アッサラーム夜想曲

ノーグロッジ海上防衛戦 - 3 -

 ナディア・カリッツバーク――ノーグロッジ配置後、中央広域戦陸路大将。

 中央広域戦――史上最大の東西戦争では、ノーグロッジ上空で総指揮を務めた後、ムーン・シャイターンからの召集に応じ、中央陸路の戦力に加わった。

 ノーヴァ壊滅により、中央陸路は勢いづいたサルビア軍に押され、一時撤退を余儀なくされる。
 アッサラーム軍は苦しい選択を迫られることになった。
 国門から挙兵したルーンナイトが、ノーヴァ海岸にてサルビアを迎え撃とうとしている時、中央陸路でもまた、ナディアを交えて最後の決戦に挑もうとしていた――




 ― 『神威・一』 ―




 ナディアは暗闇に乗じて、密かに中央陸路に上陸を果たした。
 苦しい戦況に兵達の顔色は芳しくなかったが、ナディアに気付くと、眼を輝かせて歓迎を口にする。
 負傷している者も多いが、瞳の輝きは失われていない。今日まで前線を耐え抜いた彼等は、もはや全員が精鋭と言えるだろう。

 野営地を歩いていると、ムーン・シャイターンの方から出迎えた。神々しい覇気をまとう主君の姿に、ナディアは知らず安堵を覚えた。

「申し訳ありません。起動が遅れました」

  跪いて最敬礼で応えると、すぐに「立ってください」と頭上に声が降る。

「こちらこそ、急がせてすみません。今、ノーヴァ海岸にルーンナイトが向かっています。アッサラームからの援軍も間もなく現地に到着するでしょう」

「では、アースレイヤ皇太子が動かれたのですね」

 希望の持てる見通しに、ナディアは破顔した。聖戦の時は、味方の増援と補給が滞りがちで、内なる不信に苦しめられた苦い経験がある。今回、その心配はいらぬようだ。
 同じことを思ったのか、主の美貌にふと冷ややかな笑みが閃いた。

「流石にルーンナイトを見捨てることは、あの男にも難しいのでしょう」

「それだけでは、ないと思いますよ」

「この大戦に負ければ、莫大な負債が残りますからね。宮殿も動かざるをえないでしょう」

「……全体を見渡して、勝算を見出したからこその判断でしょう」

 窘めるように告げると、彼も態度をあらため、微苦笑と共に「判っています」と応えた。

「ジャファール達は無事でしょうか?」

「アルスランは通門拠点にいるそうです。重傷を負ったと聞きましたが……。ジャファールの行方は私にも分かりません」

 愕然とした。シャイターンの神眼を持ってしても行方が知れない。もはや安否は絶望的なのか。
 苦い想いが胸に広がってゆく。アルスランの行方については聞き及んでいた。ではジャファールもどこかに伏しているのではと、密かに期待していたのだ。

「ノーヴァを想うと……彼等を孤立させてしまったことが悔やまれます」

「私も同じ気持ちです。ハヌゥアビスの決着を長引かせたことは、私の責です。弁解の余地もありません」

 厭わしげに息を吐き、彼方を見つめる。昏い眼差しに、彼の苦悩が見て取れた。

「無事でいて欲しいですね……」

 ムーン・シャイターンは無言で頷いた。天幕へ戻る主君の背中を見送った後、ナディアは野営地を騎馬で巡り、各将に声をかけて回った。

「ナディア! よく来たな」

「間もなく中央も衝突するぞ。よく身体を休めておけよ」

 ナディアに気付いたヤシュムとアーヒムが、傍へ駆け寄ってきた。
 二人の変わりない精力的な姿に、自然と笑みが零れる。この豪胆な二人を見ていると安心する。どんな戦いにも勝てそうな気がしてくる。

「ノーグロッジはどうであった?」

「開戦時こそ三十万を越えておりましたが、渓谷狭路の利に助けられ、どうにかしのげました。サルビアは主戦力を完全にノーヴァに移しています。こちらも二千を残してきましたが、一万五千を移し終えました」

「ノーヴァは口惜しいな……」

「はい……皆も同じ気持ちでしょう。静かな覚悟を感じます」

「ちと、表情が硬すぎるよな。ナディア、ラムーダを持ってきているか?」

「ええ」

「弾いてやってくれ。慰めになる」

「いいですよ」

 ヤシュムに限らず、ナディアを見かける将兵達の多くは、演奏をせがんだ。
 弾けば、ナディア自身の安らぎとなるので、夜になると篝火かがりびの前で頻繁にラムーダを演奏した。時にはムーン・シャイターンも輪に加わり、アッサラームをしのぶ曲に耳を傾けた。

 ――この過酷な日々の果てに、金色のアッサラームに戻れるのだと、希望を持ちたい……。

 花嫁ロザインに入れてもらった睡蓮のは、音色に深みを持たせてくれる。特に故郷を想い奏でれば、アッサラームの情景が不思議と鮮やかに心に蘇った。
 弾く度に毎回誰かしら泣いてしまうのは、そのせいだろう。
 魂を震わせるような演奏に触れて、ナディアは密かに思うことがあった。

 ――望まれて将になったが、いつの日か、前線を退く時が来たら……その時は、イブリフ老師のように神殿楽師シャトーアーマルになりたい。

 望まれたとはいえ、将として戦場に立つことを選んだのはナディア自身だ。後悔はしていない。ムーン・シャイターンに仕えることに、喜びも見出している。
 けれども、叶うことなら半生は、静かにラムーダをつま弾いて過ごしたい。
 思いふけっていると、ふと聴衆の中に伝令のケイトの姿を見つけた。
 彼のもたらしてくれた、各拠点の確かな情報には吉報が多く、特にアルスランの復調には、全員が顔を輝かせた。
 また、花嫁の手紙をムーン・シャイターンに届けてくれたようで、張り詰めた表情をしていた主君を想うと、心から嬉しく思った。何よりの癒しとなるはずだ。

「あの……素晴らしい演奏でした。本当に、アッサラームが恋しくなるくらい……」

 ケイトのくれる言葉に、自然と笑みが零れた。光栄だが、彼のもたらしてくれた吉報と手紙の効果には遠く及ぶまい。

「殿下からいただいた曲ですよ。もう何遍も弾いていますが、その度に安らぎを与えてくれる。お前も私も、早くあの街に帰れるといいですね」

「はい」

 昼夜を兼行して空を翔けたケイトは、野営地で仮眠を取った後、ムーン・シャイターンの返事を始め、ナディアやその他の将兵の託した手紙を持って野営地を後にした。
 少々危なっかしい飛翔ではあったが、上昇した後はどうにか西へ飛んで行った。
 昨日よりも、明るく輝く主君の表情を見て、ナディアも密かに表情を綻ばせたのであった。