アッサラーム夜想曲

ノーグロッジ海上防衛戦 - 4 -

 ― 『神威・二』 ―




 中央勢力は、ナディアを加えても十万に満たなかった。それに対し、サルビア軍は倍のおよそ二十万で迫ってくる。
 開戦時と比べれば、その数を大分減らしているが、それでも兵力差は開いていた。

「――基本配置は、左翼騎兵部隊をアーヒム、中央の混成部隊をヤシュム、そしてナディア、右翼騎兵部隊をデメトリスとしましょう」

 アッサラーム陣営では、ナディアを交えて、初日に投じる編隊について軍議が交わされていた。

「私が中央で良いのでしょうか?」

「ヤシュムは激しやすいからな、手綱をよろしく頼む」

 アーヒムはにやりと笑い、ヤシュムをからかった。

「頼りにしているぞ」

 ヤシュムは笑いながらナディアの肩を叩いた。頼りにしている、と言われたが、心強さを覚えたのはナディアの方であった。

「私は中央後方に控えますが、固定編隊には入らず、ハヌゥアビスに集中します」

 ムーン・シャイターンの言葉に全員が頷いた。間違いなく、今戦いにおける最重要任務だ。

「向こうも重装四足飛竜は在庫切れのようだが、重装歩兵隊で初戦に臨むであろう。とはいえ、連戦の爪痕が残り、足場は酷く乱れている。鉄壁の布陣にも限界があるはずだ」

「適当に伏兵を配すか?」

「そうですね……。足場の悪さは逆に使えます。前線を上げながら、伏兵を配してください。適当に剣を交えた後、退却し挟撃しましょう」

 ヤシュム、アーヒムの言にムーン・シャイターンは乗った。

「では私が陽動を仕掛けましょう。本隊を退却させ、敵をして追躡ついじょうせしめ、塹壕ざんごうの手前までおびき寄せよう。そこで本隊を反転させ、伏兵も敵の両側面から立ち上がり挟撃する」

 鋭い眼光に自信を溜めて、アーヒムは取り巻く顔ぶれを眺める。その視線には、仲間に寄せる信頼が浮かんでいた。

「隙間のない重装歩兵も後ろを狙えば、恐るるに足らずだな」

 ヤシュムは腕を組むと、満足そうに口端を持ち上げた。
 彼等の滑らかな軍議の様子を見て、ナディアは感心せずにはいられない。随分と打ち解けたものだ。聖戦の時とは大違いだ。
 あの頃――
 彼等は水と油ほどに険悪……と言うか、反りが合わなかった。
 オアシスで花嫁を得てから事態は徐々に好転したが、それでも今の自然な空気には及ばない。
 幼い頃からムーン・シャイターンの側近として育てられたナディアは、大切な主君に対する周囲の反応を、常日頃からもどかしく思っていた。
 我が君は、花嫁を得てから、変わったのだ。
 皆の中心となって弁を振るう主君を見て、誇らしく、喜ばしい気持ちが胸の内に湧き起こった。
 軍才や、シャイターンの神力に長けているからだけではなく、彼自身の人となりが周囲を惹きつけているのだ。以前は薄かった“忠”が集まりつつある。
 列席している将達も、頼もしく感じていることだろう。
 初日の作戦を決めた後は、自然と軍議を減らし、その他の準備を進めた。アーヒムやヤシュムらは、しばしナディアの天幕を訪れては、連携機動について弁を交わした。
 いよいよ明朝に開戦を控えた夜。
 篝火かがりびの前に自然と将兵らは集まった。

「アッサラームが恋しいな……」

「俺もそろそろ帰りたいです」

 アーヒム、ヤシュムの隣に堂々と座っている上等兵――ユニヴァースは、実にくつろいだ様子で酒を飲んでいた。

「あ! お前、それ俺の酒じゃねぇかっ! わざわざ取っておいたんだぞ!」

 自前の酒に手を出されたようで、ヤシュムは腹立たしそうにユニヴァースの後頭部を叩いた。

「このやろっ!」

「った! すんません」

「お前ら子供か?」

 アーヒムは「ん?」と言いながら、呆れたようにヤシュムとユニヴァースを半目で眺めた。
 用意の良いアーヒムは、畜牛を調理させて、酒と共に将兵に公平に振る舞った。
 決戦を控えて多くの兵が殺気立つ中、歴戦の将達は実に泰然としたものだ。
 賑やかに騒ぐ彼等の様子を眺めていると、ムーン・シャイターンが隣で笑う気配がした。

「煩いでしょう?」

「いい空気ですよ。頼もしいですね」

「ナディアの参戦で、更に士気は高まりましたよ」

「もっと早く駆けつければ良かったのですが……今更ながら、敵の大軍勢で移動が隠され、機動が遅れたことが悔やまれます」

「……ノーグロッジの配置では、苦しい思いをさせました」

 ノーグロッジに最小の兵力を当てたことを、開戦前から彼は気にしていた。

「いいえ、他に選択肢が無かったことは、よく分かっています。あそこは地形にも恵まれていました。私やジャファールでも、他に兵力を回す判断をしたことでしょう」

 ナディアが言葉を重ねても、なかなかそうは思えないようで、この話題になると最後は決まって沈黙が落ちる。

「苦しみは皆同じです。今悩むのは、やめましょう。私もやめます」

「……そうですね」

「ところで、殿下から手紙をもらったのでしょう? お変わりない様子でしたか?」

 沈んだ空気を払おうと、思いつきを口にすると、途端に彼は表情を和らげた。

「想像はしていましが、将兵に交じって奔走しているようです。光希らしい……」

「ケイトが天の御使いに見えましたよ。アルスランの意識が戻ったと聞いて、ほっとしました」

「ルーンナイトの抜けた穴を、アルスランがよく補っているようです。通門拠点が機能していると、兵の士気も上がる。優秀な支隊が後ろにいてくれると心強い」

 実感の籠った声で語るや、ふと遠い眼差しをする。先の闘いを思い浮かべていることは容易に想像がついた。

「聖戦の時は、苦労しましたものね」

「本当に。あの時ハヌゥアビスがいたら、全滅もありえましたね」

 さらりと飛び出した不吉な言葉に、ナディアは苦笑いで応えた。

「早く、ここにいる全員でアッサラームに帰りたいものです」

「そうですね……」

「もう随分経つような気がします。ラムーダを弾く度、望郷に駆られてしまう……。殿下のおかげで音色に深みが出ました。無事に帰れたら、あらためてお礼申し上げるつもりですが、せっかくケイトが通りかかったので、私も手紙を渡しましたよ」

 ムーン・シャイターンは怪訝そうに柳眉をひそめた。

「光希に?」

「はい」

「人の花嫁に送る前に、自分の婚約者に送ったらどうなんですか?」

 視線に微かな嫉妬が滲む。相変わらずの寵愛ぶりを見て、つい微苦笑が漏れた。

「送りましたよ。アンジェリカに対する態度が冷たいと指摘を受けてから、少しあらためているんです」

「あの娘は、さぞ喜ぶでしょうね」

「別に嫌いではないのですが、彼女の前に立つと自分が玩具か、珍獣にでもなったような気分にさせられますよ。そうですね、忘れていました。アッサラームに帰ったら、彼女の相手をしなくてはいけないのですね……」

 心穏やかな静けさとは対局に在る少女を思うと、つい「面倒だな」と思ってしまう。更にため息をつくと、隣でムーン・シャイターンが珍しく声を上げて笑った。

「どうも、ナディアと話していると気が緩むな……」

 愉快そうにしている主君を見て「まぁいいか」とナディアは一先ず自分の憂鬱を後回しにした。