アッサラーム夜想曲

花冠の競竜杯 - 38 -

 アッサラームの評議会は、クシャラナムン財団の競竜杯への不正取引を明らかにした上で、厳罰に処したことを民衆に発布した。
 この発表は、多くの善良な市民に歓呼で迎えられ、競竜投票券発売初日の騒動にも関わらず、ポルカ・ラセは連日大盛況に恵まれている。
 北方や南部の遠路からも、毎日のように人がやってきて、誰もが競竜投票券を買った。中には買付専門の行商人もいて、宿泊施設はどこも満員御礼である。アッサラームの外壁の向こうに、天幕を張る商隊キャラバンも少なくなかった。
 発売初日だけで、金貨数百枚にも及ぶ大金がポルカ・ラセに舞いこみ、重たい台帳には、第一級の名門貴族の名もずらりと並んでいたという。
 騒動から七日後の午後。ジュリアスは非公式でポルカ・ラセを訪ねた。
 ヘイヴンは書斎にジュリアスを通すと、各種の酒でもてなし、先ず事件の解決を言祝ことほいだ。
「よくきてくださいました。事件の解決を祝って、乾杯いたしましょう!」
 晴れやかな笑みを浮かべる青年を、ジュリアスは冷静に見つめ返した。
「そう思いますか?」
 酒杯に口をつけず訊ねると、ヘイヴンはいっそう笑みを深めて頷いた。
「もちろんです。貴方はまさしく、アッサラームの守護神ですね。クシャラナムン財団も貴方の手にかかれば逃げおおせない」
「確かに、ジャプトア・イヴォーは私がこの手で殺しました。ハーランは倒れ、財団に相応の制裁も下しました。大半の者は、全て終わったのだと思っているでしょう」
「ええ、おかげさまで、当店への嫌がらせも止みましたよ。脅威は去ったといえるでしょう」
「あと一つ残っています」
 ヘイヴンは顔に笑みを貼りつけたまま、首を傾けた。
「……といいますと?」
「貴方の処罰をどうすべきか、話を訊いてから決めようと思い、今日はここへきました」
 青い双眸がきらりと輝く。かす かに判る程度の微笑を秘めた眼差しを見て、ヘイヴンは慄然りつぜんとした。傍から見れば、雷に打たれたかのように茫然として見えたが、彼自身は不思議なほど焦燥を感じていなかった。
(やはり、知っているのか……)
 焦りよりも、覚悟していた場面がついにきたという、諦念にも似た実感の方が強かった。
 いい逃れはできないことを早々に悟り、若き支配人は深いため息をついた。
「……何をお訊きになりたいのでしょうか?」
「報告にはない、貴方の知っている財団との接触について説明してください」
 ヘイヴンは逡巡すると、書棚の傍により、革表紙の本を取り出した。間に挟まっている小さなカードを摘まみ、ジュリアスに渡す。
「祝賀会にお二人をお迎えした夜、ジャプトアの遣いが私によこしたものです」
 ジュリアスにも見覚えがあった。書斎で帳簿を検めていた際に、彼の執事が持ってきたものだ。あの時、眉をひそめたヘイヴンの顔が印象に残っている。カードの内容は、

“久しぶりだね、マグヌス。公式賭博場の認定、おめでとう。二人きりで祝杯をあげないか? 明日の朝、遣いを送る。良い返事を期待しているよ”

