アッサラーム夜想曲

穏やかな風 - 3 -

 ― 『穏やかな風・三』 ―




 二人で桃を二つ平らげた後、花嫁ロザインはふと気付いたように口を開いた。

「先輩、大分前髪伸びましたね」

 言われて気がついた。そう言われると、視界に少し掛かっているかもしれない。切っておくか、と思い、ポケットからナイフを取り出した。

「――待った」

「殿下?」

 前髪を掴んで根元から切ろうとしたら、花嫁に腕を掴まれた。

「先輩、その切り方はないですよ。くろがねの扱いはあんなに繊細なのに、自分のことはかなり適当ですよね」

「はは、よく言われます」

 いっそ、サイード班長のように禿頭とくとうにしてしまいたい。妹が必死に止めるので、今のところ思いとどまっているが……。

「僕に切らせてください」

「え?」

「先輩よりは、上手に切れると思います」

「じゃあ……、お願いします」

 特に断る理由はない。傍に控えるアージュも不動なようなので、ナイフを花嫁に手渡した。
 しかし、正面を向いて対峙すると、図らずも花嫁の顔が傍にあり、何となくムーン・シャイターンの顔が脳裏をよぎった。

 ――いや、別に、やましいことはないだろう……。

 散髪に備えて瞳を閉じていると、慌てたように駆けてくる足音が聞こえた。

「おいっ、何してる!?」

「アルスラン! 今ナイフを持ってるから、危ないですよ」

「こんにちは、アルスラン将軍」

 勢いよく殿下の肩を掴んだアルスランは、握られたナイフに気付いて怪訝そうな顔をした。

「……何をしているんですか?」

「アルシャッド先輩の、前髪を切ろうと思って」

「何だ、そんなことか……。お前、自分で切ればいいだろう」

 アルスランはアルシャッドを見て、呆れたように言い捨てた。

「そうですよね」

 まぁいいか……とさっきは思ってしまったが、よくなった。傍から見れば不敬にあたる行為だ。気さくな方なので、つい距離感を忘れがちだが、誰もが跪くシャイターンの花嫁である。

「いいんです、僕が切らせてくれって、お願いしたんです」

「何故?」

「先輩、壊滅的に髪切るの下手くそだから」

 壊滅的と言われて、アルシャッドは少しばかりショックを受けた。一方、アルスランは一応納得したように引き下がる。

「まぎらわしい、誤解を招く光景でしたよ。ならば、お早く。間もなく、遠路に向かう輜重しちょう隊が出発しますので、一緒に来ていただけませんか? 彼等に声をかけてやって欲しい」

「分かりました」

「いやいや、自分で切れますから、どうかお構いなく。輜重隊の皆さんのところへ、早く行ってあげてください」

 辞退してみたが、花嫁は改めてナイフを手に取るとアルシャッドに向き直った。

「前髪切るくらい、すぐ終わりますよ」

 花嫁の気は変わらないらしい。意固地になっても仕方ないので、大人しく目を閉じることにした。

「――殿下!?」

 悲壮感に溢れた悲鳴が聞こえた。全員で振り向くと、両手で口を押さえたナフィーサが扉に立っていた。

「何をしてらっしゃるんですか!?」

「えっと、アルシャッド先輩の、前髪を切ろうと思って……」

 さっきと全く同じ流れを繰り返そうとしている。
 アルスランは半目になり、花嫁は困ったように小首を傾げている。アルシャッドもどうしたものかと頬を掻いた。

「――僕が切ります」

 ローゼンアージュが一瞬で解決してくれた。
 スパッと空気を裂く音と共に、前髪がハラハラと落ちる。目にも止まらぬ早業だった。怖いと思う暇すらなかった。

「わ、いい感じ。今のどうやったの?」

「ありがとうございます」

 ナフィーサもようやく状況を把握したらしい。ほっとしたような表情を見せた後、微妙な顔で花嫁を見た。

「殿下が、アルシャッド殿に迫っているのかと、勘違いしてしまいました」

「はぁ?」

「私もそう思いました」

「えぇっ?」

 ナフィーサとアルスランに代わる代わる言われて、殿下は狼狽えたようにアルシャッドを見た。心配しなくても、そんな誤解はもちろんしていない。

「大丈夫、純粋な親切だと分かっていますよ」

「うん」

 殿下はほっとしたように胸を撫で下ろした。次いで怒った表情で彼等に噛みついた。

「もう! どうしてそんな勘違いするんだ! おかしいでしょ!」

「はは」

 アルスランは楽しそうに笑った。生死の淵を彷徨い、絶望に暮れていた姿からは想像もつかない、穏やかな笑顔だ。
 花嫁も同じことを思ったのだろう。笑みを浮かべるアルスランを見て、怒ったことも忘れて嬉しそうにしている。それから、思い出したようにナフィーサに声をかけた。

「今から輜重隊に挨拶しに行くんだけど、ナフィーサはどんな用事?」

「ケイト殿をお見送りしてきましたので、報告に戻りました。私もご一緒させていただいて、よろしいですか?」

「もちろん。それじゃ、先輩、行ってきます。お邪魔しました」

 気さくに手を振る花嫁に、アルシャッドも手を振って応えた。花嫁と共にアルスラン達も工房を出ていく。
 賑やかな音が消えると、急に静かになったように感じる。
 花嫁の行く先には自然と人が集まる。
 悲しみも多いこの通門拠点で、花嫁の存在は、清涼な風のように全将兵の心を優しく慰めてくれる。
 アルシャッドは穏やかな気持ちでほほえみみ、三つ目の桃に手を伸ばした。