アッサラーム夜想曲

花冠の競竜杯 - 40 -

 競竜杯のあと、光希はジュリアスと共にお忍びで旧市街へ繰りだした。
 賑々にぎにぎしい往来には、肩を寄せ合うようにして露天商がずらりと並んでいる。馬車の騒音、商売人の呼び声、さざめき笑う人声……人間の活動がもたらすありとあらゆる音が、絶え間なく聞こえている。
 物珍しげに、光希があちこち視線を彷徨わせていると、露天商が二人、木彫りの置物を入れた籐籠を手に、期待に満ちた表情で近づいてきた。
(おっと、まずいぞ……)
 緊張気味に俯く光希の隣で、ジュリアスは冷たい一瞥を二人組に向けた。高貴な美貌に気圧され、彼等は後じさり、往来へまぎれるようにして消えた。
「……お忍びって久しぶりだね」
 帽子のつばの下から隣を仰いで、光希は小声で囁いた。するとジュリアスも長身を屈めて、耳に囁き返した。
「前を向いて。きょろきょろしていると、また声をかけられますよ」
「うん」
 光希は前を向いて、ジュリアスの腕にもたれた。誘われるようにして歩を進める。
 あちこちよそ見をする光希に、ジュリアスは足元に気をつけて、ここに段差が、頻繁に声をかけた。過保護だなぁ、と思いつつ苦笑を零す光希の顔を、ジュリアスは不思議そうに覗きこんだ。
「いや、そんなに心配しないでも、転んだりしないよ……っ!?」
 笑った傍から蹴躓いて、力強い腕に支えられた。
「気をつけて?」
 含みのある微笑を向けられて、光希は失敗を誤魔化すように笑った。
「……ごめん、道が少し、でこぼこしているみたい」
「そうですか?」
「少し、浮かれているのかもしれない。ジュリと一緒に歩けるの、久しぶりだからさ」
 照れたように光希がいうと、碧眼がふっと優しく笑う。ジュリアスは身を屈めると、素早く光希の頬に口づけた。胸に暖かい喜びが拡がっていくのを感じながら、幸せな心地で歩いていると、屋台前にいる二人の兄弟に目が留まった。
「これで買えますか?」
 少しばかり背の高い方の子供が、屋台の主に小銭を見せている。店主は小銭を見つめて、苦笑を浮かべた。
「ちょっと足りないが、いいよ。二つやろう。今日は競竜杯のお祭りだ、楽しんでいきな!」
 気風のいい申し出に、兄弟達は表情を綻ばせた。
「ありがとう!」
 胸の温まる光景に、光希は思わず頬を緩めた。
 この先もう会うことはないだろうが、仲睦まじい兄弟の様子を、永く記憶していくことになりそうだ。遥かなる故郷、遠い日本にいる兄を想い、胸に漠とした感情が沁み入ってきた。
「――光希?」
「ん?」
 顔をあげると、ジュリアスはものいいたげな表情で光希を見つめていた。
 なんでもない、かぶりを振りながら、彼には偲ぶ家族もいないのだと光希は思った。いや、幼いジュリアスを導いたイブリフ老師とサリヴァンがいる。ルスタムやナディア達。幼少の頃からジュリアスを支えてきた、彼の成長を見守ってくれた人たちは、たくさんいる。
 喧騒の中で心が漂い、緩慢な思考で思い耽る光希の髪に、ジュリアスは優しく口づけた。
「……疲れましたか?」
 聡明で、思い遣りに満ちた青い瞳に見つめられて、光希はほんのり顔を赤らめ、笑顔になった。
「……ううん。楽しいよ、すごく!」
 元気溌剌、朗らかに笑う。甘い響きを帯びた笑い声を聞いていると、不思議とジュリアスも一緒に笑いたい気持ちになった。
「そろそろ、尖塔に昇りましょうか」
「うん!」
