのですわ」

 澄ました顔で告げると、ふと彼は思案気な色を顔に浮かべた。

「お前まさか、殿下のことを言っているんじゃないだろうね……」

「その通りですわ」

「アンジェリカ……」

 窘めるような声の響きに、アンジェリカは肩を竦めてみせた。

「お返事を強請ったりなんてしていませんわ。お手紙は、全てご好意でいただいたものです」

「うーん……殿下は非常にお忙しいのだから、お手を煩わせてはいけないよ。お前は口を開くと止まらぬし……」

「私そんなに礼儀知らずではありません。それに殿下とは、お友達なのです」

 少々誇らしげに胸を張って応えたが、アマハノフは告げる言葉を迷うような、煮え切らない表情を顔に浮かべた。

「お前はよく勘違いもするからなぁ……」

「お父様っ」

「親しみやすい方でいらっしゃるけれど、天上人であらせられることを忘れてはいけないよ」

「もちろんです。忘れたことなどありませんわ」

 アンジェリカはしおらしく頷くと、書斎机にルシアンに充てた手紙を置いた。いつもアマハノフに預けて届けてもらっているのだ。
 楚々とした仕草でアンジェリカが退出すると、アマハノフはようやく娘の機嫌を損ねたことに気がついた。諭すような口調がいけないのだと判っていても、ついつい可愛い娘を想うと、余計な言葉を重ねてしまう。
 手紙を手に取ると、静かに微苦笑を零した。
 賢人と言われていても、秀でた外交手腕を万事発揮できるわけではないのである。