アッサラーム夜想曲
第4部:天球儀の指輪 - 29 -
大神殿の内陣に光希はジュリと並んで座っている。
主身廊には、典礼儀式の始まりを待つアッサラームの敬虔な信徒たちが今朝も大勢集まっていた。
天窓から外光の射す堂内はいつもと同じに清らかであり、いつもとは違う密かな緊張館が漂っていた。
石柱の影には、神官に扮したアッサラーム兵が潜む。リビライラによるサンベリア暗殺に備えて、ジュリの配置した兵士達だ。
今日は、予知夢に見た内通者――神官が、祭壇に立つ日なのである。
暗殺を巡ってジュリとは意見が対立していたが、口論の末に光希が折れた。決定的な瞬間を捕える方向で、ジュリは準備を進めていた。
大神殿には、アッサラームの獅子で十指に入るような将も配置されている。
例えば祭壇の影にジャファール、内陣と交差廊の境目には、堂々とナディアが配置されていた。
ふれ見れば、ナディアは婚約者――アンジェリカといた。
仕事中だから仕方ないのかもしれないが、ナディアの態度はそっけない。声は聞こえないが、アンジェリカは哀しげに肩を落として、主身廊へ引き下がってゆく。
「どうかした?」
「いや……あそこにナディアとアンジェリカが」
ジュリはさして興味なさそうに「あぁ」と呟いた。
「ナディア恰好いいから、あそこにいると目立つね」
ちょうど視界の開けた所に立つナディアに、アンジェリカでなくとも色めいた視線を投げる者は多い。何でわざわざあの場所に配置したのだろう。
「ナディアは昔、聖歌隊に所属していたんですよ。大神殿の構造に詳しいので、機動性の高い場所に配置しました」
「へぇ、聖歌隊出身なの。なるほど……」
典礼儀式の開始を告げる鍵盤の演奏が始まり、少年聖歌隊による天上の歌声が大神殿に響き渡る。
緊張に身が引き締まる。いつも通りにしないと……そうは思っても、対面のリビライラとサンベリアの様子をつい盗み見てしまう。まさか、こんな人目のあるところで行動は起こさないとは思うが……。
星詠神官 が祭壇に上がり、シャイターンへの祝詞を詠み始めると、心の中でシャイターンに必死に呼びかけた。
何事もなく、無事に終わりますように……!
神は敬虔な者を嘉 したもう。
祈りは聴き容 れられたのか、幻の如し白昼夢が眼前に揺れる。
しかし前に見た幻と違う……リビライラも神官も出てこない。ゴブレットに注がれた聖水を、サンベリアが飲み干し……そこでふつりと幻は消えた――
まさか、毒……?
この間は、サンベリアが裏の回廊から帰る道すがら、神官に扮した暗殺者に襲われる幻を見た。
どちらが本当なのだろう。なぜこの間と違うのか。隣に座るジュリに伝えようとした時、聖水が運ばれてきた。内陣の皇族には真っ先に渡される――
気付けば席を立ち、サンベリアの前に走っていた。
今にも口をつけようとしているサンベリアの腕を掴んだ。聖水は零れて、灰青色の双眸は驚きに見開かれる。
「サンベリア様、僕と一緒にきてください」
驚きに目を瞠る周囲を無視して、その場からサンベリアを連れ出した。もう後戻りはできない。内陣を出るや彼女を振り返り、早口で捲し立てた。
「貴方は、このままだと殺されます。さっきは、毒殺の可能性があった。権力を一切捨てる覚悟はありますか?」
サンベリアは思慮深い眼差しで光希を見つめて、しっかりと頷いた。
「――光希!」
後ろから、ジュリが追い駆けてきた。アースレイヤやリビライラもいる。震えそうになる足を叱咤して、精一杯、視線に威厳を込めて叫んだ。
「僕はさっき、偉大なるシャイターンの声を聞きました。サンベリア様を、神官宿舎に入れるようにと、お告げがありました」
「光希!?」
ざわめく周囲を一喝するように、光希は凛然と言い放つ。
「彼女は私有財産を捨て、婚姻を破棄し、シャイターンに誓願を立てる必要があります。御子と共に神官宿舎に迎え入れてください」
「随分とまた、突然のご神託ですね。ですが、シャイターンの意志とあれば、従うほかありません」
アースレイヤは乗り気だ。如才ない笑みを湛えながら、瞳はどこか悪戯っぽく笑っている。
