アッサラーム夜想曲
花冠の競竜杯 - 39 -
期号アム・ダムール四五六年三月十四日。
競竜杯決勝戦。麗らかな快晴。
アール河に新設された巨大な競技場には、大勢が集まっていた。
今日ここで、西大陸における最速の栄誉を懸けて、八人の飛竜の騎手達が勝敗を競うのだ。
熱気は開幕から最高潮に達していた。
アッサラーム上空を遊泳する八体の飛竜を、ジュリアスと光希が先導している。その壮麗で優雅な光景に、人々は地上から大歓声を送っているところだ。
眼下に広がる石造りの街は、家々の屋根が崛起 して、時には何尋 もの高さに達している。遮蔽物に衝突しないよう、飛竜はかなりの高度を飛ぶ。
「すごい歓声」
地上を眺めながら、光希は呟いた。
「見てください、遠くからも人が押し寄せていますよ」
ジュリアスの指差した方に光希は顔を向けた。
アッサラームを囲う防壁の向こう、砂の波をうねらしている砂漠には、競竜杯を観にきた人達の天幕や、商売にやってきた隊商 の行列が続いている。もはや最後尾はよく判らない。熱波に煌いて揺れる蜃楼 に霞み、曖昧模糊 としている。
「すごいなぁ……」
栄えし砂漠の巨大オアシス、アッサラームの街並みを見下ろしながら、光希は清々しい空気を胸いっぱいに吸いこんだ。
「寒いですか?」
気遣わしげなジュリアスの言葉に、光希はかぶりを振った。
「ううん、いい気持ち!」
肌寒いほどの上空にいても、地上の熱気と歓声が肌に伝わってくるほどだ。
それに、遥かな空に吹く風のなんと清涼なことか。心が澄みわたっていくようだ。広漠の空を欲しいままにして、世界の頂点に立ったような気分を味わえる。
「毎日見ているけど、空から見ると全く印象が違うね……」
光希はしみじみと呟いた。
陽を弾いて眩いばかりのアール河を背に、金色の尖塔を戴く白亜のアルサーガ宮殿が誇らしげに佇んでいる。いかに広大な敷地を擁しているか、上から見るとよく判る。
軍部が見えてくると、ついクロガネ隊の工房に目がいき、愉快な気持ちがこみあげた。
「いつもなら、工房で仕事しているんだと思うと、ちょっと贅沢な気分」
にんまりしている光希を見て、ジュリアスはくすっと笑った。
「たまには、休日申請をすればいいんですよ」
「公務がちょくちょく入るから、私用でとるのは控えているの。ジュリに休める日があるのなら、僕も合わせて取るけど」
「そうですね。では、今度あわせてとりましょうか」
光希はジュリアスを仰いでにっこり笑った。
ダリア橋を通り過ぎたあたりで、左右に優美な飛竜が並んだ。背に乗っているのは、勝敗を競う八人の騎手達だ。アルスランの姿もある。遠くて彼の表情は判別できないが、きっと自信に満ちた、不敵な笑みを浮かべているのだろう。
「はぁ、自分が試合にでるわけじゃないのに、なんだかドキドキしてきた」
「面白い試合を期待できそうですね」
「うん、楽しみ……アルスラン頑張れ――ッ!」
拳をあげて叫ぶ光希の腰を、ジュリアスはしっかりと支えた。風にそよぐ黒髪を優しい指で撫でつけて、こめかみに唇を押しあてる。
「今日は、誰にとっても素晴らしい一日となるでしょう」
「最高の気分だよ!」
ぱっと両手を離す光希を、ジュリアスは後ろから片腕で支えた。
「ふふ、はしゃいでいますね」
「まぁね~」
明るい笑みを見て、ジュリアスは密かに安堵した。あの夜から少し塞ぎこんでいたので心配していたが、彼の心に傷を残さなかったことに、天に感謝を捧げたい気持ちだった。
しばらくすると、前方にアール河の競技場が見えてきた。
「さぁ、そろそろ覆面をつけて。降りますよ」
ジュリアスの言葉に従い、光希は首に下げていた覆面で鼻と口を覆った。
空の旅を楽しんだあと、二人は皇家一行と共に、主賓席におさまった。集まった観衆に手を振って、大歓声に応える。
皇帝が天を錫杖 で指すと、会場は静まり返った。
「八体の飛竜の健闘をシャイターンに捧げる。皆も、この素晴らしい試合を存分に楽しもうではないか!」
人々は期待に胸を膨らませ、割れるような拍手喝采を送った。
櫓 に立つ兵士が、出走を告げようと喇叭 を構えたその時、八つの尖塔にそれぞれ止まっている飛竜のうち、一番右の飛竜は、我慢がきかないように鉤爪を下げた。運悪くその瞬間に喇叭が空に鳴り響いた。
有力視されていた一番が出遅れた!
