アッサラーム夜想曲

第4部:天球儀の指輪 - 10 -

 雲一つない蒼空に、昼休の鐘が鳴り響いた。
 一刻ほど昼休憩を挟んだ後、午後からは勝ち残り式の模擬戦が始まる予定だ。

(ジュリはどうするのかな?)

 休憩をとるなら一緒に過ごしたい。姿を探しにいこうと、光希が席を立ったところで、貴妃席にアースレイヤが姿を見せた。

「殿下! ごきげんいかがですか? 心配いたしましたよ」

「ご心配を……あ」

 いい終えぬうちに、腕を広げて迫るアースレイヤに抱きしめられた。お愛想とばかりに背中を叩いていると、

「……ほら、あそこにシャイターンが」

 そっと耳打ちされて、光希は慌てて身体を離した。
 やましい気持ちは欠片もないが、つい慌ててしまう。闘技場を見下ろすと、不機嫌そうなジュリアスと瞳が合った。
 手を振ると、向こうも軽く手を上げて応えてくれたが、すぐに忙しそうに将達といってしまった。

「……ふふ、怒ってる怒ってる」

「もう、わざとですか?」

 思わず呆れた視線を送ると、アースレイヤの愉しそうな視線に跳ね返された。

「元気な殿下のお姿を拝見して、つい嬉しくて。お許しください」

 綺麗な笑みを、光希は白々しい気持ちで眺めた。人をダシにするのは勘弁してもらいたい。

「――父上!」

 突然の子供の声に、光希もアースレイヤも視線を向けた。
 頬を蒸気させたアメクファンタムは、アースレイヤの足元に駆け寄ると、長身を仰いでにっこりとほほえんだ。
 幼い息子を見下ろす空色の瞳には、紛れもない愛情が浮かんでいる。
 父親らしい一面もあるのだと感心していると、アースレイヤの後ろに、佐官の軍服を着た青年が立っていることに気がついた。
 硬質な灰銀の短髪の下には、涼しげな目元が覗く。端正な顔立ちの、凛然とした青年だ。光希と目が合うと、優雅に一礼してみせる。

「お会いできて光栄に存じます。私はルーンナイト・ダガー・イスハーク、アッサラーム軍の大佐を務めております」

 名前を聞いて、光希は眼を瞠った。

「アースレイヤ皇太子の弟君ですよね?」

「はい」

 こうして正面から見比べてみても、あまり似ている印象はない。よく見れば眼元は似ているが……どちらかといえば皇帝に似ている。

「殿下は、本当に瞳の色も黒いのですね……」

 彼もまた、光希を観察していたらしい。光希が眼をしばたくと、ルーンナイトは不躾な視線を詫びるように距離を取った。

「あまり私とは似ていないでしょう?」

 アースレイヤはルーンナイトの肩に腕を回すと、楽しそうにいった。どうやら兄弟仲は良いらしい。
 ふと、胸に五つ年上の兄の顔がよぎり、光希は返答に詰まりかけた。

「……眼は少し似ていますよ」

 アースレイヤは口元を優しげに綻ばせると、腕を解いて、今度は東妃ユスランの傍へ寄った。親しげに肩に垂らした髪を手に取るや口づけを落とす。

「東妃、昼食はもう済ませましたか?」

 親密なやりとりをどきどきしながら見ていると、サンベリアの顔色が真っ青なことに気がついた。

「いけませんよ、大事な身体なんですから……きちんと食べないと」

 含みをもたせた発言に、光希は眼を見張った。

(え、子供が……?)

 サンベリアは小刻みに肩を震わせ、消え入りそうな声で頷いた。リビライラは女神の如し笑みを浮かべると、消化にいいものを運ばせましょう、と慈母のようにほほえんだ。
 ルーンナイトは、微妙な空気を読んでいるのか、いないのか……無邪気に笑うアメクファンタムの相手をしている。
 かける言葉を測りかねているのは、光希とアンジェリカの二人だけだ。
 リビライラが手を鳴らすと、さっと召使が現れて、瞬く間に絨緞の上に、色とりどりの果物や野菜、銀器を並べ始めた。

「さぁ、召し上がれ」

 リビライラは優しく笑んでいるが、サンベリアは震えそうな手をどうにか動かしている有様だ。

「……僕も、いただいていいですか?」

 サンベリアを残してこの場を去るわけにもいかず、光希は諦めて輪に加わった。アンジェリカも空気を読んだように、私も、と調子を合わせる。
 怯えるサンベリアに、アースレイヤとリビライラは左右からあれこれ声をかけている。なんともいびつな光景に、光希は胃が重くなるのを感じた。

「美味しいですよ」

 微妙な空気を少しでも和まそうと、もぐもぐと咀嚼そしゃくして笑顔を振りまく。
 そんな気苦労を無視して、アースレイヤは光希の口元に指を伸ばし、ついていますよ、と余計なお世話でパン屑を払ったりした。
 背後に控える少年から冷気が漂うが、当の本人は背後の冷気もどこ吹く風で、泰然自若たいぜんじじゃくとした態度を崩さない。
 光希は、彼が何を考えているのかまるで判らなかった。