アッサラーム夜想曲

ノーグロッジ海上防衛戦 - 2 -

 ― 『ノーグロッジ海上防衛戦・二』 ―




 サルビア軍の挑発と襲撃は長く続いたが、二十日を凌いだ辺りから衰えが見え始めた。
 この頃、補給物資満載の輜重しちょう隊をことごとく狩り獲っていた為、敵の大型飛竜は弱り始めていた。
 補給を叩いた効果が現れてきたと味方は喜んだが、ナディアはに落ちなかった。
 ついにサルビア軍の進撃が止むと、野営地に引き上げるなり、全ての将を招集して軍議に臨んだ。

「あれほど有利な状況にありながら、進撃がないのはおかしいと思いませんか?」

 憂慮を口にしたが、見渡す将らの顔に、およそ緊張感は浮いていなかった。

「重い飛竜隊を動かす余力がないのでしょう」

「こちらの動きに慎重になってるのでは?」

「高をくくっていたろうに、さぞ悔しい思いをしているでしょうな」

 ナディアの懸念を、将達は前向きに捉えていた。出し抜いてやったと、こちらこそ高をくくっているように見える。

「補給が途絶えれば、猛攻に走るもの……食糧不足は恐怖なはず。なのに、あの余裕はおかしい。何か隠しているとしか思えません。こちらの負担が減った分、ノーヴァの負担は増えたのではないでしょうか?」

 なおも懸念を口に乗せるが、見返す視線は明るいものばかりだ。

「向こうは快進撃を続けていると、合図があったばかりです」

「おぉっ」

「流石、空の二柱が構えているだけある!」

 果たして、本当にそうだろうか……。

「敵の戦力を確認したい。これまでの斥候せっこうの報告を、些細なことでも構いません。全て教えてください」

 ナディアはノーグロッジの仔細な地図の上に、各将からの報告を元に、敵兵力に見立てた駒を置き直していった。
 そうして整理し直してみると、ふとあることに気付いた。

「――やはりおかしい。後方の拠点は、無人である可能性が高い。遠目に旗を見たと言えど、空に野鳥が群がっていると報告にあったのですよね? 既に軍を引き払っているのでは?」

 もはや揺るがぬ疑心を視線に込めて見渡すと、眼には見えぬ緊張が、細波(さざなみ)のように周囲に走った。

「密集した中央拠点は、確かに正確な情報を掴み辛い。とはいえ、これほど有利な状況にありながら、撤退する理由が敵にありますか?」

 瞳に動揺を浮かべて、一人が口を開いた。

「ノーヴァの快進撃を恐れて、敵が標的を向こうに絞ったのだとしたら?」

 ナディアの鋭い指摘に、全員の表情が強張った。思考を閃かせると、各々考えうる展開を口走る。

「一理ある。こちらは膠着状態も同然。開戦から兵力は然程動いていないが、ノーヴァは二十万もの飛竜大隊を討ち取ったと聞く……」

「それが本当であれば、少なくとも一万以上の兵力がノーヴァに移動していることになる……」

「持久戦として成功を収め過ぎたか。まずいことに、ノーヴァはここよりも地形が難しい。狙われたら孤立してしまう」

「補給経路を絶ったことで、敵を追い詰めたのかもしれん」

「――とにかく、烽火ほうかで知らせねば」

 一人が気転を利かして、すぐに伝令を呼んだ。そのやりとりを視界に納めながら、ナディアは言葉を続けた。

「敵が進撃してこないのは、我々をここに集中させ、外部の呼応を絶つことが狙いです。ノーヴァへの流出を防がなくては、手遅れになります」

 ナディアの警告を、今度は全員が重く受け止めた。

「しかし、あの数に正対での勝負は厳しい」

「兵力差が開き過ぎている。逃げる敵を足止めしたくとも、そう安直に討って出るわけにも行きませんな……」

「――相手が本気で移動を考えているなら、足止めは先ず不可能でしょう」

 空気がざわついた。
 ナディアも口にしながら、背筋が凍りついていく恐怖に襲われた。向こうが本気で後退を始めたら、二万の兵力ではとても止められないだろう――
 ノーヴァ壊滅の危機が、かなり現実味を帯びてきた。

「……明日、敵陣営に乗りこみ、可能な限り敵将を暗殺しましょう」

 ノーヴァを救う有効な手立てとは言い難いが、何かせずにはいられない。周囲の将達も気持ちは同じで、すぐにナディアに賛同した。

「分かりました。夜半に仕掛けましょう。日暮れと共に撤退を見せてきたから、敵も油断しているでしょう」

「大勢では目立ちます。小隊で、サルビア兵に扮して攻めましょう。敵の鎧と旗を集めさせてください」

「敵兵に扮せと?」

 ナディアは眼を剥いた将に向かって、いたって冷静に「その通りです」と首肯した。

「どうしても、耐えられませんか?」

 静かにめ付けると、相手もそれ以上の反論は飲みこんで、不承不承頷いた。一応の納得は見せたものの、気乗りしていない様子は一目瞭然だ。
 軍議を解散し、気心の知れた副官達だけが天幕に残ると、彼等は苦笑気味に主に声をかけた。