アルスランは序盤の混乱をうまく御して先頭を陣取り、後続の騎手も手綱を引き締め、竜は応えて加速していく。
忽 ち、無数の目が空の闘いに釘付けになった。
投票券を握りしめた観衆達は、唾を飛ばしかねない勢いで、自分の買った飛竜に歓声や野次を飛ばしている。
中盤まで順位は変わらず、アルスランは好調に先頭を走り抜けている。八体の飛竜が外周に沿って遠ざかると、観衆達も飛竜の動きに合わせて身体の向きを変えた。
萌える緑の合間から、金色に輝く球形の屋根が陽を弾いて煌いている。流星のように翔けていく飛竜の姿が見える度に、大歓声が沸き起こった。
「戻ってきた!」
姿を顕した竜を見て、誰かが叫んだ。
「アルスランだ!」
「やった! 一番手だぞ!」
先頭を翔け抜ける青銀の竜を見て、人々は口々に叫んだ。
もうすぐ終盤。誰もが、栄光の瞬間に瞳を輝かせた――が、二番と三番の竜が接触事故を起こし、アルスランの飛竜を巻きこんだ。
「「あぁッ!」」
観客席から絶望ともつかぬ悲鳴が起こる。
空中で転倒した彼等は、先頭集団から引き離された。二番と三番に至っては、尖塔の屋根に掴まり、一位争いから完全に離脱した。
アルスランは空宙で立て直し、加速を始めたが、先頭集団とは開きがある。
アルスランは四番目。
全身全霊、高速で翔ける。位置取りは大外、前を抜くには更に加速しなければならない。
アルスランが一頭を抜き去る。三番手に浮上。
「いいぞッ!!」
「抜け、抜けっ!!」
「あと二人だ!」
歓声に怒号、悲鳴が次々と沸き起こる。
アール河を眼下に見下ろす、最後の直線に入った。
残り五百メートルを切って、アルスランは更に加速する。一頭を抜いた。
二番手に浮上。
誰かが雄たけびを叫んだ。光希も言葉にならない歓声を空に向かって叫んだ。
「いけ――ッ! アルスラン! あと一人! あと一人ッ!!」
手すりから身を乗り出し、無我夢中で叫ぶ光希の肩を、ジュリアスは後ろから支えねばならなかった。
アルスランとブランカはもはや一心同体だった。完全に呼応している。
残り五十メートル、奇跡が起きた。
アルスランは一条の閃光と化して、開いていた距離をぐんぐん詰め――先頭の竜を抜き去った!
