アッサラーム夜想曲

花冠の競竜杯 - 32 -

 垂れこめた闇の中、二人を乗せた馬車は、市街を抜けて人気の無い川沿いの道を走っていた。
 いつもなら、ジュリアスにもたれて眠りこけるか、会話に興じるかのどちらかである光希にしては珍しく、神妙な顔で窓の外に目をやっている。彼の不安と緊張を気取り、ジュリアスも瞳に冷光を浮かべて外を見ていた。
 神眼でこちらを照準する凶手を捕らえた瞬間、鋼鉄の軋む音がした。馬が嘶き、身体が浮き上がるほどの振動が後部座席を襲った。
 光希は地震が起きたのだと思った。馬車が危険な角度に傾き、ぞっと背筋が冷えた時、硬くて力強い腕に抱きしめられた。
(ジュリッ!)
 ジュリアスは光希を抱きしめ、あたう限りの神力で馬車の転倒を防ぎきった。
 石畳に鋼鉄が擦れる耳障りな音が鳴り響き、荒波に弄ばれているかのような、烈しい振動が二度、三度と続いた。衝撃が完全に治まるまで、ジュリアスは光希の身体を放そうとしなかった。
「光希、怪我は?」
 耳鳴りがして、光希はすぐに返事ができなかった。衝撃は収まっても、心臓は爆音で鳴り響いていて鎮まりそうにない。
「光希?」
 ジュリアスが焦ったように名を呼んでいる。御者台から、ルスタムとローゼンアージュの案じる声も聞こえる。
「……だ、大丈夫。皆は? 平気?」
 衝撃に眩んだ頭を押さえながら、光希は声をしぼりだした。その声は、遥か遠くから聞こえてくるように感じられた。
「全員無事です。動けますか?」
「うん」
 ジュリアスの手を借りて光希が外に出ると、ルスタムとローゼンアージュは顔に安堵を浮かべた。
 光希達はジュリアスのおかげで助かったが、後衛馬車は無残に砕け散っていた。石畳に、ひしゃげた車輪、鮮やかに塗装された扉や破片が転がっている。隙間から覗く青い燐光を見て、光希は口を手で覆った。うつ伏せの兵士の下に、赤い血が拡がっている。
「酷い……」
 消え入りそうな声で呟く光希の肩を、ジュリアスはしっかりと抱き寄せた。
おおゆみで後輪を壊されています。敵はまだ近くにいます」
「敵?」
 ジュリアスは答えなかった。額の宝石が蒼い光彩を放っている。神眼で辺りを探っているのだ。
 張り詰めた空気の中、ルスタムは馬の連結器具を外して馬を落ち着かせている。ローゼンアージュは馬車に備わっている警笛を鳴らし、発煙筒に火を点けた。
 光希は質問したい気持ちを堪えて、彼等の邪魔をしないように口を噤んだ。
 辺りは昏く、不穏な気配が漂っている。人影は見当たらないが、暗殺者が近くに潜んでいる気がする。
「囲まれています。後方右の屋根、倒れている馬車の後ろ、前方の河川敷の下、左の尖塔――アージュ、左と屋根が先です」
 ジュリアスが冷静に告げると、ローゼンアージュは小さく頷き、闇に消えた。
 強張った顔で立ち尽くす光希の頬を、ジュリアスは掌で包みこんだ。
「大丈夫、すぐに味方がきます。ここに隠れていて。私がいいというまで、耳を塞いで、目を閉じていてください」
 光希は蒼白な顔で頷くと、傾いた馬車の影に隠れた。姿勢を低くして、ジュリアスの背中を見つめる。彼はルスタムと共に、馬車を背に守るようにして油断なく剣を構えている。
 静かすぎる。
 危険が迫っているはずなのに、不気味な静寂が辺りを包んでいる。
 清かなせせらぎ、葉擦れの音しか聞こえない。
 光希が息をつめて様子をうかがっていると、音もなく、黒衣に身を包んだ亡霊のような男達が現れた。手にしている武器が、不気味な鈍色の光を放っている。
 刹那、鎌鼬かまいたちがジュリアスを襲った。だが彼は一閃で円月刀を手にした二人の凶手を薙ぎ払った。血が勢いよく吹きあがり、石畳に弧を描く。
 悲鳴を飲みこむ光希の視界に、殺戮の光景が映る。
 暗殺者の一人が壁を蹴り上げ、ジュリアスの頭上から襲いかかる。
「ジュリッ!!」
 前後を挟まれたジュリアスは、奇跡のような身のこなしで背後の敵の胸に短剣を突き刺し、上から襲いかかる刃をサーベルで受け流した。
 鋼の音。鈍い悲鳴、絶叫。
 身の毛もよだつ肉や骨を断つ残酷な音。
 自分が戦っているわけではないのに、光希は全身の筋肉が緊張に強張るのを感じた。心臓は痛いほど鳴っている。頭を腕で庇い、惨劇の終わりを祈っていると、頭上で音がした。
 はっと顔をあげると、不気味な光を灯した目に捕らわれた。敵が馬車を乗り上げてきたのだ。光希が息を呑んだ瞬間、青い稲妻が空気を切り裂き、男に直撃した。