周囲の貴人達からは「男児であればどうするのだ」「東妃を宿舎に入れるなど」と当然の疑問が相次いだ。
「それだけではありません。サルビアの動向も予見しました。百万を超える軍勢が攻めてくる未来を見ました。中央の本隊は囮で、広い空域に大軍を編隊しています。ルビアから大量の武器を仕入れて――」
「光希!!」
尚も叫ぼうとしたら、ジュリに抱きすくめられた。予見したことをジュリ以外に伝えたのは、今この場が初めてだ。周囲の空気が変わったと判る。
「ルビアに動きがあるのは本当だ」
「戦略を知ることができれば、勝ったも同然ではないか」
「ベルシアの和平など流れても……」
告げた内容が正しいと判断できる者がこの場にいたらしく、興奮気味に光希の言を後押しした。
「――ここは神殿です。軍事の話は控えてください。花嫁 の言う通りに……東妃を宿舎へお連れしろ」
ジュリの指示でナディアとジャファールは的確に動いた。集まっていた貴人達も顔を見合わせて「失礼しました」と引き下がる。
サンベリアを見やり、リビライラは儚げに笑みかけた。
「サンベリア様。公宮を出て行かれるのですね。寂しくなりますわ……」
心から別離を惜しむような口調だ。彼女を見ていると混乱する……全て光希の勘違いで、暗殺など起こらなかったのではないか。
「殿下の御言葉通りにいたします。生涯、シャイターンにお仕えいたします」
儚げな彼女にしては珍しく、凛と毅然に告げるや、典雅な一礼をしてみせる。彼女自身の決意表明で幕引きとなり、人々は堂内へ消えてゆく。
光希もジュリと並んで戻ろうとしたら「お見事でした」と囁きを聞いた。思わず振り向いて、アースレイヤを睨 め付けた。
「どうして、守ってあげないの?」
最初から、彼が矢面に立てば良かったのではないか? 皇太子は、美しくも冷たい微笑を浮かべた。
「たかが公宮で生き残れないようでは、手を差し伸べるだけ無駄でしょう」
「光希。行きましょう」
見下した台詞に、反論しようと口を開きかけたが、ジュリに肩を抱かれて通り過ぎる。そのまま内陣へ戻った。
主身廊には、典礼儀式の始まりを待つアッサラームの敬虔な信徒たちが今朝も大勢集まっていた。
天窓から外光の射す堂内はいつもと同じに清らかであり、いつもとは違う密かな緊張館が漂っていた。
石柱の影には、神官に扮したアッサラーム兵が潜む。リビライラによるサンベリア暗殺に備えて、ジュリの配置した兵士達だ。
今日は、予知夢に見た内通者――神官が、祭壇に立つ日なのである。
暗殺を巡ってジュリとは意見が対立していたが、口論の末に光希が折れた。決定的な瞬間を捕える方向で、ジュリは準備を進めていた。
大神殿には、アッサラームの獅子で十指に入るような将も配置されている。
例えば祭壇の影にジャファール、内陣と交差廊の境目には、堂々とナディアが配置されていた。
ふれ見れば、ナディアは婚約者――アンジェリカといた。
仕事中だから仕方ないのかもしれないが、ナディアの態度はそっけない。声は聞こえないが、アンジェリカは哀しげに肩を落として、主身廊へ引き下がってゆく。
「どうかした?」
「いや……あそこにナディアとアンジェリカが」
ジュリはさして興味なさそうに「あぁ」と呟いた。
「ナディア恰好いいから、あそこにいると目立つね」
ちょうど視界の開けた所に立つナディアに、アンジェリカでなくとも色めいた視線を投げる者は多い。何でわざわざあの場所に配置したのだろう。
「ナディアは昔、聖歌隊に所属していたんですよ。大神殿の構造に詳しいので、機動性の高い場所に配置しました」
「へぇ、聖歌隊出身なの。なるほど……」
典礼儀式の開始を告げる鍵盤の演奏が始まり、少年聖歌隊による天上の歌声が大神殿に響き渡る。
緊張に身が引き締まる。いつも通りにしないと……そうは思っても、対面のリビライラとサンベリアの様子をつい盗み見てしまう。まさか、こんな人目のあるところで行動は起こさないとは思うが……。
何事もなく、無事に終わりますように……!