「おおぉぉおお――ッ!!」
蒼天に双竜の軍旗が翻り、アルスランが凱歌をあげた瞬間、光希は両腕をあげて叫んだ。誰もが大歓声を叫んでいる。アデイルバッハも席を立ち、手を打ち鳴らしてアルスランを、八人の騎手を讃えた。
大広場に舞い降りた八人の騎手達に、鳴りやまない拍手喝采が送られる。
凱旋を抜けて、アルスランが誇らしげに手を振ると、天まで届くような、熱狂的な歓声が轟いた。
表彰台に立つアルスランの傍に、光希は花冠を手に近づいていった。心臓は興奮と緊張でばくばく鳴っているが、隣にはジュリアスがいてくれる。彼は光希が脚立を昇るのを助けてくれた。
「アルスラン、優勝おめでとうございます!」
緊張気味に光希がいうと、アルスランはほほえんで腰を屈めた。
「ありがとうございます、殿下」
「……これは天からの贈り物。天より賜りし祝福を、アルスラン、貴方の頭上に授けます」
光希は震えそうになる手で、色鮮やかな花冠をもちあげた。
「歓びも、哀しみも、凪ぎの時にも、苦痛の瞬間にも……光り輝く命の守護となりますように」
勝利を言祝 いで、花冠を銀髪に載せる。アルスランはその手を取り、恭しく甲に唇を落とした。
「花冠を授けし我が主に、我が勝利と忠誠を捧げましょう。全ては、私の意思の通りに……ありがとうございます、殿下」
アルスランは、光希の手を鋼腕でとって、誇らしげに天に掲げた。
わぁッ――周囲から拍手喝采が湧き起こった。
それは思わず胸が熱くなる光景だった。観衆の興奮は冷めやらない。観衆の声援に応えて、二人は晴れやかな笑みで手をあげていた。
やがて、壇上を下りて仲間うちで輪になると、光希は肩の力を抜いて、素の笑みを見せた。
「おめでとうございます。すごく感動しました。本当に素晴らしかった!」
未だ興奮冷めやらず、まくしたてる光希を見て、アルスランは嬉しそうに笑った。
「ありがとうございます。約束しましたからね。私の勝利は殿下に捧げますよ」
「少し危なかったのではありませんか?」
ジュリアスがからかうと、アルスランは声にだして笑った。
「正直、衝突した時は焦りました。場外離脱は絶対に避けなければと必死でしたよ!」
あれはまさしく運命の瞬間だった。だが彼は、災厄に立ち向かい、見事に一位で完走したのだ。歴史に残る名勝負だろう!
興奮しきりで盛りあがっていると、ヤシュム達も輪に加わった。
「おめでとうございます、アルスラン」
穏やかな声でナディアが労う。
「いよぉ! やりやがったな」
ヤシュムはアルスランの肩を親しげに小突いた。これで完全復帰だな、とアーヒムも笑う。
「おめでとう、いい試合だった」
ジャファールが祝福をこめて肩を叩くと、アルスランは顔を輝かせた。そして感慨深く鋼腕を見つめた。
「かなり負荷をかけたし、無茶な姿勢から立て直した時も全く抵抗がありませんでした。殿下のおかげですね」
光希は嬉しくなって、彼の鋼の手を両手で握りしめた。
「アルスランの努力の賜物ですよ!」
二人は喜びを分かち合い、見つめ合った。そこにある感情は、果てしなく純粋なものだったが、傍で見ているジュリアスの表情は冷静そのものだった。
ジャファールの控えめな咳払いにより、アルスランも微妙な空気に気づいて身を引いたが、光希の興奮はおさまらなかった。
「ああ、何度思い出しても興奮する! 本当に凄かったです! 見ているだけでどきどきする。心臓の鼓動もすごいし、手に汗をかいていましたよ!」
「貴方ときたら、身を乗り出しすぎて、落っこちるんじゃないかと冷や冷やしましたよ」
ジュリアスの言葉に、光希は紅潮した顔で頷いた。
「だって、本当に凄かったもの。前のめりにもなっちゃうよ! 飛竜ってあんなに速く飛べるんだね!」
身振り手振りで、名勝負のあれやこれをまくしたてる。やがて周囲のほほえましげな視線に気がつくと、恥じ入るように咳ばらいをした。
「……すみません、取り乱しました」
気恥ずかしそうに光希が頭を掻くと、その場にいた全員が笑った。
