アッサラーム夜想曲

花冠の競竜杯 - 34 -

 蒼い軍旗が夜闇に翻る。
 張り詰めた空気の中、ジュリアスは、三百あまりの連隊を率いてアッサラーム市街を駈けていた。左右にはアルスランとヤシュム、その後ろに彼等の率いる麾下きかが続き、殿軍しんがりはナディア、アーヒムと彼の古強者ふるつわものが務めている。
 腰に黒牙のサーベルをいた連隊は、東西大戦に従軍し生還を果たした選りすぐりの精鋭だ。急な招集にも関わらず、その表情は落ち着き払ったもので、動揺の欠片も見出せない。 
 今夜の最大の目的は、ハーラン・クモンとジャプトア・イヴォーの拘束である。彼等には複数の疑いがかけられており、中でも競竜杯に関する不正取引は問題視されていたが、今夜の襲撃は完全にジュリアスの逆鱗に触れた。もはや取り締まるくらいでは生ぬるい、身の破滅に足る制裁を与えるつもりでいた。
「肩の具合はいかがですか?」
 くつわを並べるアルスランが、気遣わしげに訊ねた。
「問題ありません」
 ジュリアスが即答すると、今度はヤシュムが声をかけた。
「総大将自らお出ましにならなくても、我々で始末しておきますよ」
 冗談半分の軽い口調だが、彼が本気でいっていることはジュリアスも判っていた。
「いいえ。ジャプトア・イヴォーはこの手で制裁したい――光希を脅かした報いを受けてもらいます」
 鋼の響きをもつ声に、二人は言葉を飲みこんだ。御意、と短く応じて、以降は口を噤んで馬を疾走させた。
 遠くの空に、白い煙が立ち昇っているのが見えた。ハーランの邸だ。近づくに連れて、警告を叫ぶ怒号、鋼の音が聞こえてくる。
 部下が門扉もんぴの前で警笛を鳴らすと、転がるようにしてハーランが駆けてきた。血に濡れた手でかんぬきを外し、
「どうか! どうかお助けを!」
 声には紛れもない恐怖が滲んでいた。頬には生々しい刀傷が走り、金の縫い取りを施された天鵞絨びろうどの衣装に、点々と血が跳ねている。
「ジャプトア・イヴォーはどこですか?」
 ジュリアスは冷静な声と表情で訊ねた。
 なぜ、それを知っているのか――ハーランは顔に驚愕の表情を浮かべたが、ぶるぶると首を振った。
「わ、私は何も」
「時間がありません。質問に答えてください」
「――ひッ」
 ヤシュムが剣尖を喉に突きつけると、ハーランは恐怖に仰け反った。
「ここにジャプトアが潜伏していることは知っています。それでも白を切るようなら、私は、あらゆる権限を駆使して、貴方を追い詰めることになるでしょう」
 武力行使も辞さないという最終通告を突きつけられ、ハーランの口から半ば畏怖、半ば恐怖の呻きが漏れた。
「め、滅相もない! 貴方を欺こうなどッ」
「言い訳は無用です。中を検めさせてください」
「ここにはおりません! あの男は、私を斬りつけて逃げたのです!」
「どこへ?」
「私は財団に嵌められたのです! ジャプトアの名を語る男を私の元に送りこみ、御身の強襲を企て、全ての罪を私に被らせようとしたのです!」
 必死の形相でまくしたてるハーランを、ジュリアスは氷の眼差しで見下ろした。
「貴方の処罰はあとまわしです。本物のジャプトアはどこへいったのですか?」
「どうかご慈悲をッ! 私はジャプトアの恐ろしい計画を知り、止めようとしたのです! ああ、だが奴は地獄の裂け目から姿を顕し、私を斬りつけ、邸に火を点けおった!」
 ハーランは憤怒の表情で、片手で血の流れる頬を押さえながら、もう片方の手で背後の邸を指さした。幸いにも、石で組まれた邸は火が拡がらず、今は、窓の隙間から細い煙が辛うじて立ち昇っている程度だ。
「ジャプトアはどこへいったのですか? 答えなさい」
「判りません、計画が失敗した以上、アッサラームから逃亡するつもりなのでしょう。あの男は……が、は……っ」
 言葉は不自然に途絶えた。喉を押さえて、苦しげに呻く。ヤシュムは舌打ちをすると、ハーランの傍に屈みこんだ。
「誰にやられた?」
「が、うぐぅ……っ」
 声は不明瞭で聞き取り辛い。ヤシュムが尋問している間、ジュリアスは彼方を見透す遠視に集中していた。
「ジャ、ジャプトア……ッ……よくも、私に毒を……あの男、あの男が……ッ」
 血走った目でハーランは怨嗟を吐いた。喉は無残に焼け爛れて肉が覗いている。彼が助からないことは、誰の目にも明らかだった。
 薄れゆく意識の中、ハーランが最後に目にした光景は、争いに呑みこまれていく邸の姿でしかなかった。濁った瞳から仄暗い焔が消えていき、心臓が最後の鼓動を打った時――
「足止め部隊のおでましだ」
 邸の中から聞こえてくる怒号に、ヤシュムが瞳を光らせた。だが、彼が剣を抜くよりも早く、アーヒムが前に進み出た。
「ここは引き受けましょう。総大将、お先へどうぞ」
