アッサラーム夜想曲

花冠の競竜杯 - 33 -

 厳戒態勢を知らせる白い烽火の立ち昇るアルサーガ宮殿に、光希は厳重に護られながら到着した。
 重たい門扉もんぴをくぐり抜けると、武装した騎馬の隊伍たいごが並び、近くに軍医が待機していた。
 彼等は、平常に振る舞うジュリアスを見て安堵はしたが、矢傷を見ると顔をしかめた。
 処置はすぐに始められた。傷口を洗浄する様子を光希が固唾を飲んで見守っていると、ジュリアスは気遣わしげな顔つきになり、部下に命じた。
「光希を休ませてあげてください」
 ローゼンアージュはそっと光希の肩に手を置いたが、光希は全身に力をこめて拒んだ。
「ここにる。邪魔はしないから」
 動かない光希を見て、ジュリアスは側近達に目配せをした。動くまいとする光希の傍へ、ヤシュムとナディアが近づいてくる。
「ちょいと荒っぽい光景になります。見ていて気持ちのいいものではありませんから、向こうにいきましょう」
 ヤシュムは安心させるように笑みを浮かべて、茶目っぽくいった。
「お手をどうぞ、殿下」
 ナディアも優しく手を差し伸べたが、光希はかぶりを振った。
「ジュリの傍にいさせてください」
 一瞬でもジュリアスの傍を離れたくなかった。
 潤んだ瞳に懇願されて、ヤシュムとナディアの顔に幽かな躊躇いの気配が浮かんだ。沈黙する二人に代わり、ジュリアスは穏やかな声音でいった。
「……光希、私なら平気ですから、先に邸に戻って休んでいてください」
「嫌だ! ここにいる」
 瞳に強い意思の光を灯し、全身を強張らせて光希はいった。ジュリアスは、穏やかだが、反駁はんばくを許さぬ視線をヤシュム達に送った。
「光希を連れていってください」
 主君の命に従い、彼等は光希を助け起こそうとしたが、光希は大きく身体をよじって逃げた。
「お願い、ここにいさせて、絶対に邪魔はしないからッ!」
 懸命に涙を堪える光希を、誰も、無理に連れ出すことはできなかった。周囲の視線が集まり、ジュリアスは困ったようにほほえんだ。
「……判りました。そこにいてください」
 光希に柔らかな笑みを見せたあと、怜悧な表情で軍医を見据え、早く終わらせるよう命じた。
 治療が始まる。
 軍医は、清潔な布をジュリアスに ませると、矢を押し出すための槌を手にした。返し刃のついたやじりなので、無理に引き抜くのではなく、肩を貫通させて反対側から取りだすのだ。
 光希は手を組んで、恐怖の光景に身構えた。
 槌が降るおろされる――矢が肉に沈む。
 肉を穿つ、槌の音。
 緊張と恐怖で、全身の血がどくどくと流れている。
 東西大戦で負った朱い刀傷が、脳裏をよぎる。
 三年経って、ようやく薄くなってきたのに。もうあんな風に傷ついてほしくなかったのに。
(俺のせいだ。俺のせいなんだ。神様、ジュリを助けて……お願いします……)
 処置の間、ジュリアスは一言も声を漏らさなかった。光希は無力を噛みしめながら、手を組んで天に祈り続けた。
(神様、シャイターン、お願いします。ジュリを傷つけないで。頼む、もう苦しめないで……)
 永遠にも感じられる時が過ぎる。
 軍医が真鍮盤に鏃を置き、からん、と硬質な音が鳴った。
 矢は肩を貫通し、綺麗にとれた。
 ジュリアスは眉根を寄せているが、意識はしっかりしているようだ。肩に押し当てられた布が、瞬く間に血で染まっていく。
 針と糸を受け取る軍医を見て、光希は唇を噛みしめた。
(頑張れ、ジュリ。頑張れ、あと少しだ)
 傷口の縫合と消毒を終えて、絹包けんぷの包帯をきっちりと巻くと、軍医は光希の為に場所を譲った。
「光希」
 ジュリアスに手を差し伸べられ、光希はふらふらと近づいた。指先を優しく握りしめられた途端に、身体はさざなみのように震え始めた。
 黒い瞳に、涙が盛りあがる。
 感情の渦に呑みこまれないよう、懸命に自制している。
 その姿を見てジュリアスは、心臓を鉄の輪で締めつけられるような痛みを覚えた。
 洟をするる光希を慰めようと抱き寄せても、光希はジュリアスの身体を気遣って体重を預けようとしない。
「怖い思いをさせましたね。もう大丈夫ですよ」
 頬やこめかみに唇を押し当てる。光希は顔をあげると、苦悶の表情でジュリアスを見つめた。動揺を隠しきれずに、唇は戦慄いている。
「だ、大丈夫じゃないよ。怪我をしているんだ。横になっていた方が……」
 恐怖のあまり、歯はかちかちと鳴っていた。
「大した怪我ではありませんよ。光希が傍にいてくれれば、すぐに癒えます」
「こ、こ、怖かった」
 か細い声で光希はいった。その瞬間、彼に対する途方もない想いが膨れあがり、ジュリアスの全身を貫いた。抱きしめる腕に力がこもり、光希が小さく呻く。力を緩めると、光希はおずおずと身体を寄せてきた。
 彼を慰めながら、ジュリアスは恐怖を覚えていた。
 もし、矢が光希に当たっていたら?