「ほらほら、アルスランばかり褒めるから、総大将が拗ねていますよ!」
ヤシュムはもちろん冗談のつもりでいったのだが、光希は真に受けて、ジュリアスとアルスランを交互に見た。
「えっ、いや、だって凄かったから……」
その狼狽ぶりをジュリアスが密かに楽しんでいると、光希は背筋を伸ばして、きりっとした表情でいった。
「ジュリが一番恰好いいよ」
いったあとで恥ずかしくなり、耳の先まで赤くなった。ジュリアスが小さく吹きだすと、光希は怒ったふりをして英雄の横腹に拳を打ちこみ、周囲の笑いを誘った。
楽しげな雰囲気が気になるのか、ブランカは優美な首を伸ばして、光希の方へ顔を近づけた。
「ブランカ、大活躍だったね!」
光希は、胸に留めていたジャスミンの生花を一つとり、彼女に差し出した。ブランカは金色の瞳を細め、ふんふんと匂いを嗅いで、嬉しそうにギュアッと一つ啼いた。
……余談である。
ブランカの傍で雑談中、ジュリアスがこんなことをいいだした。
「貴方がそれほど感動してくれるのなら、私も競竜杯に出場すれば良かったですね」
ジュリアスの言葉に瞳を輝かせたのは、光希だけではなかった。
「総大将が出るなら、一着予想で買いますよ!」
意気揚々と答えたのはヤシュムだ。彼の肩を、アルスランは鋼腕で小突いた。
「俺が負けると思っているんだな?」
「シャイターンの異名を持つ相手だからなぁ」
ヤシュムはにやにやした顔でいった。アルスランは不敵な笑みを浮かべ、
「俺もぜひ勝負してみたいです。久しぶりにアール河の直線を競いませんか?」
「懐かしいですね」
ジュリアスはほほえんだ。軍に配属されて間もない頃は、訓練の一環で、剣技や飛竜、掃除や食事の速さまで、常に仲間うちで競っていた。
「僕も見てみたい!」
瞳をきらきらさせている光希を見て、ジュリアスはふっとほほえみ、挑戦的な目でアルスランを見た。
「一つ、勝負しましょうか」
「……これは、今日一番の名勝負になるんじゃないか?」
アーヒムのいう通り、急遽成立したアルスランとジュリアスの勝負に、観客は熱狂的な盛りあがりを見せることになるのだが――この勝負の行方は、また別の機会に話すことにしよう。
競竜杯決勝戦。麗らかな快晴。
アール河に新設された巨大な競技場には、大勢が集まっていた。
今日ここで、西大陸における最速の栄誉を懸けて、八人の飛竜の騎手達が勝敗を競うのだ。
熱気は開幕から最高潮に達していた。
アッサラーム上空を遊泳する八体の飛竜を、ジュリアスと光希が先導している。その壮麗で優雅な光景に、人々は地上から大歓声を送っているところだ。
眼下に広がる石造りの街は、家々の屋根が
「すごい歓声」
地上を眺めながら、光希は呟いた。
「見てください、遠くからも人が押し寄せていますよ」
ジュリアスの指差した方に光希は顔を向けた。
アッサラームを囲う防壁の向こう、砂の波をうねらしている砂漠には、競竜杯を観にきた人達の天幕や、商売にやってきた
「すごいなぁ……」
栄えし砂漠の巨大オアシス、アッサラームの街並みを見下ろしながら、光希は清々しい空気を胸いっぱいに吸いこんだ。
「寒いですか?」
気遣わしげなジュリアスの言葉に、光希はかぶりを振った。
「ううん、いい気持ち!」
肌寒いほどの上空にいても、地上の熱気と歓声が肌に伝わってくるほどだ。
それに、遥かな空に吹く風のなんと清涼なことか。心が澄みわたっていくようだ。広漠の空を欲しいままにして、世界の頂点に立ったような気分を味わえる。
「毎日見ているけど、空から見ると全く印象が違うね……」
光希はしみじみと呟いた。
陽を弾いて眩いばかりのアール河を背に、金色の尖塔を戴く白亜のアルサーガ宮殿が誇らしげに佇んでいる。いかに広大な敷地を擁しているか、上から見るとよく判る。
軍部が見えてくると、ついクロガネ隊の工房に目がいき、愉快な気持ちがこみあげた。
「いつもなら、工房で仕事しているんだと思うと、ちょっと贅沢な気分」
にんまりしている光希を見て、ジュリアスはくすっと笑った。
