アッサラーム夜想曲

第4部:天球儀の指輪 - 9 -

 合同模擬演習、当日。開幕前。
 緑と白の生花に飾られた円形闘技場には、大勢の観客がつめかけていた。早くも祝杯を上げ、酔歌すいかを叫ぶ者もいる。
 軍服姿の光希は、護衛にルスタムとアージュを連れて、円形闘技場にやってきた。
 二階中央の貴妃席に足を運ぶと、華やかな女達は光希を見るなり膝を折った。
 如才ない宮女の礼装姿に身を包む西妃レイラン――リビライラと、東妃ユスラン――サンベリア。
 リビライラは、間もなく七歳になる一人息子、次期皇太子のアメクファンタムを連れている。美男美女の血を見事に引き継いだ、利発そうな愛らしい少年だ。
 では、最奥にいる見慣れない可憐な少女は、ナディアの婚約者――アンジェリカだろう。

「ごきげんよう、殿下。心配いたしましたわ」

 リビライラは親しげに光希の手をとると、心を込めて告げた。
 日頃忘れがちだが、アルサーガ宮殿の女達の中で、光希は誰よりも威を放つ。
 この場にいるみやびな女達の中でも、頭一つ抜きんでて高貴な身分なのである。
 アンジェリカは顔を伏せるのを忘れたように、喜びに瞳を輝かせて光希を見つめている。口を利きたくて堪らない、そんな顔だ。あからさまな視線も、そこまでいくと微笑ましく感じて、光希は控えめにほほえんだ。

「アンジェリカ・ラスフィンカと申します。我らがムーン・シャイターンの花嫁ロザインにお会いできて、大変光栄に存じます」

 少女は、印象通りの弾んだ声で応えた。

「初めまして、アンジェリカ姫。こちらこそ、お会いできて光栄です」

 好意的に思いながら応えると、アンジェリカは感激しきった様子で、満面の笑みを閃かせた。
 席について歓談に興じていると、間もなく錫杖しゃくじょうを持った礼装軍服姿の皇帝――アデイルバッハ・ダガー・イスハークが現れた。
 皇帝は光希達に笑みかけると、闘技場を見渡して一つ頷いた。玉座の前に立ち、右手を天に伸ばして開幕の合図を告げる。
 開幕を告げる祝砲が上がり、色のついた発煙筒はつえんとうを持つ飛竜隊が、闘技場の上空を五列編隊で翔けてゆく。
 見事な曲芸飛行に、観客席から割れんばかりの歓声が沸き起こった。光希も感激しながら、夢中で手を鳴らした。
 高らかに響き渡る金管の音色に迎えられ、陸路の要、装甲竜騎隊、騎馬隊、歩兵隊が入場を開始する。
 各隊の代表で編成された、総勢五千名を越える大行進である。
 行軍の末尾には、豪華な二輪装甲車に乗って各隊の幹部が登場した。
 ジャファール、アルスラン、ナディア、アーヒム、ヤシュム、アースレイヤ、そしてジュリアス――軍を代表する英雄達の登場に、闘技場は割れんばかりの喝采に包まれた。

「きゃあぁ――ッ! ナディア様ぁ――ッ!!」

 大歓声にも負けない甲高い声に、光希はぎょっとして横を向いた。隣に座るリビライラもアンジェリカを見ている。
 少女は感極まった様子ではらはらと涙を流していた。全員の注目を浴びていると知るや、ナディア様が素敵すぎて……と恥ずかしそうにはにかむ。そうだね、と光希は苦笑いを浮かべた。
 しかし、気持ちは判らないでもない。
 先頭をゆく将達は惚れ惚れするような凛々しさだ。
 青い双龍と剣の軍旗を閃かせた二輪装甲車の上で、礼装軍服姿のジュリアスは手を上げて歓声に応えている。勇ましいアッサラームの獅子の中でも、一際輝いて見える。
 視線を奪われていると、今度はアンジェリカが光希を見てほほえんだ。

「素敵ですわね!」

「うん。本当にね」

 少し照れながら光希が相槌を打つと、アンジェリカだけでなく、リビライラも眼を細めた。
 和やかに笑っていると、闘技場に黄色い悲鳴が反響した。若い隊員による、一糸乱れぬ合同剣舞が始まったのだ。

「アージュも出れば良かったのに」

 後ろに控える少年に声をかけると、暑いだけです、とどうでも良さそうに返された。
 確かに、見ている分には美しいが、当の本人達は重労働だろう。片手で剣を支え、複雑な型や跳躍を何度も繰り返すのだ。かなりの体力を要するに違いない。
 剣舞に眼が慣れてきた頃、さり気なく横に並ぶ女達を観察した。
 左端で感極まって涙していたアンジェリカは、今は大人しく着席している。ナディア以外に興味はないらしい。
 左隣のリビライラは優雅に紅茶を飲んでいて、息子のアメクファンタムは、光希と目が合う度に、可愛らしくにっこりしてくれる。
 右隣に座る、東妃――サンベリアは少々、顔色が優れない気がする……人前に姿を見せることが苦手な人なので、憂鬱なのかもしれない。
 美女の多い公宮の中で、サンベリアは比較的大人しめの容貌をしている。目立った美人ではないが、雰囲気の綺麗なひとだ。

「アンジェリカ姫から見て、ナディア将軍はどんな人ですか?」

 端に座るアンジェリカに話を振ってみると、よくぞ聞いてくれましたといわんばかりに、眼を輝かせて光希を振り向いた。

「あの方こそ、アッサラームの英雄ですわ! 五歳の頃、銀木犀ぎんもくせいの香る湖水でお会いした時から、少しも変わりませんの。気高くて凛々しくて……ラムーダ演奏も、それはお見事ですのよ」

「好きなんですね……」

「それは、もう……っ」

「アンジェリカ姫にそこまで想われて、ナディア将軍は幸せですね」

 褒めたつもりだが、なぜか少女は切なそうに表情を曇らせた。

「でしたら、私も嬉しいのですが……残念ながら、この溢れる気持ちは一方通行なのですわ」

 しょげたかと思えば、でもめげませんわ、とアンジェリカは瞳に闘志を燃やして両の拳を握りしめた。

「そんな風に想ってもらえて、やっぱりナディア将軍は幸せですよ」

 光希が笑いかけると、アンジェリカは恥ずかしそうに視線を伏せた。その様子を見ていたリビライラは、初々しいですわ、と愉しげに茶々を入れるのだった。