神は敬虔な者を
祈りは聴き
しかし前に見た幻と違う……リビライラも神官も出てこない。ゴブレットに注がれた聖水を、サンベリアが飲み干し……そこでふつりと幻は消えた――
まさか、毒……?
この間は、サンベリアが裏の回廊から帰る道すがら、神官に扮した暗殺者に襲われる幻を見た。
どちらが本当なのだろう。なぜこの間と違うのか。隣に座るジュリに伝えようとした時、聖水が運ばれてきた。内陣の皇族には真っ先に渡される――
気付けば席を立ち、サンベリアの前に走っていた。
今にも口をつけようとしているサンベリアの腕を掴んだ。聖水は零れて、灰青色の双眸は驚きに見開かれる。
「サンベリア様、僕と一緒にきてください」
驚きに目を瞠る周囲を無視して、その場からサンベリアを連れ出した。もう後戻りはできない。内陣を出るや彼女を振り返り、早口で捲し立てた。
「貴方は、このままだと殺されます。さっきは、毒殺の可能性があった。権力を一切捨てる覚悟はありますか?」
サンベリアは思慮深い眼差しで光希を見つめて、しっかりと頷いた。
「――光希!」
後ろから、ジュリが追い駆けてきた。アースレイヤやリビライラもいる。震えそうになる足を叱咤して、精一杯、視線に威厳を込めて叫んだ。
「僕はさっき、偉大なるシャイターンの声を聞きました。サンベリア様を、神官宿舎に入れるようにと、お告げがありました」
「光希!?」
ざわめく周囲を一喝するように、光希は凛然と言い放つ。
「彼女は私有財産を捨て、婚姻を破棄し、シャイターンに誓願を立てる必要があります。御子と共に神官宿舎に迎え入れてください」
「随分とまた、突然のご神託ですね。ですが、シャイターンの意志とあれば、従うほかありません」
アースレイヤは乗り気だ。如才ない笑みを湛えながら、瞳はどこか悪戯っぽく笑っている。
周囲の貴人達からは「男児であればどうするのだ」「東妃を宿舎に入れるなど」と当然の疑問が相次いだ。
「それだけではありません。サルビアの動向も予見しました。百万を超える軍勢が攻めてくる未来を見ました。中央の本隊は囮で、広い空域に大軍を編隊しています。ルビアから大量の武器を仕入れて――」
「光希!!」
尚も叫ぼうとしたら、ジュリに抱きすくめられた。予見したことをジュリ以外に伝えたのは、今この場が初めてだ。周囲の空気が変わったと判る。
「ルビアに動きがあるのは本当だ」
「戦略を知ることができれば、勝ったも同然ではないか」
「ベルシアの和平など流れても……」
告げた内容が正しいと判断できる者がこの場にいたらしく、興奮気味に光希の言を後押しした。
「――ここは神殿です。軍事の話は控えてください。
ジュリの指示でナディアとジャファールは的確に動いた。集まっていた貴人達も顔を見合わせて「失礼しました」と引き下がる。
サンベリアを見やり、リビライラは儚げに笑みかけた。
「サンベリア様。公宮を出て行かれるのですね。寂しくなりますわ……」
心から別離を惜しむような口調だ。彼女を見ていると混乱する……全て光希の勘違いで、暗殺など起こらなかったのではないか。
「殿下の御言葉通りにいたします。生涯、シャイターンにお仕えいたします」
儚げな彼女にしては珍しく、凛と毅然に告げるや、典雅な一礼をしてみせる。彼女自身の決意表明で幕引きとなり、人々は堂内へ消えてゆく。
光希もジュリと並んで戻ろうとしたら「お見事でした」と囁きを聞いた。思わず振り向いて、アースレイヤを
「どうして、守ってあげないの?」
最初から、彼が矢面に立てば良かったのではないか? 皇太子は、美しくも冷たい微笑を浮かべた。
「たかが公宮で生き残れないようでは、手を差し伸べるだけ無駄でしょう」
「光希。行きましょう」
見下した台詞に、反論しようと口を開きかけたが、ジュリに肩を抱かれて通り過ぎる。そのまま内陣へ戻った。