「やはりサルビア軍に扮する案は、不評でしたね」

「私とて、気乗りはしませんよ。ですが手段を選んでいる余裕はありません。いっそ、敵をたばかる密使を送りたいくらいです」

「それは、どのように?」

「皆の賛同は得られませんでしたが、渓谷を要塞として使うのではなく、おびき寄せ前後から挟撃きょうげきしたかった。初日に短い隘路ではなく、深い狭路で仕掛けていれば万もの大軍を獲れた」

 惜しむ口調で語ると、副官は思慮深げに眉を上げた。

「しかし、その策は持久戦には向かないと、納得されたではありませんか」

「あの時は、総意を汲んだのです。ノーヴァへの流出を止めたい今こそ有効な手です。とはいえ、要塞としての機能を散々見せてしまったので、敵も只では騙されてくれません。ですから……サルビアに寝返ると見せかけ――”退き色濃く、間もなく狭路から撤退する。合図を送るので背後を叩けば殲滅は容易い。北に集結して攻めるは不策也”とでも、貴方が吹きこんでですね……」

「わ、私ですかっ!?」

 美貌に流し眼で見つめられた副官は、指で己の顔を指差して、頓狂とんきょうな声を上げた。

「貴方くらい立場のある者でないと、向こうも相手にしないでしょう」

「無茶をおっしゃる! 第一、味方が知ればどうなることか……」

「その時は、貴方の裏切りは私の指示によるものと、それらしく皆に言えばいい。味方の恐慌を防ぎ、勝利への期待を高められるでしょう。事実、全て私の指示通りなわけですし――」

 深刻そうな顔つきで押し黙る副官を見て、ナディアはとう々と語る言葉を切った。

「――冗談です」

 半分本気であったが、ナディアもこの策は成功しないと分かっていた。側近の問いかけるような眼差しを受けて、内に秘めていた憂慮を口にする。

「……私がサルビアの将なら、主力部隊を真っ先にノーヴァに引き上げます。今更どんな手を打っても、移動した相手を説得することはできません。ここに残る将は、睨みを利かせて吠え止めをするだけです。対峙する気のない敵将を欠いたところで、事態は変わらないのでしょう」

「それでも、明日は行かれるのですか?」

「――何もしないよりは……」

 いくらかマシだ。決定打に至らずとも、一矢報いたい。
 ナディアに同調するように、その場にいる全員の表情が陰った。「休みましょう」と解散して一人になったところで、戦況を思うと休む気にはなれない。
 天幕の外――
 青い星を仰ぎながらもどかしさを噛みしめる。
 この窮状は、ジャファールの類まれな軍才を、敵も認めている証拠だ。
 脅威を感じて、これほどの配置変更を行うとは……果たしてどのような敵将なのだろう。いずれにせよ、この先ノーヴァは酷く荒れるだろう。
 しかし、ノーヴァに参戦したくとも、ここを離れればサルビアに拠点を許してしまう。守る所が増えると、どうしても兵力は分散させられる。広域戦のもどかしいところだ……。
 ナディアは気鬱を払うように首を小さく振ると、静かに天幕に戻った。

 +

 翌日。
 進退を見せないサルビア軍に、ナディアはいよいよ軍の大規模な移動を確信した。気付いた上でなお、いつも通りの決着を見せない持久戦を展開した。
 その日の夜半。
 サルビア重装飛竜隊に扮した少数精鋭の暗殺部隊は、暗闇に乗じて密かに敵陣に乗り込み、拠点将を少なからず暗殺した。
 将狩は成功を収めたが、既に主力部隊の大半はノーヴァに進軍しており、それらの進軍を妨げられたかと言えば、結果には至らなかった。
 ここから戦況は大きく動く。
 ノーヴァ壊滅――
 ハヌゥアビスとの決着を見送ったムーン・シャイターンは、ナディアを中央陸路に召集する。要請を受けたナディアは迅速に応じ、無人の拠点に天幕や旗を残したまま、味方の大半を率いて中央陸路へ移動せしめた。
 勢いづいたサルビア軍もまた、完全にノーグロッジを放棄してノーヴァに集結する。
 空を覆う朱金装甲の重装飛竜大隊は、西へ――アッサラームを目指した。
 敵の動向を探る斥候は、その様子を見て「空が燃え上がるようであった」と味方に伝えたと言う。

 決着は近づいていた――