 続々と現れる傭兵部隊を見据えたまま、アーヒムはいった。門を挟んで相対すると、深々と息を吸いこみ、
「全員、黒牙を抜けぇいッ!」
 よく響く力強い声で味方にげきを飛ばした。空気をどよもす怒号に味方は奮い立つ。ジュリアスは手綱を引き、馬を操りながらアーヒムを見た。
「先にいきます!」
 アーヒムは堂に入った敬礼で応えた。ジュリアスはトゥーリオに跨ると、前を見据えたまま声を張りあげた。
「私の部隊は後に続け! ジャプトアを捕らえる!」
 号令がかかり、二分された連隊の一方が、邸の外へと馬を走らせた。
「ご武運を!」
 アーヒムの激励を背中にもらい受け、ジュリアスは一列縦隊じゅうたいを作り、蹄の音を響かせ、刀槍とうそうを掲げての白兵戦を走り抜けた。
 機動が速やかに行われたことを確認し、アーヒムは目の前の戦局に集中した。
「さぁ、正念場をもらい受けたぞ。一人もここから逃がすなよ!」
 彼にしか扱えぬ広刃の長剣を背中の鞘から抜き放ち、重量をものともせず高く掲げると、味方も剣を掲げて敵に突っこんだ。
 熾烈な闘いに身を投じながら、アーヒムはすぐに敵の弱点を見抜いた。にわか部隊にはよく見られることだが、個久の力は高くとも、統率が今一つであった。
「ナディア! 指揮官だけ狙え! 俺が注意を引く」
 アーヒムは荒々しく声を張りあげ、敵の視線を集めた。ナディアは彼の指示を忠実に守り、敵の目立った働きをする傭兵に狙いを定めて仕留めた。
 作戦は効果覿面で、敵は支離滅裂に算を乱し始めた。潰走かいそうの状態となった敵を次々に捕え、邸の混乱は次第に収まりつつあった。
「アーヒムッ!」
 敗走の群れに逆らい、傭兵が一人吠え猛った。先尖りの冑に駝鳥の羽根飾りを揺らし、豹皮の戦装束を着こんだ戦士で、赤銅色の厳めしい顔を憤怒に染めている。
 麾下の護衛が主を守ろうと壁をつくるが、アーヒムは構わずに歩みでた。
「お前が指揮官か」
「バトラフだ。その首いただくぞ!」
 剣尖をアーヒムに向け、雄々しく宣告する。大将同士の一騎打ちに視線が集まり、火花散る剣戟けんげきが始まると、それぞれの陣営から、闘いを鼓舞するかけ声、罵りの舌鋒ぜっぽうに怒号の応酬となった。
 決着は、長くはかからなかった。バトラフの剣筋は悪くなかったが、俊敏な動作で大剣をふるうアーヒムには及ばなかった。受け身をとるだけで精一杯で、腕がしびれて構えが下がった途端に、鋼が一閃し、ぱんっと首が飛んだ。
 盛大に血しぶきが舞いあがる中、味方は勝利の咆哮を叫び、畏れをなした敵は戦意を挫かれた。
 残党狩に推移したところで、アーヒムは白い烽火を焚いて、味方に戦局を伝えた。ナディアは後方支援に回り、医療衛生兵と共に傷ついた味方や、逃げのびた邸の者達の具合を見ている。
 現場が一通り落ち着いたとろこで、ナディアはアーヒムの傍に寄った。
「アーヒム、こちらは片付きました。邸の中にも、人は残っていません」
「そうか。いい働きをしたな」
 力強く肩を叩かれ、ナディアは苦笑を浮かべた。
「アーヒムには及びませんよ。中をご覧になりますか?」
「そうするか」
 二人は、数人の配下を連れて中へ入った。
 邸は烈しく交戦したあとが残っており、瑠璃を張った天井にまで血が飛び跳ねていた。床に伏している傭兵に混じって、哀れな召使も幾人かいる。昇魂の燐光が漂いだして、邸の中は妖異な光に包まれていた。
 哀しげな表情を浮かべるナディアを見て、アーヒムは彼の頭を無造作に撫でた。
「救えた者もいる。俺達は、できることをしたんだ」
「……ええ」
「手分けしよう。部下に遺体の身元の確認をさせる。ナディアは、総大将への手土産を探してくれ」
「手土産?」
「ハーランの罪状の裏付けとジャプトアの印だ。こういうのは得意分野だろう?」
 逆に、彼はあまり好かない作業だ。ナディアはほほえみ、配下を三組に分けて探索を始めた。彼等は一意専心の表情で邸をくまなく探索し、間もなく、悪事を立証するに足る証拠を見つけた。ジャプトアの署名の入った密書を受け取り、アーヒムは眉をひそめた。
 そこには、ポルカ・ラセの収益の調べと、横流しを匂わせる文面に、財団関係者の名が記されていた。
「強欲なことだ。こういうやからは、権力の全てを牛耳らないと気が済まないのだろうか」
 アーヒムが呆れたようにいうと、ナディアも疲れた表情で頷いた。
「理財局は揉め事が絶えませんね。少しは控えてほしいものです」
「全くだ。競竜杯を前に、面倒ばかり起こる……さて、俺はもう少しここを調べる。ナディアは総大将に合流してくれるか?」
 アーヒムは窓の外を見ていった。ナディアは彼の視線を追いかけ、納得した。
 遠くに、夜のとばりを裂くように立ち昇る、白い烽火が見える。味方からの応援要請だ。
「判りました。すぐに向かいます」