アッサラーム夜想曲

手紙 - 1 -

 ケイト――通門拠点間伝令、一等兵

 中央広域戦――史上最大の東西戦争では、クロガネ隊加工班に在籍しながら、アッサラームと通門拠点間の伝令を務める。

 元ノーヴァ兵と共に軍を発したルーンナイトの元へ、意識を取り戻したアルスランに託された追加の書簡を届けた後、任務の合間を縫って、花嫁ロザインの手紙をムーン・シャイターンの元に届ける役目を買って出た。
 これまで、特に危険とされる中央の伝令を恐れていたが、今回ばかりは花嫁の力になろうと決意し、山岳の夜を翔けるのであった――




 ― 『手紙・一』 ―




 不安定な気流によろめきそうになりながら、手綱を必死に握りしめて昼夜を翔けた。
 寝静まり返った山岳の夜は、穏やかとはほど遠く、不気味な静けさに包まれている。眼下に広がる昏い茂みは、まるで恐ろしい魔物が大口を開けて、墜落するケイトを待ち構えているようだ……。
 果たして、ケイトの恐怖心がそう錯覚させるのか――
 きらきらと立ち昇る白い烽火ほうかを彼方に見つけた時は、安堵のあまり飛竜の背からずり落ちそうになった。
 どうにか無事に辿り着けたのだ。
 味方の野営地に着いて花嫁の伝令を名乗ると、直ぐにムーン・シャイターンがやってきた。

「花嫁からの手紙を持って参りました」

 軍の頂点に立つ、雲の上の存在がケイトの前に立つ。神々しい美貌と、凛とした雰囲気に圧倒されて、声は震えてしまった。

「光希から?」

「はい、こちらに」

 織布しょくふごと渡すと、ムーン・シャイターンはすぐにあらため、喜びの光りを眼に宿した。

「ナフィーサの手紙もあるな……ケイト。少し待てますか? すぐに返事を書くので、持って行ってほしい」

「はい!」

 思わず笑顔で応えた。すぐに返事をもらえれば、花嫁も喜ぶに違いない。
 天幕に消えていくムーン・シャイターンを見送った後、素晴らしいラムーダの音に誘われて傍へ寄ってみた。
 演奏しているのは、ナディアだった。
 夕闇の中、篝火かがりびに照らされて演奏する姿は美しく、戦場を駆ける将にはとても見えない。しかし、彼は聖戦で歴戦の将と肩を並べて武功を上げた、紛れもない実力を兼ね備えた将軍の一人である。
 ムーン・シャイターンの覚えもめでたく、これまでに、いくつもの重要な作戦指揮を任されている。
 今回の戦いでは、中央大陸の南、ノーグロッジ海域の総指揮を務めていたが、ムーン・シャイターンに呼ばれて中央の戦力に加わっていた。
 三日、あるいは四日――
 間もなく、ここで激戦が繰り広げられる。
 ノーヴァの空を落としたサルビア軍は今、勢いに乗って西を神速で翔けている。彼等が海岸沿いに攻め込む時、中央陸路でもまた一斉攻撃を仕掛けてくることは判っている。
 全ての戦場で火を噴かせ、外部の呼応を絶ち、それぞれの前線を孤立させるつもりなのだ。
 この素晴らしい演奏を聴けるのも、今のうちだ……。
 前線で戦う、いかにも屈強そうなアッサラームの獅子達が、素晴らしい演奏に聴き入るように目を伏せている。
 ケイトも彼等の輪に加わって、岩場に腰を下ろした。

 ――素晴らしい演奏だなぁ……目の奥に、アッサラームの姿が思い浮かぶようだ……。

 薄い水膜に映りこむ、金色の美しいアッサラーム。空と湖水の境目が溶けた世界。
 青い空に白い雲が流れて、彼方を優美なコンドルや飛竜が翔けてゆく……。
 大神殿から響き渡る、厳かなカリヨンの音色。
 本当に、何もかもはっきり覚えている。