「……マグヌスとは、貴方のことですか?」
 ヘイヴンの表情は僅かに翳った。硬い表情で頷く。
「かつてジャプトアは私をそう呼びました。とうに捨てた名前です」
「遣いの者はやってきたのですか?」
「はい。夜も明けきらぬ早朝にやってきました。私は彼に招待状を渡しました。返事はすぐにきて、その日の晩にジャプトアはポルカ・ラセへやってきました」
「彼がポルカ・ラセに入っていくところを、見た者はいますか?」
「従業員が見ています。奥の応接間に通すと、ジャプトアは早速、賭博への加味を仄めかしてきました。私は断りました。屈するつもりはありませんでした。ところが、話し合いの最中に、ジャプトアは突然に咽を抑えて悶絶し始め、そのまま事切れたのです」
「原因は?」
「恐らくは、時間のかかる致死性の毒を、予め飲まされていたのでしょう」
「その応接間を見せていただけますか?」
「構いませんよ」
 応接間に入ると、ジュリアスは超常的な感覚を研ぎ澄ました。かす かではあるが、空気の異変を感じる。
「……いかがされましたか?」
 沈黙しているジュリアスを訝しむように、ヘイヴンはいった。
「いえ……ここで死んだのは本当のようですね。ただ、ジャプトア本人ではなかったのでしょう。違いますか?」
「ジャプトアは用心深い男です。常に影武者を立てて行動し、誰にも素顔を明かそうとしませんでした。あんな風に、簡単に死ぬような男でないことは確かです」
「その時、報告しなかった理由はなぜですか?」
 ヘイブンは唇の端をひねって笑った。
「部屋に二人きりの状況で、片方が死んだのです。私には身の潔白を証明する手立てがありません。過去が明るみに出れば、彼を殺害するに十分な動機があることまで発覚してしまう。馬鹿正直に名乗り出る利点は、欠片もありませんでした」
「貴方はクシャラナムン財団に在籍していましたよね。顔を覚えてはいなかったのですか?」
「財団では薬を飲まされていましたし、部屋には香が焚かれていて、常に頭に霞がかかっているような状態でしたから……」
「財団から逃げたあとも、連絡をとっていたのでは?」
 淡々とした口調で問われ、ヘイヴンは思い切っていった。
「脅迫されていました。先代に迷惑をかけるわけにもいかず、私の資金から支払いに応じていましたが、競竜杯を機に決別しています」
 これは真実である。真っすぐに見つめ返す男を見て、ジュリアスは軽く頷いた。
「先代のラムジー・ジョーカーですね。彼は、貴方の過去を知っていたのですか?」
「はい。彼は私にヘイヴンという名を授け、養子に迎えてくださいました。命の恩人です」
 ヘイヴンは、来し方を懐かしむように目を細めた。生まれた時は、富も高貴な血筋も持っていなかった。財団で性愛の才に目覚め、逃げだしてからはラムジー・ジョーカーの愛人になった。彼には感謝してもしきれない。ヘイヴンを養子に迎えて、教養を与え、厖大ぼうだいな財産とポルカ・ラセを遺してくれた。第二の天性、金儲けの才に目覚めたのは、彼のおかげなのだ。
「……私は、彼の愛したポルカ・ラセを、失墜させるわけにはいかなかったのです」
 故人をしの ぶ青年を見て、ジュリアスは黙考した。裁判沙汰、下手すれば営業停止になることを恐れて、彼は醜聞を隠滅することにしたのだろう。
 ヘイヴンに罪を被せようとしたのは、ハーランだ。
 小心者のハーランは、横領には加担できても、ジュリアスと光希を襲う計画を聞いて、怖くなったに違いない。
 だが彼は、殺したつもりのジャプトアが影武者だとは知らなかった。従者だと思っていたマシャーロこそがジャプトアであり、その男の調合した毒により最後は命を落とす。
 そして、本物のジャプトアは、刺客にジュリアス達を襲わせ、全ての罪をハーランとヘイヴンに負わせ、ポルカ・ラセの名誉を地に落とし、競竜杯の公式賭博場の権利を手に入れる魂胆だった。
 顛末を吟味するように沈黙しているジュリアスを見て、ヘイヴンの方から口を開いた。
「自分だけ助かるとは思っていません。貴方がここへきた時から、覚悟はできています」
「覚悟?」
「貴方に殺されるのなら、本望ですよ。毒を煽れというのなら、喜んで煽りましょう」
 鷹揚おうように両手を拡げる青年を、ジュリアスはじっと見つめた。
「……せっかくの申し出ですが、そう簡単に殺すわけにもいきません。ポルカ・ラセの支配人は、今のところ貴方が適任です」
 景気よく機能している商業施設に、表立って波紋を投じないよう、人の少ない時間帯に単独で訪問するくらいには、彼の商売の才を評価している。だが――
「貴方に評価されるとは光栄ですね」
 恭しく胸に手を置く青年を、ジュリアスは冷厳とした眼差しで見た。
「今回は目を瞑りますが、貴方がジャプトアの件を報告していれば、軍の介入を早められたということを覚えていてください。ハーラン邸を検め、その場でジャプトアを捕まえることができたのです。光希を危険な目に合わせることもなかったでしょう」
 鋼のような視線に怯み、ヘイヴンは気まずそうに視線を半ば伏せた。
「……信じられないかもしれませんが、殿下に危害が及ぶとは思ってもみませんでした。私は、あの方が好きなのです」
 芝居臭さの抜けた抑揚を欠く声は、彼の素に近い口調である。ジュリアスは音もなくサーベルを抜くと、剣尖をヘイヴンの鼻先に突きつけた。
「二度はありません」
 目を見つめたまま、剣尖で心臓の上を軽く突く。更に下へおろしていき、ヘイヴンの股間を軽く突くと、彼の顔は奇妙な紫色に染まった。
「私の花嫁に髪の一条でも傷つけたら、欠片でも煩わせたら、お前の睾丸を切り落として獣の餌にします――判りましたか?」
「ッ、肝に命じておきます」
「今後は要請に応じて、クシャラナムン財団について知っていることを話してください。それから、年間総売上が前年を下回ることがないよう、経営に取り組むように」
 彼の言葉を心の深くに留めておこうというように、ヘイヴンは頷いた。
「もう一つ、私がいいというまでクロガネ隊への年間寄付金をこれまでの倍額で支払いなさい」
 淡々と命じると、ジュリアスは剣を鞘に納めた。ヘイヴンはよろめきながら、遊戯卓に手をついている。
「し……承知いたしました」
「不満があるのなら、今この場でいってください」
 ヘイヴンは艶めいた息を吐きながら、やや内股気味に姿勢を正した。
「いいえ、我がきみ。仰せの通りにいたします」
 紅潮した顔は、妙にいきいきとしている。
 はっきりって気色悪かった。片眼鏡の奥から期待に満ちた光が零れるのを見て、ジュリアスは無性に、同じ空気を吸っているのが嫌になった。
「……話は以上です」
 ヘイヴンの顔を見ずにいうと、呼び止める声を無視して部屋をでていく。帰ったら剣の手入れをしよう――強迫観念めいたものを感じながら、ポルカ・ラセをあとにした。