「ぎゃぁっ」
 黒づくめの男は、鈍い悲鳴をあげて遮蔽物の奥へ消えた。
 ジュリアスは全身に青い炎を纏っていた。自分に向けられた怒りではないと判っていても、慄えあがるような威力だ。
「ぐっ」
 苦しげな呻き声の聞こえた方を、光希は弾かれたように振り向いた。ルスタムが二人を相手に苦戦している。背中を狙っている敵を見た瞬間、無我夢中で近くにあった石を掴んで投げつけた。
「伏せて!」
 ジュリアスの鋭い一喝が飛来する。
 光希の上半身は遮蔽物の外に出て、雲間から漏れる星明りに照らされていた。伏せなければ――頭では判っているのに、完全にすくみあがって動けない。
 彗星のように飛んでくる鋼が、月光を弾いてきらりと光る。
「光希ッ!」
 茫然と立ち尽くす光希をジュリアスは背に庇い、剣を閃かせた。
 蒼い稲妻が咆哮をあげる。彼は、超常の力で飛来する鉄矢をことごとく叩き落としたが、全ては防ぎきれず、右肩に深く突き刺さった。
「ジュリッ」
「ッ、平気です。伏せて、早く!」
 光希は這いつくばって、身体を丸めた。慌てたせいで、掌が擦り向けて鋭い痛みが走った。ジュリアスは自ら矢羽を落とすと、負傷をものともせず、戦神のように剣を振るい始めた。
 恐怖に満ちた鋼の音。寸刻のことではあったが、光希は恐ろしくて目を閉じることもできず、永劫に続く闘いかと思われた。
 気がつけば、敵は累々と倒れ伏して、石畳みに温度すら感じさせる鮮血が流れていた。
 見える範囲に、襲ってくる敵はいない。
 いつの間にかローゼンアージュが戻ってきていて、まだ息のある敵の前に屈みこんでいた。隣にはルスタムもいる。耳を塞ぎたくなるような、苦痛の悲鳴が聞こえてきた。
(口を割らせているんだ)
 判っている。彼等は仕事をしているだけ。
 でも怖い。
 身の毛もよだつ拷問の音に震えていると、目の前にジュリアスが膝をついた。自分の身体で光希の視界を遮り、腕を伸ばして光希の両耳を手で塞いだ。
 私を見て……優しい唇の動きを読んで、光希は何度も頷いた。ジュリアスだけを見つめる。
 やがて、耳から手が離れると、半鐘が聞こえてきた。それから蹄鉄の音。断続的な軍靴を踏み鳴らす音。
 空を仰ぐと、白い烽火と蒼い竜影が見えた。
 遠くではまだ剣戟の音が聞こえているが、味方はもう目前に迫っている。
「――ご無事ですか!?」
 路地から救援部隊が現れた。先導しているのはジャファールとアルスランで、二人とも血相を変えてこちらへやってくる。
 助かった。
 光希は起き上がると、ジュリアスの右肩に負った矢傷を見て、奥歯を噛みしめた。彼は厳しい顔つきで周囲を警戒しているが、表情からは、傷を負っていることすら判らなかった。
「ジュリ……」
 冴え冴えとした青い瞳がこちらを見る。瞳孔に金色の粒子が散り、青く爛と輝いている。光希は咄嗟に彼の頬を両手で包み、光希に対する庇護本能を鎮めようとした。
「ごめんなさい! 僕のせいだ」
「謝らないでください。怪我はありませんか?」
 表情から険が取れて、青い瞳の光彩も幾分和らいだ。光希の手の上に自分の手を置いて、かすかな笑みすら浮かべた。
「皆が守ってくれたから平気。早く手当しよう」
「いえ、先ずは一刻も早く安全な場所に退避しましょう」
 光希の肩を支えようとするジュリアスを見て、光希はぎょっとしたように飛びのいた。
「動かさないで! 大怪我をしているんだよ」
 いろんな感情が綯い交ぜになって、鼻の奥がつんとした。まだ泣くわけにはいかない。全身に緊張を漲らせていると、紋章の入った馬車が近づいてきた。
「宮殿までお送りいたします」
 ジャファールは馬車に梯子をかけると、光希が乗りこむのに手を貸した。その間、胸の悪くなるような辺りの惨状は視界に入れぬように気をつけた。
 隣にジュリアスが座り、扉は閉められた。
 すぐに緩やかな振動が伝わってくる。窓を覗くと、アルスランとジャファールは、馬車を挟んで並走を始めた。
(皆がきてくれた。助かった。助かったんだ。もう大丈夫だよね……?)
 安心していいはずなのに、不安な気持ちをぬぐえない。膝上に置いた硬く握った拳の上に、包みこむように手が重ねられた。
「大丈夫ですよ」
 深い傷を負っているにも関わらず、碧眼がふっと優しく笑う。光希は泣きそうになるのをぐっと堪えた。固く握りこんでいた拳をほどいて、長い指に自分の指を搦めた。