 全身に悪寒が走り、息が止まりかける。世界で唯一の光が、永遠に消えてしまうところだったのだ。
(おのれ、よくも光希を……ッ)
 目も眩むような怒りに支配された。身体の底から、燃えるような憤怒がこみあげてくる。
 許さない――ジャプトア・イヴォー。ただで済むと思うな。この手で引導を渡してやる。
 瞑目し、神眼で千里を見透すと、由々しき事態が見てとれた。早くしないと、本当の敵が逃げてしまう。
 瞼をあげると、ジュリアスは光希をローゼンアージュに預けた。
「これ以上、いかなる危険も光希に及ばぬよう、絶対に護りぬいてください。必ず邸に送り届けるように」
 白刃はくじんの輝きを碧眼に映した主を前に、ローゼンアージュはしっかりと頷いた。二人の間で交わされる視線を見て、光希は表情を凍りつかせた。
「ジュリは? どこへいくつもり?」
「すぐに戻ります」
 なぜ――心臓を抉られるような痛みに貫かれ、光希は絶望に顔を歪めた。
「そんな……無茶だよ、怪我しているんだよ?」
 詰め寄ったところへ、アルスランとナディアがジュリアスを呼びにきた。光希は咄嗟にジュリアスを背に庇うと、両手を広げた。
「駄目です、怪我をしているんです!」
 泣きそうな顔で哀訴あいそをされ、二人は困った顔をした。ジュリアスは震える肩を後ろから抱き寄せ、耳に唇を寄せた。
「光希……」
 吐息のような囁きに、光希はきつく目を瞑った。振り向かせようとする力に、両脚に力をこめて抵抗したが、涙が溢れてきたところで諦めた。顎に手をかけられ、青い瞳に見つめられる。
「すべきことを済ませてきます。明日の朝までには、絶対に貴方の元に戻ります。信じて待っていてください」
(嫌だッ!!)
 光希の中に、強烈な感情が沸き起こった。
 欠片も躊躇せずに、そんな台詞を口にするジュリアスを憎らしいとすら思う。癇癪を起したくなる気持ちを、ぐっと抑えて、彼を睨みつける。
「ジュリ……ッ」
 だが、光希が心配でたまらない――そんな顔のジュリアスを見ていると、もはや、それ以上は言葉にならなかった。歯を食いしばって涙を堪えながら、ただ頷くしかなかった。
 震える手で上着の内側を探る。再び顔をあげた時、涙に濡れた顔には敗北の色が滲んでいた。
「……これ、良かったら持ってて」
 改良拘束具を渡されて、ジュリアスは返事に詰まった。使う場面を想像できなかったが、受け取らないという選択肢はありえなかった。
「ありがとうございます」
「僕も一緒にいけたらいいんだけど、残念な結果になるのは目に見えているから」
 唇を戦慄かせながら、こんな時でも機知を口にする光希が、ジュリアスはたまらなく愛しかった。
「貴方は私の守護天使です。いつでも傍にいて、身を助ける道具まで授けてくれる」
「……他に特技があれば良かったんだけど、僕が一番得意なのは、装剣金工だから」
 か細い声であったが、ジュリアスには福音書的な響きに聞こえた。
「素敵な特技ですよ。天衣無縫の創造する力とは、貴方にぴったりだ」
 涙に濡れて熱をもった頬に、ジュリアスは優しく唇を押し当てた。こめかみや黒髪にも口づけを落として、首筋に顔を埋めると、甘くて、優しい匂いを胸いっぱいに吸いこんだ。
 ほんのひと時、腕の中で光希はじっとしていたが、強張った顔でジュリアスを見つめた。
「どうか気をつけてね」
「すぐに戻ります」
 ジュリアスは腰を屈めると、唇に触れるだけの口づけをした。数秒ほど見つめ合い、迷いを断ち切るようにきびすを返す。
 光希は茫然とジュリアスの背を見つめて、懇願の眼差しを彼の腹心の部下達に向けた。
「……どうか、ジュリをよろしくお願いします」
 その声は心配のあまり掠れていた。アルスランもナディアも、光希の痛みを思い、しっかりと頷いた。
 彼等のやりとりを、ジュリアスは背中で聞いていた。
 シャイターンと畏れられる我が身を、あのように案じるのは、西大陸広しといえど光希しかいない。
 胸が痛かった。
 命よりも大切な存在を、ほかならぬジュリアスが哀しませている。相反する想いが苦しい――彼の傍にていてやりたい、片時も離れずに慰めてやりたい。だが、その前にやらねばならぬことがある。
 不穏分子を始末するのだ。光希を危険な目に合わせたことの償いをさせねばならない。