アッサラーム夜想曲

慟哭 - 2 -

 ― 『慟哭・二』 ―




 しばらく馬を走らせると、来た時と同じように視線を感じた。サイードは下馬すると、山中に向けて声を発した。

「敵意はない! こちらは三名だけだ。姿を見せて欲しい」

 少し待つと、茂みを揺らして五名の山岳民族の男が姿を現した。黒い肌に白い墨を入れており、頭髪は複雑に編み込まれている。サイードの胸あたりまでしか身長はないが、恐ろしい戦闘民族であることに間違いはない。口から突き出た鋭い犬歯は、巨木を噛み砕く力を秘めている。戦闘になると、鋭い牙で獲物に襲いかかるため、蛮族と呼ばれる所以でもある。
 彼等は鋼の戦棍せんこんを手にしていたが、サイード達が両手を見せると、いくらか警戒を解いた。

「……首領が、お前達に会いたいと言っている」

 彼等の一人が、抑揚のない低い声で淡々と告げた。

「何?」

 訝しげに片眉をひそめるサイードを見るや、余計なことは口にせず、背中を向けて歩き始める。

「……ついてこい」

 彼等の二人が背後に回ると、ヨルディンは警戒して剣を抜いたが、サイードは制した。大人しく従うサイードを見て、他の二名も剣をしまう。
 彼等は自分達のことを「ヌイ」と名乗り、サイードら三名を彼等の集落に連れ帰った。
 そこはノーヴァ海域に面した断崖絶壁で、岩肌には無数の穴が開けられ、入り組んだ階段が築かれていた。恐ろしく難攻不落な自然の要塞だ。

「これは驚いた……」

 サイードは感心して呟いた。アッサラームでは野蛮と蔑まされる彼等だが、決して劣った暮らしをしているわけではないことは、この集落を見れば一目瞭然である。

「どこへ連れて行くのだ」

 ヨルディンが尋ねても、ヌイ達は答えなかった。彼等の言う、首領の前に連れて行かれるまで、口を開く気はなさそうだ。
 サイード達は格別大きな石造りの建物に通された。主柱や壁面には精緻せいちな金色の装飾が施されており、広い廊下には優美な彫像が飾られている。石の特性を生かした荘厳で美しい建物だ。外にも中にも武装した大勢のヌイ達がいる。ここに首領がいるのかもしれない。
 サイード達はいよいよ面会を予期して身構えたが、案内された広々とした一室で、意外な人物を目にした。

「ジャファール……ッ!」

 ジャファールを含む三名のアッサラーム兵が、寝台に力なく横たわっていた。見るからに満身創痍だ。身体を覆う包帯は、ところどころ黒く変色している。サイード達は慌てて彼等の傍へ駆け寄った。

「生きている!」

 ヨルディンはジャファールの呼気を確認すると、歓喜の声を上げた。味方に気付いた寝台の兵士は、嬉しそうに顔を輝かせた。

「来てくれたのか……っ」

 腹に包帯を巻いた四十前後の兵士は、オルベスと名乗った。もう一人、モンバールという若い兵士とジャファールは重傷を負っており、意識はない。額に汗の玉を浮かせて、苦しそうに呻いている。
 だが、生きていてくれた。奇跡だ。シャイターンよ、感謝するぞ!!
 サイードはオルベスの肩に手を置くと、縋るような眼差しに力強く頷いて応えた。待ち望んでいただろう吉報を告げる。

「ハヌゥアビスに決勝した。アルスラン将軍も無事だ」

「おぉ……っ」

 オルベスは顔に喜色を浮かべ、次いで顔を歪めた。歯を食いしばって、ぼろぼろと涙を流す。

「ありがとう、あぁ……、良かった、良かった……っ」

 その様子には、サイード達も思わず目頭を熱くさせられた。味方のいない果ての地で、一人意識を保ち、さぞ不安を抱えていたことだろう……。
 サイードは部屋の隅に控えるヌイ達を振り向くと、心からの感謝をこめて最敬礼をした。

「仲間を助けてくれて、ありがとうございます」

 サイードに倣って全員が深く頭を下げた。

「礼には及ばない」

 部屋に立派な宝飾具を身につけたヌイが入ってきた。他のヌイに比べて、明らかに威厳があり、周囲のヌイ達も彼に対して頭を下げている。

「私はヌイの首領、スーラと言う。彼等を助けたのは、借りを返すためだ」

 堂々たる外見に見合った、落ち着いた口調で告げた。

「借り?」

「そうだ。開戦前にアッサラームの民と各部族達で、同盟を交わしていた。しかし、いざ東西の闘いが始まると、山岳の民は無思慮にアッサラーム軍を襲ってしまった」

 その言葉に、誰もが沈黙した。
 本隊が通門拠点から進軍を開始して間もない頃、山岳戦闘民族の奇襲に苦しめられ、ついには湿地帯で数千もの兵を虐殺されたことは記憶に新しい。

「襲ったのはエゾの民であったが、そなたらにしてみれば、山岳に暮らす民は皆同じであろう。ウラノ河で戦闘が起きた時、我々は更なる報復を覚悟した。ところが、偵察の者達からシャイターンは追討を避けたと聞いた。最初は信じられなかったが、その後の進軍で証明された。そなたらは我々に報復せぬまま、ついにサルビアと激突した。神々の震う力に、空も大地も怯えている。もうこれ以上血を流す必要はない……」

 厭わしげな口調であったが、深い樹林を思わせる双眸に、憎しみは浮いていない。在るのは哀しみだけ……。

「大切な仲間です。お助けいただき、感謝の言葉もありません」

 礼節に則った一礼で応えると、スーラはゆっくり首を左右に振った。

「許したわけではない。そなた達はいつも、東西の争いに我々を巻き込む。森を荒す蛮族はそなたらの方だ。今回はシャイターンに借りを返しただけ。そこに寝ている男の傷が癒えたら、連れて出て行け」

 サイードは再び無言で頭を下げた。
 互いに禍根はあれど、アッサラーム軍の理性的な振る舞いを評価し、情けを与えてくれたことに違いはない。
 苦難の果てにも、希望はある。この吉報を耳にすれば、皆喜ぶだろう。