アッサラーム夜想曲

花冠の競竜杯 - 30 -

 瞼を開けた時、外はまだ暗かった。
 背中から伝わる温もりが心地よくて、光希はほほえんだ。大切にされている気がする……
 腰に回された手の上に、そっと自分の掌を重ねると、もう一度眠りに落ちた。
 次に目を醒ました時、陽は完全に昇っていた。
 休日とはいえ、普段ならとっくに活動を始めている時間だ。背中に温もりを感じて、肩越しに振り返ると、目と目があった。彼の方はもう起きていたらしい。ぼんやりしている光希を見て、目を細めている。
「お早う、光希」
「……お早う。寝過ごしちゃった」
「構いませんよ。今日は休みでしょう」
 光希は上半身を起こして、髪を撫でた。盛大に寝癖がついていることは、鏡を見なくても判る。
 飛び跳ねた髪を撫でつけていると、ジュリアスも起き上がってほほえんだ。
「髪が跳ねてる」
「知ってる。ジュリだって寝ぐせがついているよ」
「そうですか?」
 ジュリアスは片手を髪にさしいれ、額にかかる眩いばかりの豪奢な金髪をかきあげた。額に輝く青い石がきらりと輝く。しどけなく官能的な仕草に、思わず見惚れてしまう。
 手櫛で整えただけで、寝癖は見事に自然な巻き毛と調和した。天然の癖毛は得をするものだ。
 光希が自分の寝ぐせを撫でつけていると、ジュリアスは手を伸ばして、子供がするように、光希の髪をくしゃくしゃにした。
「やめてー」
 光希は笑いながら首を振った。ジュリアスもくっくっと笑っている。しかし、光希の方はすぐに笑みを引きつらせた。
「う~……筋肉痛……」
 ぼやきながら寝台を降りようとする光希を、ジュリアスは後ろから抱きしめた。鳥の巣のような頭に口づけを落とす。
「体調はどうですか?」
「大丈夫だよ」
「熱は?」
「ないよ」
「本当に?」
 ジュリアスは光希を後ろから抱きしめたまま、額に掌を押し当てた。大仕事を終えたあとで、例によって発熱していないか疑っているようだ。
「平気だって、案外あの滋養剤が本当に効いたのかも」
 冗談めかして答える光希を、ジュリアスは目を眇めて見つめた。
「信じられません。今後は中身の疑わしいものを口にしないように。今日はどこへもいかずに、休んでいてください」
 口調は優しいが、相変わらずの尊大な物言いに、光希は苦笑いを浮かべた。
「平気だよ……そろそろ準備しないと。昼に、アンジェリカとお茶する約束をしているんだ」
 ジュリアスは不満そうな顔をした。
「今日でなくてもいいでしょう?」
「そうはいっても、前から約束しているし」
 顔を背けると両肩を包まれた。身をよじって逃げようとするが、手首を掴まれた。
「本当に大丈夫だから。もしも具合が悪くなったら、すぐに帰ってくるって約束する」
 数秒ほど見つめ合い、ジュリアスは仕方なさそうに頷いた。
「判りました。あとで私も様子を見にいきますよ」
「え?」
「何か問題でも?」
「……ないけど、アンジェリカを責めたりしないでね」
 釘を刺すと、ジュリアスは謎めいた微笑を浮かべた。
 ゆったりした縫製の私服に着替える光希の隣で、ジュリアスは軍服に着替えている。光希は一日休みだが、ジュリアスの方は午後から軍事の仕事があるらしい。
 二人は昼まで邸でのんびり過ごし、先にジュリアスがでかけて、光希もあとから宮殿に向かった。 

