アッサラーム夜想曲

花冠の競竜杯 - 31 -

 アム・ダムール四五六年、三月三日。
 競竜杯投票券発売日。
 昼休の鐘がアッサラームに鳴り響くと、ポルカ・ラセの中からヘイヴン・ジョーカーが姿を現した。彼は、期待に目を輝かせる聴衆を見回し、朗々と響く声でいった。
「皆様、大変長らくお待たせいたしました。ただいまより、受付にて投票券を発売いたします」
 格子門に集まっていた大勢の客達から、わぁっと拍手喝采が沸き起こる。熱狂的な歓呼に、ヘイヴンは優雅な一礼で応えた。
「ようこそ、ポルカ・ラセへ!」
 薔薇を意匠された錬鉄の扉が、守衛の手のより左右に開かれると、大勢の客達は再び歓声を上げた。楽しげに笑いあいながら、ポルカ・ラセへと足を踏み入れる。
 玄関広間には、競竜杯の賭け率が公表されていた。誰もが興奮に瞳を輝かせながら、数字の記された巨大な硝子板を凝視している。
 一番人気はアルスランで、彼の賭け率は最も低い。二番人気はアルスランの好敵手と呼び声の高い、北方出身の軍人である。
 逆に一番賭け率の高い騎手は、南西部族出身で十五歳の少年である。騎手の中では最年少である。
 投票券には、いろいろと種類がある。
 例えば、一位だけを当てる一位買、一位と二位を先着無視で当てればよい竜連、一位から三位までの先着順まで当てる三竜連などがある。もし、一位から八位までの先着順を的中させた場合、掛け金によっては大富豪になることも夢ではない。
 初日の混雑を見越して、光希とジュリアスは日が暮れてからポルカ・ラセを訪れた。
 二人が到着した時、建物の正面には、次から次へと馬車が停まり、従業員が応対に追われていた。どうやら入場制限されているらしい。
 その様子を馬車の窓から眺めて、光希は目を丸くした。
「うわ~……すごい人」
「帰りますか?」
 冗談か本気か区別のつかない、淡々とした口調でジュリアスはいった。思わず、光希は苦笑いを浮かべた。
「まだ中に入ってもいないのに。ここまできたんだから、アルスランの投票券を買おうよ」
 二人を乗せた馬車が玄関前に着くと、大勢の客が、興奮した様子で周囲に群がった。護衛兵達が油断なく警備の目を光らせる。
「わぁ、シャイターンと花嫁ロザインだ」
「本物だ」
「シャイターン!」
 賑々しい歓声が四方から聴こえてくる。ぎこちない笑みで周囲に手を振る光希の肩を、ジュリアスはぎゅっと抱き寄せた。
 そこでまた歓声があがる。頬を染めているのは女性ばかりではない、男性も多い。ジュリアスの礼装姿は、彼の美貌に見慣れている光希であってもぐっとくるので、皆が夢中になるのも頷ける。
 施設の従業員のほかに、光希とジュリアスの武装親衛隊が二人を守るように囲んだ。行列を無視して、特別に中へ入れてもらえることに、光希は優越感と罪悪感を同時に味わった。
 中に入ると、ヘイヴン・ジョーカーと従業員が恭しく膝を折って出迎えた。
「ようこそ、ポルカ・ラセへ。お待ちしておりました」
 ヘイヴン・ジョーカーは、旧友を迎え入れるように両腕を広げ、柔和な笑みを浮かべた。
「こんにちは、ヘイヴンさん。大盛況ですね!」
「おかげさまで、今朝から投票券が飛ぶように売れています」
 光希は頷きながら、玄関広間を眺めた。中央で燦然と輝く遊戯卓は、訪れる人々の目を愉しませているようだ。
(良かった、好評みたいだ)
 嬉しそうにしている光希に、ヘイヴンは暖かな眼差しを向けた。
「殿下の手掛けた遊戯卓は、あの通り、玄関広間の顔になっております。本当にありがとうございます」
「こちらこそ、貴重な機会を授けてくださって、ありがとうございました」
