アッサラーム夜想曲

第4部:天球儀の指輪 - 28 -

 くろがねは打てるようになったものの、今度は別の問題に心を囚われるようになった。
 典礼儀式に参列すると、ほぼ毎回のように何らかの白昼夢を見るようになったのだ。内容は様々で、サンベリアを脅かすものであったり、サルビアの動向であったり……。
 いずれも危険を知らせる内容ばかりで、見ると不安にさせられる。
 白昼夢を見るようになって、しばらく経った頃。
 膠着状態に痺れを切らした光希は、屋敷にジュリが帰るなり切り出した。

「もう、サンベリア様に全部話そう」

「いいえ。接触は避けて、このまま泳がせた方がいいでしょう」

 真っ向から意見が割れて、睨み合いのような沈黙が流れる。
 白昼夢を頼りに、リビライラが通じている大神殿の神官の存在を、ジュリは既に割り出している。ならば未然に防ぎたいというのが光希の主張で、このまま放置して決定的な現場を押さえたいというのがジュリの主張だ。

「ジュリだって、いつも大神殿に駆けつけられるわけじゃないでしょ。今のうちじゃないの?」

「未然に防いだところで、次の機会に狙われるだけです。東妃ユスランを助けたいのなら、西妃レイランの罪を明らかにして、バカルディーノ家の影響力を弱めるべきです」

「リビライラ様を、追い詰めたいわけじゃないんだよ……」

 光希は哀しげにため息をつく。

「露見したところで、西妃は失脚しませんよ。それでも、しばらくは大人しくなるでしょう」

「そうかもしれないけど、皆の見ている前で罪を暴くのは……反対だよ。裏でこっそり、処理できないの……?」

「光希は、誰を助けたいのですか?」

 ぐっと返答に詰まった。「どっちも」という答えは許されないのだろうか……。

「いっそ、ジュリの公宮に入れることはできない?」

 言った瞬間、しまったと思った。慌てて口を押さえても遅い。

「――本気で言っているの?」

 ジュリの声が怖いくらい低くなる。何も言えずにいると、畳みかけるように冷たく言われた。

「光希は、私が東妃と夜を共にしても、平気だというのですか?」

「そうは言っていないよ。名目上ジュリの公宮に入れられないかなって……」

「公宮の在り方で、私を責めた人の台詞とは思えませんね」

 その通り、光希が悪い。判っているのに、ふてくされたような口調になる。

「あの時と今回じゃ、状況が違うでしょ……」

「そうですか? 本当に?」

「うん……」

 引くに引けず、意地になって返事をすると、ジュリは寝椅子の背もたれに手をついて、光希を苛立たしげに見下ろした。

「いいですよ。光希が望むのなら、私の公宮に東妃を迎えましょう。その方が、彼女も心安らかでいられるでしょうから」

 光希は上目遣いに押し黙る。試されていると思った。ここで否定しなければ、ジュリはこの部屋を出て行ってしまうかもしれない……。

「ごめんなさい。公宮に入れたりしないで」

 一応の謝罪は、不満そうな響きがたっぷり乗っていた。
 結局、ジュリの思う通りにしか事態を運べないと思うと、苛立ちが募る。納得なんてしていないから、綺麗な顔を寄せられても顔を背けてキスを拒んだ。

「光希」

 頬を包まれて、親指で唇をなぞられる。こういう時の、ジュリの感情はよく判らない。

「僕に腹を立ててるんでしょ? 何でキスなんか……」

「貴方に軽んじられたことに……落胆しただけです。怒っているのは、光希の方でしょう?」

 ジュリを落胆させたのかと思うと、胸が痛む。光希の悪い癖だ。都合が悪くなると、ジュリの前から逃げ出したくなる……。
 無意識のうちに部屋の扉を見つめていると、頬を挟まれて視線を戻された。
 ジュリはその場にひざまずいて、光希を仰ぎ見る。
 光希の手をとり、恭しく甲に口づけた。ゆっくり背を伸ばし……唇を塞ぐ。

「ん……」

 キスが深くなる前に顔を逸らすと「逃げないで」と請うように囁かれ、頬は強張った。今のはどちらの意味だろう……。
 優しく抱きしめられて、額や頬に触れるだけのキスが繰り返される。顔を背けても、優しい唇はどこまでも追いかけてきた。
 とうとう唇を塞がれると、光希も観念して身体から力を抜く。やんわり唇を食まれて、薄く開いた合間に舌先が入り込む。

「ん……、ぅ……」

 貪るというよりは宥めるような、優しく口腔こうこうを愛撫するような触れ合い。絡めた舌を甘く吸われ、頬を撫でる指先は首筋に降りてゆく……。
 その先に進むのは嫌だった。
 肩を軽く押すと、ジュリは静かに身を引いた。いや、引いてくれた。

「……もう心を煩わせたりしないで。東妃の件は、こちらで処理します」

 抑制の利いた微笑を浮かべて、光希の頬を撫でる。視線を逸らしたのは、光希の方。
 ジュリはすごく大人だ。それに比べて……自分の気持ちなのに、どうしてこうも制御できないのか。