アッサラーム夜想曲

花冠の競竜杯 - 26 -

(なぜこんなことに?)
 光希は口元を手で押さえ、必死にどう対処すべきかを考えた。こんなところで勃たせていると知られたら身の破滅だ。幸い、丈の長い上着のおかげで、傍目には判り辛い。腰を反らしたりしない限り、気づかれないだろう。
 ただもう、話をするどころではなくなってしまい、光希は申し訳なく思いながらヘイヴンを仰いだ。
「すみません、なんだか具合が悪くて……隅で休んでいてもいいでしょうか?」
 笑みを浮かべていたヘイヴンは、途端に気遣わしげな顔になった。
「大丈夫ですか? すぐに客室に案内いたしましょう」
「すみません、助かります」
「いいんですよ。すぐに部屋を整えて参りますので、少々お待ちください」
「はい……」
 前かがみで歩きたくなる衝動をこらえながら、光希は部屋の隅にある椅子に座った。その弱々しい動作は、図らずも周囲の目に、本当に具合が悪そうに映って見えた。
「アージュ、ジュリはもうすぐ到着するかな?」
 落ち着かない様子の光希を見て、ローゼンアージュは小首を傾げた。
「見て参りましょうか?」
「うん、お願い……判らなかったらいいから、すぐに戻ってきてくれる?」
 青年はこくりと頷くと、扉に立つ武装親衛隊の兵に無言にして雄弁な一瞥――死んでも殿下を守れ――命じて部屋を出た。
 入れ違いで戻ってきたヘイヴンは、光希を見て不思議そうな顔をした。
「護衛の青年はどうしたのですか?」
「あ、外の様子を見てきてほしいと頼んだところです」
 こうしている瞬間にも、身体の熱はどんどん高まっていく。普段とは違う自分の身体が怖くなり、光希は両腕で自分を抱きしめた。
「これはいけない、本当に具合が悪そうだ。立ち上がれますか?」
 ヘイヴンの申し出を、光希はかぶりを振って断った。今立ち上がったら、間違いなく窮状がばれてしまう。
「いえ、ちょっと」
「手を貸しましょう。触れても?」
「すみません、動くのも辛くて。もうすぐジュリがくると思いますから、ここにいます」
「個室の方が落ち着くでしょう。彼がきたら、お知らせいたしますよ」
「どうかお気遣いなく。本当に大丈夫ですから」
「ポルカ・ラセで客人に不快な思いはさせられません。さあ、遠慮せずに私に掴まって」
 ヘイヴンの意外と逞しい腕が背中に回され、光希は危うくおかしな声が漏れそうになった。歯を食いしばって堪えたものの、訝しげな視線が顔に突き刺さり、非常にいたたまれない。
 沈黙が落ちる。
 彼は黙って自分の上着を脱ぐと、光希の身体の前にかけてくれた。少しでも身体を隠したいと思っていたので、その気遣いはありがたがったが、なぜ肩ではなく前にかけられたのか、理由が気になる。恐る恐る顔をあげると、ヘイヴンは礼儀正しく視線を逸らしていた。
「……男なら、時々あることです。大丈夫、誰も気づいていません」
「……すみません」
 光希は真っ赤になり、消えいりそうな声で謝罪した。穴があったら入りたいとは、まさにこういう状態をいうのだろう。
 顔を赤らめ、恥じ入るように俯く光希の姿を見て、ヘイヴンは奇妙な親近感を覚えていた。
 超俗した蒼い星の御使いにも、全ての男にそなわっている、切羽詰まった事情があるらしい。
 彼は天上人であり、崇敬の対象であり、シャイターンの花嫁ロザインなのだが、内面を知るにつれて、血肉の通った一人の男性に見えてくる。それどころか、肩を縮める姿に、慰めてやりたいという、およそ自分らしからぬ慈悲めいた感情まで芽生えつつある。
「お気になさらず。私も演壇で講じている時に、急にもよおして、青褪めたことがありますから」
 その砕けた口調に、羞恥で縮こまっていた光希は顔をあげて、控えめな笑みを浮かべた。
「……ありがとうございます。すみません、とんだ醜態をお見せしてしまって」
「謝ることはありません。私が過去に冒した悪事に比べたら、こんなことは天使がくしゃみをしたくらいの出来事ですよ」
 きょとんとした顔の光希を見て、ヘイヴンは顔に苦笑を浮かべた。
「すみません。喩えが良くありませんでした。私の悪歴と比べては、不敬にあたりますね」
「そんなことありません! どんな武勇伝か、お聞きしても?」
 好奇心に輝く顔を見て、ヘイヴンは微笑した。思わず冗談交じりに披瀝ひれきしたくなるが、口にするのもはばかられる悪事ばかりだ。
「私は孤児です。小さい頃は何でもやりました。煙突掃除、はしけの荷卸、家畜の糞の世話までしていましたよ」
 無難な事柄を選んで話したつもりだが、光希には衝撃だったようだ。黒い瞳を大きく見開いて、ぽかんと口を開けている。
「……貴方が?」
 素直な驚きの表情を見て、ヘイヴンは不思議と優しい気持ちになった。
「はい。糞の片づけは特に酷かった。信じられないほど蠅がたかるんです。うっかり口に入った蠅を飲んでしまって、吐き出そうとしても吐き出せないことが何度も――おっと失礼」