 笑みを交わしていると、ジュリアスに肩をぎゅっと抱き寄せられた。
「投票券を買いましょう?」
「うん!」
 光希が硝子板の投票率に目をやると、ヘイヴンは吟味する楽しみを邪魔しないよう、静かに一礼して二人の傍を離れた。
 貨幣の詰まった財布を握りしめ、光希は笑顔でジュリアスを見上げた。
「ねぇ、ジュリ」
「はい?」
「何枚買う? 僕は、もちろんアルスランは買うんだけど……一位買いだけじゃつまらないし、三着までの投票券も買ってみようかな?」
 顎に親指を添えて、うーん、と光希は唸った。はっと閃いて額を揉みこむと、ジュリアスは不思議そうに首を傾げた。
「どうかしましたか?」
「いや……こんな時こそ、シャイターンのお告げはないものかしらと思って」
 大真面目に呟く光希を見て、ジュリアスは小さく笑った。
「正解が判ってしまったら、つまらないでしょう。神は選ぶ楽しみを授けてくださっているのです」
「うーむ……よし、決めた」
 光希はアルスランの一位買いと、二番人気の騎手とあわせた、竜連、三竜連、ものは試しで一位から八位までを当てる大穴投票券を買った。
 一方ジュリアスは、アルスランの一位買いと、幾人かの騎手とあわせた竜連を買った。
 アルスランの一位買いの投票券を見て、光希は目を輝かせた。
「すごいね、この投票券! アルスランの細密肖像画が印刷されているよ」
 どうやら、それぞれの選手の一位券には、単色で似顔絵が印刷されているらしい。
「アルスランに見せてあげましょう」
 ジュリアスも面白がるようにいった。
「アルスランは知っているのかな。照れているんだろうなぁ、すっかり有名人だよね」
 ここのところ、彼の複製画や情報誌は飛ぶように売れていると耳に聴く。完売の二文字を見かけることも少なくないようだ。
 通常、軍関係者の情報は絵であっても、市場での流通をかなり規制されている。しかし、競竜杯は特例として認められている為、各紙面はこぞってアッサラームの将校を記事にしていた。
 ジュリアスの情報誌もあればいいのに……そう思って光希がじっと見つめていると、目が合った。
「? どうかしましたか?」
「いや……ジュリの投票券があれば、飛ぶように売れるんだろうなぁと思って」
「ご免蒙りたいですね」
「ジュリは騎手に選ばれることはないの?」
「私にはシャイターンとして、勝敗を見届ける役目がありますから」
「そっか~……」
 光希が残念そうにいうと、ジュリアスは面白がるような顔をした。
「もし、私の投票券があれば、光希は買ってくれますか?」
「当たりまえだよ! 買うに決まっているよ!」
 迷いのない即答を聞いて、ジュリアスは嬉しそうに笑った。
 投票券を買ったあと、光希とジュリアスは遊戯卓や玉突き遊戯部屋で遊んだ。疲れて談話室で一休みしていると、知人や友人に声をかけられ、紅茶を飲みながら彼等と会話を楽しんだ。
 辺りがすっかり夜の帳に包まれ、大遊戯場の振り子時計が夜休の時刻を告げたところで、二人はポルカ・ラセをあとにした。
 今夜は雲が多く出ていて、星の光が翳っている。
 尖塔で羽を休めていた黒い鷲が、大きな羽を広げて飛んでいき、光希の胸に不安と不吉な予感がきざした。アッサラームにきてから鋭敏になった霊感が警鐘を鳴らしている。
(なんだろう……嫌な予感がする)
 強張った表情で空を仰ぐ光希を見て、ジュリアスも訝しむように空を見上げた。
「どうかしましたか?」
「ううん……なんでもない」
 気にしすぎだろう――かぶりを振って、光希はジュリアスと共に馬車に乗りこんだ。