 ――あぁ、アッサラームの工房が恋しい……。殿下やアルシャッド達と、くろがねを叩く日々……あの宝物のような日常に戻りたい。

 一面の窓から陽光の射す、赤煉瓦造りの広い工房。
 鉄を打つ力強い音、繊細な音。光を浴びて煌めく鉄。屑鉄の匂い……。
 作業台に槌を置きっぱなしで、たった今あそこから出てきたばかりのような気がする。目を閉じるだけで、いつでもあそこに戻れるような気がする。
 鮮明に思い浮かべるあまり、鼻の奥が少しツンとした。
 視界が潤みそうになり慌てて眼を開けると、同じように目を覆う兵が大勢いた。
 彼等は、過酷な前線で戦っているんだ。ケイトよりもずっと、アッサラームが恋しいだろう……。
 素晴らしい演奏が途切れて、ぱんぱんと手を鳴らす乾いた音が響いた。ケイトもナディアを見て手を鳴らすと、美貌の将軍と眼が合って、飛び上がりそうになった。

「ケイト」

 彼が落ち着いた声で名を呼ぶと、輪になっていた将兵達もケイトを振り返った。

「本当だ、ケイトじゃないか」
「どこから来たんだ?」

 次々と声をかけられる。伝令は戦場における大きな情報源なので、大体どこへ行っても歓迎される。

「殿下の遣いで、国門から今さっき、こちらに着いたばかりです。その前は、ノーヴァ海岸へ行って参りました」

 簡潔に応えると、彼等は眼を輝かせて次々に質問を浴びせる。

「おう、通門拠点の様子はどうだ?」
「殿下はお変わりないか?」
「アルスラン将軍は復帰されたと聞いたけれど、どうなんだ?」
「アッサラームから援軍はきているのか?」
「海岸の様子は……」

 四方から声を掛けられて、どれから答えようか迷っていると、ナディアが「一つずつ順に」と助け舟を出してくれた。
 注目されるのは苦手だ。手汗を掻きながら、しどろもどろで知っていることを全て伝えると、彼等は思い思いに話し始めた。

「良かった! 将軍が意識を取り戻したというのは、本当だったんだな。一体誰だ、儚く星に還られたなんて、酷い話を聞かせたのは」

「俺は、怒りのあまり第三の眼が開き、サルビアの進軍をうわ言のように呟いている……なんて噂を聞いたぞ。あれもやはり戯言だったんだな」

「全くどいつもこいつも……酒飲みながら話す奴の言うことなんて、何一つ信用できねぇな」

「違いない」

 ケイトのもたらし吉報を、彼等はいたく喜んだ。言葉は悪いが、声の調子も表情も明るい。聞き惚れるような演奏に涙ぐんでいた姿が嘘のように、豪快に笑い飛ばして酒を飲んでいる。
 密かに安堵に胸を撫で下ろした。悪い報告であれば、彼等は嵐のように荒れていたかもしれない。そうなれば、戦闘に向いていないケイトは、巻き添えを食らってその辺に転がる可能性が高い。
 そろそろ、ムーン・シャイターンの天幕に戻ろうかと腰を浮かしたら、再びナディアに呼び止められた。

「この後、通門拠点に戻りますか?」

 日頃は口を利くこともない、雲の上の存在だ。ケイトは緊張しながら口を開いた。

「はい、ムーン・シャイターンから返事をいただけたら、すぐにでも」

「なら、私も用事を言いつけても良いでしょうか?」

「何でしょう?」

「これを殿下に、これは、もしアッサラームに寄る機会があれば、ラスフィンカ家に」

 ナディアは二通の質素な手紙をケイトに持たせた。
 国門はこれから帰るし、アッサラームも伝令に預けて渡すことが可能だ。恭しく受け取ると、雨にも負けない革袋にしまった。

「お預かりいたします。殿下には私から、アッサラームには伝令に託してお届けいたします」

「ありがとう」

 麗貌に微笑を乗せて笑みかけられ、ケイトは訳も判らず頬が熱くなるのを感じた。

「あの……素晴らしい演奏でした。本当に、アッサラームが恋しくなるくらい……」

 しどろもどろで偽りない賛辞を贈ると、ナディアは嬉しげに微笑んだ。

「殿下からいただいた曲ですよ。もう何遍も弾いていますが、その度に安らぎを与えてくれる。お前も私も、早く帰れるといいですね」

「はい」

 気持ちよく笑顔で別れると、間もなくムーン・シャイターンの天幕に招かれた。