「たまには、休日申請をすればいいんですよ」
「公務がちょくちょく入るから、私用でとるのは控えているの。ジュリに休める日があるのなら、僕も合わせて取るけど」
「そうですね。では、今度あわせてとりましょうか」
光希はジュリアスを仰いでにっこり笑った。
ダリア橋を通り過ぎたあたりで、左右に優美な飛竜が並んだ。背に乗っているのは、勝敗を競う八人の騎手達だ。アルスランの姿もある。遠くて彼の表情は判別できないが、きっと自信に満ちた、不敵な笑みを浮かべているのだろう。
「はぁ、自分が試合にでるわけじゃないのに、なんだかドキドキしてきた」
「面白い試合を期待できそうですね」
「うん、楽しみ……アルスラン頑張れ――ッ!」
拳をあげて叫ぶ光希の腰を、ジュリアスはしっかりと支えた。風にそよぐ黒髪を優しい指で撫でつけて、こめかみに唇を押しあてる。
「今日は、誰にとっても素晴らしい一日となるでしょう」
「最高の気分だよ!」
ぱっと両手を離す光希を、ジュリアスは後ろから片腕で支えた。
「ふふ、はしゃいでいますね」
「まぁね~」
明るい笑みを見て、ジュリアスは密かに安堵した。あの夜から少し塞ぎこんでいたので心配していたが、彼の心に傷を残さなかったことに、天に感謝を捧げたい気持ちだった。
しばらくすると、前方にアール河の競技場が見えてきた。
「さぁ、そろそろ覆面をつけて。降りますよ」
ジュリアスの言葉に従い、光希は首に下げていた覆面で鼻と口を覆った。
空の旅を楽しんだあと、二人は皇家一行と共に、主賓席におさまった。集まった観衆に手を振って、大歓声に応える。
皇帝が天を
「八体の飛竜の健闘をシャイターンに捧げる。皆も、この素晴らしい試合を存分に楽しもうではないか!」
人々は期待に胸を膨らませ、割れるような拍手喝采を送った。
有力視されていた一番が出遅れた!
アルスランは序盤の混乱をうまく御して先頭を陣取り、後続の騎手も手綱を引き締め、竜は応えて加速していく。
投票券を握りしめた観衆達は、唾を飛ばしかねない勢いで、自分の買った飛竜に歓声や野次を飛ばしている。
中盤まで順位は変わらず、アルスランは好調に先頭を走り抜けている。八体の飛竜が外周に沿って遠ざかると、観衆達も飛竜の動きに合わせて身体の向きを変えた。
萌える緑の合間から、金色に輝く球形の屋根が陽を弾いて煌いている。流星のように翔けていく飛竜の姿が見える度に、大歓声が沸き起こった。
「戻ってきた!」
姿を顕した竜を見て、誰かが叫んだ。
「アルスランだ!」
「やった! 一番手だぞ!」
先頭を翔け抜ける青銀の竜を見て、人々は口々に叫んだ。
もうすぐ終盤。誰もが、栄光の瞬間に瞳を輝かせた――が、二番と三番の竜が接触事故を起こし、アルスランの飛竜を巻きこんだ。
「「あぁッ!」」
観客席から絶望ともつかぬ悲鳴が起こる。
空中で転倒した彼等は、先頭集団から引き離された。二番と三番に至っては、尖塔の屋根に掴まり、一位争いから完全に離脱した。
アルスランは空宙で立て直し、加速を始めたが、先頭集団とは開きがある。
アルスランは四番目。
全身全霊、高速で翔ける。位置取りは大外、前を抜くには更に加速しなければならない。
アルスランが一頭を抜き去る。三番手に浮上。
「いいぞッ!!」
「抜け、抜けっ!!」
「あと二人だ!」
歓声に怒号、悲鳴が次々と沸き起こる。
アール河を眼下に見下ろす、最後の直線に入った。
残り五百メートルを切って、アルスランは更に加速する。一頭を抜いた。
二番手に浮上。
誰かが雄たけびを叫んだ。光希も言葉にならない歓声を空に向かって叫んだ。
「いけ――ッ! アルスラン! あと一人! あと一人ッ!!」
手すりから身を乗り出し、無我夢中で叫ぶ光希の肩を、ジュリアスは後ろから支えねばならなかった。
アルスランとブランカはもはや一心同体だった。完全に呼応している。
残り五十メートル、奇跡が起きた。
アルスランは一条の閃光と化して、開いていた距離をぐんぐん詰め――先頭の竜を抜き去った!
