アッサラーム夜想曲
穏やかな風 - 1 -
アルシャッド・ムーラン――中央広域戦伍長、クロガネ隊加工班班長代理
中央広域戦――史上最大の東西戦争では、通門拠点にて、斥候 を務めるサイードに代わり、クロガネ隊加工班班長代理を務める。
元ノーヴァ兵と共にルーンナイトが軍を発した後、生死を彷徨っていたアルスランは、幸いにも意識を取り戻した。その後、右腕を失う重傷を負いながらも、花嫁 と共に後方支援に加わり、多忙を極める通門拠点は活性化し始める。
工房で鉄 加工を務めるアルシャッドにも、アルスランの命で中央に運ぶ武器防具の荷積み指示が下り、激化する前線の為に連日徹夜で勤しんでいた――。
― 『穏やかな風・一』 ―
気付けば夜が明けていた。いつの間にか外が明るい。
しかし寝る間も惜しんで鉄を打った甲斐があり、アルスランの依頼をどうにか終えることができた。製鉄班が荷積みを手伝ってくれたおかげで、いつでも運び出せる。
昼には、中央に向けて輜重 隊が発つ。どうにか、間に合わせられて良かった。
連日徹夜作業に追われて、工房内は死屍累々だ。今なら倒れ伏す彼等の耳元で銅鑼 を鳴らしても、眼を覚まさないのではないだろうか。
アルシャッドもその辺に転がって、仮眠を取ろうかと思いきや、花嫁とナフィーサ、アージュ、そしてケイトがやってきた。
「先輩……お疲れ様です。これ、差し入れ。皆が起きたら、皆にもあげてください」
花嫁から受け取った籠には、山盛りの桃が入っていた。色艶のいい桃だ。いかにも美味しそうな、馥郁 たる香りがする。
「やぁ、美味しそうだ。ありがとうございます。ケイトはいつ戻ってきたの?」
ポケットからナイフ――クロガネ隊考案の携帯ツールナイフを取り出して、桃を剥きながらケイトを見上げた。顔を見るのは、随分久しぶりな気がする。アルシャッドは通門拠点で工房勤めだが、ケイトは開戦してからアッサラームと通門拠点間の伝令を務めていた。
「さっきノーヴァ海岸から戻ったばかりです」
「どうでした?」
「無事、ルーンナイト皇子に、アルスラン将軍からお預かりした書簡をお渡しできました。将軍の復帰を聞いて、とても喜ばれていましたよ。吉報で良かったです。ルーンナイト皇子は順調に布陣を整えていました。ムエザ将軍もアッサラームから軍を発して、今ノーヴァに駆けつけています。サルビア軍との衝突まで、あと数日を要しそうです」
一仕事終えた安堵を顔に浮かべて、なかなか明晰な口調で語る。臆病で内気な彼に、戦場を駆けずり回る伝令が務まるか心配していたが、無用であったようだ。
「上々ですね。この後の予定は?」
「俺を含めて、十五人の伝令が任務交代しました。七日後にまた拠点に向かいます。それまで時間あるので、クロガネ隊の手伝いをしていても良いですか?」
二つ返事で了承しようとしたら、ナフィーサが強張った顔でケイトを見上げた。
「あの……ケイト殿、もし良ければ、殿下の手紙を、ムーン・シャイターンに届けていただけないでしょうか?」
花嫁が「え?」と目を丸くする横で、ナフィーサは織布 をめくり、十通はありそうな手紙の束を取り出した。
光沢のある手紙の裏面には、見慣れない装飾が入っている。すぐに、天上人の文字で綴られた、花嫁の名前だと気付いた。以前、ムーン・シャイターンの刀身に彫っていた柄 と同じものだ。
「せっかくお書きになられたのに、机に隠されていては意味がありませんよ。渡せば、きっとムーン・シャイターンもお喜びになられます」
「俺は構いませんが……」
ケイトは言葉を切ると、問いかけるような眼差しでこちらを見た。もちろん、アルシャッドにも異論はない。
「俺からもお願いします。届けてさしあげてください。きっと喜ばれます」
「いや、ケイト任務明けなのに、悪いよ」
ケイトはにっこり笑った。
「大丈夫ですよ」
「いや、でも……なら今度、中央に向かう伝令が来た時に渡すよ」
花嫁は慌てた様子で、ナフィーサの手から手紙を奪い返そうとしている。ナフィーサは後ろ手に手紙を隠すと、じりじりと花嫁から距離を取った。
「そう言って殿下、毎回お渡しにならないではありませんか……ノーヴァの衝突前に、お渡ししましょうよ。きっとムーン・シャイターンのお慰めになると思います」
「でも、最初の方、何書いたか覚えてないし。変なこと書いてあるかも……。やっぱり、ちょっと待って!」
「殿下、勢いも大事でございますよっ」
ナフィーサは軽い身のこなしで、奪い返そうとする殿下の手を巧みに躱 し、ケイトに全ての手紙を渡した。
ケイトも心得たもので、腕を高く掲げて、取り上げようとする花嫁の手から逃れている。
三人でわあわあ声を上げて手紙を取り合う姿は、何だか子供がじゃれているようで微笑ましい。
それにしても、この桃は美味である。良し。咀嚼していると、ふとローゼンアージュと目が合った。彼だけは冷静に起立している。
「食べますか?」
ナイフに突き刺して桃を差し出すと、人形めいた少年は、ひょいとつまんで口へ放り込んだ。無表情で咀嚼しているが、美味しいと感じているはずだ。たぶん。
「では、早速行って参ります」
どうやら、ナフィーサとケイトに軍配が上がったらしい。ケイトは眩しい笑みを閃かせて、風のように工房を飛び出して行った。その後ろ姿をナフィーサが「まだ他にもあります」と言いながら、追いかけて行く。