 夜になると、アール河の岸辺で花火が打ちあげられるのだ。
 人気のない小径こみちに入り、二人は閉鎖された尖塔へ向かった。ジュリアスの神力で、重い掛け金をあげて扉を開け、中に忍びこんだ。長く放置された庭は、嵐が通過したかのような有様だったが、堅牢な建物は雨風に負けることなく、堂々と佇んでいた。
 仄暗い螺旋階段を二人は手を繋いで上り、やがて光希が疲れると、ジュリアスは光希を抱きあげて天辺まで運んだ。
「わぁ……」
 高所の絶景に、光希は感嘆の息をついた。
 黄昏れが迫り、朱金の陽は、遥かなる尖塔を緋色に縁取っている。空はさまざまな色彩にいろどられ、赤やだいだいの光が筋となり、日常の光景を美しくみせている。
 尖塔の天辺、鐘楼の鐘の真下に二人は腰をおろし、街並みをみおろした。
 眺望はため息が出るほど美しく、壮大な蒼に包まれていくアッサラームの都邑とゆうを一望できる。
 石床の上に絨毯を広げると、ジュリアスは足の間に光希を座らせて、自分の胸にもたれかかせた。
 その心地良さに光希が柔らかく息を吐くと、軽く指を搦めて、親指で丸く光希の掌をなぞる。しばらくそうしていたが、手をいじくるのをやめて、光希の指を自分の手で包みこんだ。
「どうしたの?」
 くすぐったそうに光希が笑うと、ジュリアスも小さく笑みをこぼした。
「……いえ、触れられる距離にいるのが嬉しいだけです」
 光希は照れ笑いを浮かべた。同じ気持ちだった。貴賓席は、隣あっていても間隔が開いているから、こんな風に手を繋ぐことはできない。
「連れてきてくれて、ありがとうね」
「気に入ってくれましたか?」
「もちろん! 最高の特等席だよ」
 絶景もさながら、彼の心遣いが嬉しかった。以前、休憩室でヤシュム達と雑談していた時に、一般客席から観戦したいと光希が零していたのを、覚えていてくれたのだ。
 夜の帳が降りてくる。
 清々しい砂漠を吹き渡る風を感じ、星々と、星明りを浴びたアッサラームを眺めているうちに、白光する丸い球が夜空を翔け昇った。
「花火だ!」
 光希は叫んだ。
 高く昇り、ふっと消えたあとに、夜空に大輪の花を咲かせる。光の飛沫ひまつがぱらぱらと流れ落ちて、夜闇を金色の斑に染めあげた。
「わぁっ……」
 光希の感嘆の声は、地上から沸き起こった大歓声にかき消された。
 光の雨の余韻を残したまま、速い速度で火矢が打ちあがり、更にもう一つがあとから昇った。ぱぁっと螺旋状に花開いて交錯する。
 発光した玉は次々に下界から打ちあげられた。高く昇り、ふっと消えたあとに、花のように開く。草花や動物、竜のかたちが夜空に浮き上がる度に、拍手喝采を轟かせた。
 街中の窓に、紅や紫、橙、黄金の光が映り込み、流れ落ちる星屑の色が石壁を照らしている。
「綺麗だなぁ……」
 ジュリアスの顔をそっとうかがうと、夜空を見つめる青い瞳に、鮮やかな花火の色が射しこんでいた。
(綺麗だなぁ……)
 思わず見惚れていると、視線に気がついて、ジュリアスは光希を見つめた。
 蒼く澄んだ愛情深い眼差しは、深い充足感を光希にもたらした。生きているという実感を、驚くほど新鮮に感じられる。天啓にも似た答えが、唐突に降ってきた。

 これが人生なのだ。

 ジュリアスの傍に在る人生。
 彼の傍にいると、真の意味で生きていると思える。命のもたらす感動が何度でも蘇り、世界が美しく輝いて見える。
 魂が溶け合っていくのを感じながら、ほほえみあい、顔を寄せて二人は瞳を閉じた。