 硝子の温室に入ると、アンジェリカは先にきており、光希を見てぱっと表情を明るくさせた。
「ごきげんよう、殿下」
「こんにちは、アンジェリカ」
 満面の笑みで迎えてくれるアンジェリカに、光希も笑みを返したが、卓につくなり、光希は腕を組んでアンジェリカを軽く睨みつけた。
「アンジェリカに訊きたいことがあるんだ」
「なんですの?」
「この間もらった滋養剤だけど、昨日あれを飲んで、僕は危うく死にかけたよ」
「え?」
「恥ずかしくて死ぬかと思った。あれ、絶対に滋養剤じゃないから」
「え、でも、えっ?」
 困惑するアンジェリカを睨みつけて、判った? と念を押す。不安そうな顔でアンジェリカは頷いた。
「疲労回復に効果覿面と聞いたのですけれど。効きませんでした?」
「違った意味で、覿面だったよ」
「違った……?」
 訝しげに小首を傾げるアンジェリカを見て、光希は息を吐いた。
「あのさ、疲労回復って誰から聞いたの?」
「アガサ兄様がいうには、評判の薬師が調合したもので、男性の気力、精力の低下に効果覿面と聞きましたわ!」
 不安そうなアンジェリカを見て、光希はなんだか心配になった。男性用と前置きされる効力について、彼女は判っているのだろうか?
「……アンジェリカ、気持ちはとても嬉しいよ。でも残念ながら、今の効用を聞く限り、どうも疲労に効く滋養剤ではなさそうだよ」
「では、なんでしたの?」
 深刻そうに訊ねるアンジェリカを見て、光希は説明に困った。
「うーん……公宮の褥向きの栄養剤、といえば伝わるかな……あ、判るんだね」
 朱くなったアンジェリカを見て、光希は頬を掻いた。
「私、そんなつもりは……………………殿下、なんとお詫び申し上げればいいか……」
 卓に突っ伏し、消え入りそうな声でもごもごと呟くという、淑女にあるまじき姿を見て、光希の溜飲は大分さがった。
「いいんだ、判ってくれれば。もう買ったり、もらったりしちゃだめだよ。間違っても、効力を理解していない人にあげてはいけない」
「返す言葉もありませんわ。誠に申し訳ありませんでした」
「もういいよ」
「私、殿下に健やかでいて欲しかったんですの」
「うん、気持ちはとても嬉しいよ」
 アンジェリカは悄然と俯いていたが、唐突に顔を上げた。瞳は輝きを取り戻し、明るい光が灯っている。
「今度はきっと、喜んでもらえますわ」
「え?」
 アンジェリカは自信に満ちた顔つきで、卓に小瓶を置いた。壮絶な既視感に襲われ、光希は胡乱げな目つきになった。
 警戒している光希の様子には気づかず、アンジェリカは嬉しそうに手をあわせた。
「兄様が送ってくださった、外来の品ですの! 殿下にもおすそわけいたします」
「……どっちのお兄様?」
「ルシアン兄様ですわ」
 その答えに、光希は少し緊張を緩めた。会ったことはないが、彼女の長兄であるルシアンは品行方正で、次兄のアガサは奔放な印象がある。あの小瓶をアンジェリカに贈ったことからして、アガサの性格には難がありそうだ。
「これは何?」
「とても流行している香水ですわ」
 喜々として答えるアンジェリカ。彼女の聴覚を疑うように、光希は目を瞬いた。
「アンジェリカ、僕の話を聞いていた?」
「もちろんですわ」
「たった今、忠告したばかりなんだけども」
「判っています。でも、これは滋養剤ではありませんのよ」
「何の香水だって?」
「心安らぐ香りですわ。殿下にも似合うと思いますの」
 黒い瞳に、猜疑心と好奇心の両方をにじませ、光希は瓶の蓋を開けてみた。女性らしい香りなら自分には無理だろうと思ったが、好ましい、爽やかな柑橘の香りがした。
「いかがですか?」
「……うん、意外と普通だった。いい香りだね」
「でしょう? 実は、私もつけていますのよ」
「へぇ」
「判ります?」
 顔を寄せるアンジェリカに少しどきっとしながら、光希は首を傾げた。
「そういわれると……」
 それにしても、彼女の無防備さときたら。相手が光希とはいえ、そんな風に身体を寄せるものではない。つい、なだらかに盛り上がる胸に目を落としてしまい、視線を逸らした。
 朱くなった光希を見て、アンジェリカはわざと恥じらうように頬に手を当てた。
「まぁ、殿下ったら! 私のつたない魅力にも、応じてくださるのね」
「はいはい、くらっときましたよ」
「どうですの? 普段よりも良く見えて?」
「そんなものをつけなくても、アンジェリカはかわいいよ」
 嬉しそうにはにかむ姿を見て、光希は心配になった。
「アンジェリカ、本当に気をつけなよ? 友人とはいえ、僕も男なんだから」
 つい説教じみたことを口にする光希を見て、アンジェリカは笑っている。光希は頬杖をほどくと、手を伸ばして、アンジェリカの柔らかな頬を両手で包みこんだ。蒼い瞳が極限まで見開かれた。
「世の中には悪い男がいくらでもいるんだよ……判ってる?」
 アンジェリカは目を瞬き、朱くなった顔でこくこくと頷いた。
「――光希?」
 唐突に声をかけられ、光希は弾かれたように振り向いた。ジュリアスとナディアがこちらに向かって歩いてくる。光希は慌ててアンジェリカから身体を離した。
「誤解しないでね、ふざけていただけだから」
 狼狽する光希に、判っています、と少しばかり微妙そうな表情でジュリアスはいった。ナディアの方は苦笑を浮かべている。
 しかし、アンジェリカもナディアも、顔をあわせるのは気まずいのでは?
 気を揉む光希の心情をおもんばかるように、ナディアは目を和ませた。澄んだ緑の瞳には感謝の色が浮かんでいるのを見て、光希も控えめに笑み返した。
「アンジェリカ姫、贈り物は慎重にお願いします。光希に怪しげな薬を贈られては困ります」
 ジュリアスの言葉にアンジェリカは項垂れた。
 しょんぼりした様子が哀れで、光希は自分よりも背の高いアンジェリカの頭に手を伸ばした。
「気持ちは嬉しかったよ。心配してれくて、ありがとうね」
「殿下っ」
 アンジェリカは感極まった様子で席を立ち、光希の方へ回りこんで抱きついた。役得な気分で細い腰に腕を回した光希だが、すぐに引き離れた。
「何をしているんですか」
 ジュリアスに両肩を掴まれる。アンジェリカの方は、ナディアにひっぺはがされている。
 一瞬、アンジェリカは切なげな表情を浮かべたが、すぐに朗らかな笑みに変えた。気遣う眼差しで見守っていたナディアは、 逡巡してから口を開いた。
「元気そうですね」
「ナディア様も……」
 顔をあげて笑うアンジェリカが、光希にはいじらしく感じられた。辛いだろうに……周囲に、ナディアに気まずい思いをさせないよう、懸命に傷心を押し隠している。彼女の勇気と毅然とした態度に賞賛を送りつつ、光希も表面上はいつも通りの態度を装った。くだらない冗談をいったり、とりとめのない日常の話で笑ったり、いつも通りに。
 四人は、紅茶を飲みながら、しばし穏やかな時間を共有した。
 なめらかな会話とはいかないが、ナディアとアンジェリカは互いを気遣うように笑みを交わしていた。その想い合う姿に、光希は暖かな未来を予感した。
 時が経てば、ぎこちなさは消えて、穏やかな友情に変わるだろう。進む道は違っても、お互いを大切に想っていることは確かなのだ。
 二人がどんな選択をしても、良き友人でありたい――光希は胸に思った。