殿下は肩で息をしながら、無言で彼等の去った扉を眺めていたが、やがて照れ臭げに頬を掻きながら振り向いた。
「殿下もお一ついかがですか?」
一切れ桃を差し出すと、疲れた顔をした花嫁は、危なっかしい手つきで口へ放り込む。すぐに「美味しい」と破顔した。
中央広域戦――史上最大の東西戦争では、通門拠点にて、
元ノーヴァ兵と共にルーンナイトが軍を発した後、生死を彷徨っていたアルスランは、幸いにも意識を取り戻した。その後、右腕を失う重傷を負いながらも、
工房で
― 『穏やかな風・一』 ―
気付けば夜が明けていた。いつの間にか外が明るい。
しかし寝る間も惜しんで鉄を打った甲斐があり、アルスランの依頼をどうにか終えることができた。製鉄班が荷積みを手伝ってくれたおかげで、いつでも運び出せる。
昼には、中央に向けて
連日徹夜作業に追われて、工房内は死屍累々だ。今なら倒れ伏す彼等の耳元で
アルシャッドもその辺に転がって、仮眠を取ろうかと思いきや、花嫁とナフィーサ、アージュ、そしてケイトがやってきた。
「先輩……お疲れ様です。これ、差し入れ。皆が起きたら、皆にもあげてください」
花嫁から受け取った籠には、山盛りの桃が入っていた。色艶のいい桃だ。いかにも美味しそうな、
「やぁ、美味しそうだ。ありがとうございます。ケイトはいつ戻ってきたの?」
ポケットからナイフ――クロガネ隊考案の携帯ツールナイフを取り出して、桃を剥きながらケイトを見上げた。顔を見るのは、随分久しぶりな気がする。アルシャッドは通門拠点で工房勤めだが、ケイトは開戦してからアッサラームと通門拠点間の伝令を務めていた。
「さっきノーヴァ海岸から戻ったばかりです」
「どうでした?」
「無事、ルーンナイト皇子に、アルスラン将軍からお預かりした書簡をお渡しできました。将軍の復帰を聞いて、とても喜ばれていましたよ。吉報で良かったです。ルーンナイト皇子は順調に布陣を整えていました。ムエザ将軍もアッサラームから軍を発して、今ノーヴァに駆けつけています。サルビア軍との衝突まで、あと数日を要しそうです」
一仕事終えた安堵を顔に浮かべて、なかなか明晰な口調で語る。臆病で内気な彼に、戦場を駆けずり回る伝令が務まるか心配していたが、無用であったようだ。
「上々ですね。この後の予定は?」
「俺を含めて、十五人の伝令が任務交代しました。七日後にまた拠点に向かいます。それまで時間あるので、クロガネ隊の手伝いをしていても良いですか?」
二つ返事で了承しようとしたら、ナフィーサが強張った顔でケイトを見上げた。
「あの……ケイト殿、もし良ければ、殿下の手紙を、ムーン・シャイターンに届けていただけないでしょうか?」
花嫁が「え?」と目を丸くする横で、ナフィーサは
光沢のある手紙の裏面には、見慣れない装飾が入っている。すぐに、天上人の文字で綴られた、花嫁の名前だと気付いた。以前、ムーン・シャイターンの刀身に彫っていた
「せっかくお書きになられたのに、机に隠されていては意味がありませんよ。渡せば、きっとムーン・シャイターンもお喜びになられます」
「俺は構いませんが……」
ケイトは言葉を切ると、問いかけるような眼差しでこちらを見た。もちろん、アルシャッドにも異論はない。
「俺からもお願いします。届けてさしあげてください。きっと喜ばれます」
「いや、ケイト任務明けなのに、悪いよ」
ケイトはにっこり笑った。
「大丈夫ですよ」
「いや、でも……なら今度、中央に向かう伝令が来た時に渡すよ」
花嫁は慌てた様子で、ナフィーサの手から手紙を奪い返そうとしている。ナフィーサは後ろ手に手紙を隠すと、じりじりと花嫁から距離を取った。
「そう言って殿下、毎回お渡しにならないではありませんか……ノーヴァの衝突前に、お渡ししましょうよ。きっとムーン・シャイターンのお慰めになると思います」
「でも、最初の方、何書いたか覚えてないし。変なこと書いてあるかも……。やっぱり、ちょっと待って!」
「殿下、勢いも大事でございますよっ」
ナフィーサは軽い身のこなしで、奪い返そうとする殿下の手を巧みに
ケイトも心得たもので、腕を高く掲げて、取り上げようとする花嫁の手から逃れている。
三人でわあわあ声を上げて手紙を取り合う姿は、何だか子供がじゃれているようで微笑ましい。
それにしても、この桃は美味である。良し。咀嚼していると、ふとローゼンアージュと目が合った。彼だけは冷静に起立している。
「食べますか?」
ナイフに突き刺して桃を差し出すと、人形めいた少年は、ひょいとつまんで口へ放り込んだ。無表情で咀嚼しているが、美味しいと感じているはずだ。たぶん。
「では、早速行って参ります」
どうやら、ナフィーサとケイトに軍配が上がったらしい。ケイトは眩しい笑みを閃かせて、風のように工房を飛び出して行った。その後ろ姿をナフィーサが「まだ他にもあります」と言いながら、追いかけて行く。
殿下は肩で息をしながら、無言で彼等の去った扉を眺めていたが、やがて照れ臭げに頬を掻きながら振り向いた。
「殿下もお一ついかがですか?」
一切れ桃を差し出すと、疲れた顔をした花嫁は、危なっかしい手つきで口へ放り込む。すぐに「美味しい」と破顔した。