 蒼白な顔をしている光希を見て、ヘイヴンは自分の口を手で覆った。この程度のことは、財団に売り飛ばされてからの日々と比べたら屁でもないのだが、彼は最悪な出来事を耳にしたかのように表情を曇らせた。
「それほどの苦難があったとは……大変な思いをなさってきたのですね」
「おかげで今があると思えば、往時おうじの苦労にも釣りがきます」
「すごいなぁ。それほどの逆境から、こんなに立派なポルカ・ラセの支配人になられるとは」
 興奮した様子で讃える光希を見て、ヘイヴンは自嘲めいた笑みを顔に浮かべた。
「……そんなたいそうなものではありません。虚栄心と復讐心の上に築きあげた富ですから」
「ポルカ・ラセは素晴らしい遊戯場です。もし、僕が同じ境遇にあったとしても、ヘイヴンさんのように不羈ふきを示せたとはとても思えません」
「おかしなことをおっしゃる。私と貴方が同じ立場なわけがないでしょう」
 ヘイヴンは笑っていったが、光希は焦りを覚えた。うまい返事を探すが、何も思い浮かばない。
 その戸惑った顔を見て、ヘイヴンは光希が自分を恥じていることを悟った。彼は、何不自由のない暮らしを保証されていることを、後ろめたく感じているのだ。もちろん、そんなつもりでいったわけではなかった。自分のような者と、彼が同じであるはずがない――自嘲から出た言葉だった。
「……僕は、本当に世間知らずで」
「誤解です、そういう意味ではありません。ただ、私の瞳に、殿下はとても眩しく映るのです」
 ヘイヴンは割と信心深い方で、初めて会った時から、光希のまれな外見に神秘性を感じていた。吸いこまれそうな黒水晶の瞳に見つめられると、厳かな気持ちにさせられるくらいだ。
「……ありがとうございます。こんなに間抜けな姿をお見せしてしまったのに、そんな風に慰めてくださって」
 控えめにはにかむ姿を見て、ヘイヴンはまたしても暖かな気持ちになった。
 東西大戦の凱旋で遠くから見た時は、威信に満ちたシャイターンと並んで、それは神々しく見えたが、今はとても身近に感じる。
 手を伸ばせば触れられる距離にいるのだと意識した途端に、何かが空気が裂いた。
「あ、アージュ!?」
 人形めいた青年は、音もたてず、いつの間にかヘイヴンの後ろにいた。首に刃の冷たさを感じる。顔を引きつらせながら、ヘイブンは慎重に口を開いた。
「……申し訳ありません、ご不快な思いをさせて。普段はもっと気の利いた会話を提供できるのですけれど。今後は誓って慎みます」
 降伏するように両手をあげたが、短剣は喉にあてられたままだ。
「アージュ! ヘイヴンさんを離して。早く!」
 主の叱責を受けて、青年は渋々短剣をどかしたが、警戒を緩めようとはしなかった。ヘイヴンを見据える眼光は刃のように鋭い。いつでも殺せるんだぞ――凄まじい無言の圧だ。
「大丈夫ですか? アージュがすみません、いきなり脅かしたりして」
「いえいえ、無礼な振る舞いをした私が悪いのです」
「いいえ! 僕の心が軽くなるように、心配りをしてくれたのだと判っています。ヘイブンさんは、少しも無礼ではありませんでしたよ」
「ありがとうございます。とても光栄ですよ」
「いえ、僕こそ……」
 そこでまた静寂が落ちる。ヘイヴンは光希をじっと見つめて、普段なら先ずいわないようなねがいを口にした。
「……もしよければ、殿下のお言葉で祝福をいただけたら、とても嬉しいのですけれど」
 光希はほほえんだ。
「お安い御用ですよ。ヘイヴンさん、いつもとても良くしていただいて、本当にありがとうございます。貴方に幸あらんことを」
「ありがとうございます」
 ヘイヴンはその場に膝をつくと、光希の上着の裾を摘まんで、軽く唇を落とした。手に触れるのは、流石に不敬だと思ったのだ。ところが彼の方から、手を伸ばしてきた。手が触れる瞬間を信じられない気持ちで見つめていると、違った意味で信じられないことが起きた。
「え、アージュ? 何しているの?」
 なぜか、ヘイヴンの手の上に、光希よりも先にローゼンアージュが手を置いたのだ。人形めいた美貌は無表情だが、光希はぽかんと口を開けている。ヘイヴンも虚を突かれて、咄嗟に言葉が出てこなかった。
「……よいしょ」
 光希はローゼンアージュの手をどかして、改めてヘイヴンの手を両手で包みこんだ。手をどかされた青年は不服そうに、己の手と主の顔を交互に見比べている。
「この手が触れると、カードはまるで水のようになめらかに動いていました。どんな分野にも、熟練の技があるのだと知りました。この手で、多くの幸運を掴めますように」
 光希は、何事もなかったかのように祝福をやりきった。威厳をこめてほほえんでいるが、耳が真っ赤で、照れていることは明らかだ。
 思わず、ヘイヴンは噴き出しそうになった。
 想像していた以上に興味深い。面白い。愉快だ。シャイターンが寵愛するのも頷ける。
「ありがとうございます、殿下。これほどの幸運はありますまい」
 光希は嬉しそうに笑った。
 なんの打算もない、純粋な笑みを見た瞬間に、ヘイヴンは彼のことが好きになった。