「おおぉぉおお――ッ!!」
蒼天に双竜の軍旗が翻り、アルスランが凱歌をあげた瞬間、光希は両腕をあげて叫んだ。誰もが大歓声を叫んでいる。アデイルバッハも席を立ち、手を打ち鳴らしてアルスランを、八人の騎手を讃えた。
大広場に舞い降りた八人の騎手達に、鳴りやまない拍手喝采が送られる。
凱旋を抜けて、アルスランが誇らしげに手を振ると、天まで届くような、熱狂的な歓声が轟いた。
表彰台に立つアルスランの傍に、光希は花冠を手に近づいていった。心臓は興奮と緊張でばくばく鳴っているが、隣にはジュリアスがいてくれる。彼は光希が脚立を昇るのを助けてくれた。
「アルスラン、優勝おめでとうございます!」
緊張気味に光希がいうと、アルスランはほほえんで腰を屈めた。
「ありがとうございます、殿下」
「……これは天からの贈り物。天より賜りし祝福を、アルスラン、貴方の頭上に授けます」
光希は震えそうになる手で、色鮮やかな花冠をもちあげた。
「歓びも、哀しみも、凪ぎの時にも、苦痛の瞬間にも……光り輝く命の守護となりますように」
勝利を
「花冠を授けし我が主に、我が勝利と忠誠を捧げましょう。全ては、私の意思の通りに……ありがとうございます、殿下」
アルスランは、光希の手を鋼腕でとって、誇らしげに天に掲げた。
わぁッ――周囲から拍手喝采が湧き起こった。
それは思わず胸が熱くなる光景だった。観衆の興奮は冷めやらない。観衆の声援に応えて、二人は晴れやかな笑みで手をあげていた。
やがて、壇上を下りて仲間うちで輪になると、光希は肩の力を抜いて、素の笑みを見せた。
「おめでとうございます。すごく感動しました。本当に素晴らしかった!」
未だ興奮冷めやらず、まくしたてる光希を見て、アルスランは嬉しそうに笑った。
「ありがとうございます。約束しましたからね。私の勝利は殿下に捧げますよ」
「少し危なかったのではありませんか?」
ジュリアスがからかうと、アルスランは声にだして笑った。
「正直、衝突した時は焦りました。場外離脱は絶対に避けなければと必死でしたよ!」
あれはまさしく運命の瞬間だった。だが彼は、災厄に立ち向かい、見事に一位で完走したのだ。歴史に残る名勝負だろう!
