アッサラーム夜想曲

第4部:天球儀の指輪 - 31 -

 シャイターンの意志と称して、東妃を神官宿舎に入れた翌日。
 光希はジュリと共に典礼儀式に参列した。
 対面に座るアースレイヤの隣には、今朝はリビライラしかいない。美しい二人は、昨日と全く変わらない穏やかな笑みを口元に浮かべている。
 周囲の光希を見る眼差しは昨日までと少し違う。シャイターンのお告げはあるのかと、こちらを気にしているようだ。
 お告げはあった。
 サンベリアへの懸念が晴れた今、最大の懸念はこれから起こる大戦の行方だ。シャイターンは断片的な幻でサルビアの動向を教えてくれた。

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「私は直ぐ軍議に入りますが、光希は一度お屋敷に戻りますか?」

「ううん、クロガネ隊の工房に行くよ」

 典礼儀式を終えた後、そのまま二人で馬車に乗った。昼を過ぎたら、光希も軍議に出席する予定である。

「疲れていませんか?」

「ううん。ジュリこそ……」

「私は平気です。軍議に呼ぶ際は、工房に人を遣りますから、待っていてください」

「判った」

 軍部へ到着すると、ジュリは後ろ髪を引かれつつ軍議へ向かい、光希はクロガネ隊の工房へ直行した。
 クロガネ隊の皆も、昨日の顛末を聞いているらしく、光希を見るなり心配そうに声をかけてきた。

「お休みされても良かったのですよ」

 気遣わしげなアルシャッドに首を振って応える。今日は昼までしかいられないので、なるべく仕事を片付けておきたかった。

「そういえばラムーダの依頼、仕上がりましたよ」

 ナディアから預かっている弦楽器を作品棚から取り出すと、くるんである織布しょくふを外した。木に浮かぶ意匠を見るや、アルシャッドは眼を輝かせた。

「綺麗に睡蓮が咲きましたね」

 楽器にはくろがねによる睡蓮の花の意匠が施されている。伸ばして曲げる作業は製鉄班に手伝ってもらったが、そこから形を整えて細工を入れる作業は、光希一人でやった。
 シャイターンに祝福されし神聖な楽器である。美しい音色を聴かせてくれるに違いない。
 昼休みに中庭へ出ると、ふと肩を落として歩くアンジェリカの後ろ姿を見かけて、思わず声をかけた。

「こんにちは、アンジェリカ姫」

「まぁ殿下! ごきげんよう!」

 顔を上げたアンジェリカは、沈んだ表情を一瞬で吹き飛ばし、花が綻ぶように笑みを閃かせた。

「沈んだ顔をしていましたよ。何かあったんですか?」

 少女の表情は、再び哀しげなものになる。誰かに聞いて欲しかったのか、弱々しげに口を開いた。

「……実は、ナディア様が遠征に発たれる日にお見送りしたいと申し上げたら、人伝に断られてしまって。直接お伺いしようと足を運んだのですが、取り次いでいただけませんでしたの」

 声に覇気はなく、震えている。光希は気遣わしげに眉根を寄せた。

「殿下」

 噂をすれば影だ。振り向いた先にナディアがいた。背中に流した銀髪を風に揺らめかせ、相変わらずの美男ぶりである。
 光希はアンジェリカに場所を譲ろうと身体をずらしたが、ナディアはそちらをちらりとも見ずに、

「ムーン・シャイターンがお呼びです。軍議へお越しください」

 恭しく一礼するや、簡潔に要件を伝えた。

「はい、今行きます。その前にナディア、アンジェリカと少し話した方が……」

 そこでようやくナディアはアンジェリカに視線を向ける。

「姫、これから軍議がありますから。要件は従卒に伝えてください」

 にべもない。沈んでいた少女は増々意気消沈して、小さく「はい」と応えた。たったそれだけのやり取りで、ナディアは灰緑色の瞳を光希に向ける。

「ナディア、僕はアージュと戻るから。良かったら、もう少し……」

「殿下、私のことはお構いなく。参りましょう」

 佇むアンジェリカを気にかける光希を見かねたように、ナディアはやや強引に光希の肩を抱いて歩き出した。

「あ……待ってよ、ナディア」

 訴えたが、ナディアは歩調を緩めない。振り向くと、彼は戻らないと知っているのか、アンジェリカはその場で優雅な一礼をした。

「恋人じゃないの?」

 つい非難がましい声が出た。ナディアは「婚約者です」と訂正すると、ようやく肩から手を離した。気付けばナイフを持ったアージュがすぐ傍にいる。

「アージュッ!?」

「殿下に触ったら……」

「それまだ有効なのっ!?」

 とにかく武器をしまわせようと慌てふためいていると、傍でくすりと微笑する。見上げると、思いのほか優しい眼差しと眼が合った。

「あ、そうだ……頼まれていたラムーダの依頼、完成しましたよ。いつでも工房にきてください」

 閃きを口にすると、ナディアは嬉しそうに破顔した。

「ありがとうございます。必ず伺います」

「アンジェリカ姫にも、そうやって笑いかけてあげればいいのに……」

 光希が残念そうに言うと、ナディアは微苦笑で応えた。

「すごく可愛いと思うけど……好きじゃないの?」

「彼女は少々煩くて、苦手なのです」

 ナディアは穏やかに、しかし躊躇なく応えた。アンジェリカの溢れんばかりの想いは、残念ながら裏目に出てしまっているのかもしれない……。