興奮しきりで盛りあがっていると、ヤシュム達も輪に加わった。
「おめでとうございます、アルスラン」
穏やかな声でナディアが労う。
「いよぉ! やりやがったな」
ヤシュムはアルスランの肩を親しげに小突いた。これで完全復帰だな、とアーヒムも笑う。
「おめでとう、いい試合だった」
ジャファールが祝福をこめて肩を叩くと、アルスランは顔を輝かせた。そして感慨深く鋼腕を見つめた。
「かなり負荷をかけたし、無茶な姿勢から立て直した時も全く抵抗がありませんでした。殿下のおかげですね」
光希は嬉しくなって、彼の鋼の手を両手で握りしめた。
「アルスランの努力の賜物ですよ!」
二人は喜びを分かち合い、見つめ合った。そこにある感情は、果てしなく純粋なものだったが、傍で見ているジュリアスの表情は冷静そのものだった。
ジャファールの控えめな咳払いにより、アルスランも微妙な空気に気づいて身を引いたが、光希の興奮はおさまらなかった。
「ああ、何度思い出しても興奮する! 本当に凄かったです! 見ているだけでどきどきする。心臓の鼓動もすごいし、手に汗をかいていましたよ!」
「貴方ときたら、身を乗り出しすぎて、落っこちるんじゃないかと冷や冷やしましたよ」
ジュリアスの言葉に、光希は紅潮した顔で頷いた。
「だって、本当に凄かったもの。前のめりにもなっちゃうよ! 飛竜ってあんなに速く飛べるんだね!」
身振り手振りで、名勝負のあれやこれをまくしたてる。やがて周囲のほほえましげな視線に気がつくと、恥じ入るように咳ばらいをした。
「……すみません、取り乱しました」
気恥ずかしそうに光希が頭を掻くと、その場にいた全員が笑った。
「ほらほら、アルスランばかり褒めるから、総大将が拗ねていますよ!」
ヤシュムはもちろん冗談のつもりでいったのだが、光希は真に受けて、ジュリアスとアルスランを交互に見た。
「えっ、いや、だって凄かったから……」
その狼狽ぶりをジュリアスが密かに楽しんでいると、光希は背筋を伸ばして、きりっとした表情でいった。
「ジュリが一番恰好いいよ」
いったあとで恥ずかしくなり、耳の先まで赤くなった。ジュリアスが小さく吹きだすと、光希は怒ったふりをして英雄の横腹に拳を打ちこみ、周囲の笑いを誘った。
楽しげな雰囲気が気になるのか、ブランカは優美な首を伸ばして、光希の方へ顔を近づけた。
「ブランカ、大活躍だったね!」
光希は、胸に留めていたジャスミンの生花を一つとり、彼女に差し出した。ブランカは金色の瞳を細め、ふんふんと匂いを嗅いで、嬉しそうにギュアッと一つ啼いた。
……余談である。
ブランカの傍で雑談中、ジュリアスがこんなことをいいだした。
「貴方がそれほど感動してくれるのなら、私も競竜杯に出場すれば良かったですね」
ジュリアスの言葉に瞳を輝かせたのは、光希だけではなかった。
「総大将が出るなら、一着予想で買いますよ!」
意気揚々と答えたのはヤシュムだ。彼の肩を、アルスランは鋼腕で小突いた。
「俺が負けると思っているんだな?」
「シャイターンの異名を持つ相手だからなぁ」
ヤシュムはにやにやした顔でいった。アルスランは不敵な笑みを浮かべ、
「俺もぜひ勝負してみたいです。久しぶりにアール河の直線を競いませんか?」
「懐かしいですね」
ジュリアスはほほえんだ。軍に配属されて間もない頃は、訓練の一環で、剣技や飛竜、掃除や食事の速さまで、常に仲間うちで競っていた。
「僕も見てみたい!」
瞳をきらきらさせている光希を見て、ジュリアスはふっとほほえみ、挑戦的な目でアルスランを見た。
「一つ、勝負しましょうか」
「……これは、今日一番の名勝負になるんじゃないか?」
アーヒムのいう通り、急遽成立したアルスランとジュリアスの勝負に、観客は熱狂的な盛りあがりを見せることになるのだが――この勝負の行方は、また別の機会に話すことにしよう。