アッサラーム夜想曲
第4部:天球儀の指輪 - 24 -
夜の帳 が下りた公宮。屋敷の工房。
光希はリハビリを兼ねて刀身彫刻に熱中している。槌 と釘を手に、下描きを入れたシャイターンの竜を彫る。
鉄を打つたびに、キィンと綺麗な音色が響いた。いい音だ。大分調子を取り戻せている。
にやにや笑っていると、手を滑らせた拍子にガッといらぬ傷をつけてしまった。無心の境地は、まだまだ遥かに遠い……。
「――光希」
不意に背中に声をかけられた。
「あ、お帰り」
「もう朝課の鐘が鳴りましたよ」
傍へやってきたジュリに、背中から抱きしめられた。ちゅっと頭のてっぺんにキスされる。
「二日後の朝なら時間を作れそうです。神官宿舎へ行きます?」
光希は眼を輝かせた。
「行こう。僕もクロガネ隊に話しておく」
「今日はどうでした?」
「少し疲れたけど、平気だよ。夜休の鐘が鳴ったら工房から追い出された。残業させてくれないんだ」
「させるなと言ってありますしね」
「えぇ? 少しくらいなら平気だよ。皆忙しそうだし……」
道理で皆して過保護だったわけだ。
「病み上がりなんですから……」
日中の様子を思い出していると、頬を掌の甲に撫でられた。見上げると、探るような眼差しと目が合う。
「ユニヴァースに会いに行ったの?」
疾しいことは何もないのに、つい背筋が伸びた。
合同模擬演習を終えて、ジュリによるユニヴァース面会禁止令は一応、解除されている。
「……アージュもいたよ?」
「当たり前です」
ジュリの返事はそっけない。
「お見舞いだよ」
「そう……」
「怒らないでよ。アージュが十分暴れたから、ちょっかい出される暇もなかったよ」
ジュリはどこか不服そうに沈黙した。
「落ち着いたらさ、宮殿の外へ遊びに行こうよ。ジュリと一緒に行きたいな」
明るい口調で誘うと、ようやく笑みかけてくれる。
「しばらく、歩兵隊訓練は休もうと思う」
「その方がいいでしょう」
「代わりに、典礼儀式になるべく参加したい」
「判りました。私も行ける日は一緒に行きましょう」
ジュリは今日も一日軍議漬けだったらしく、少々疲れた顔をしていた。朝は早くて、夜は遅い。彼の方こそ、過労で倒れないか心配だ。
寝台に入り、光希に寄り添うように横になると、すぐに深い眠りへと落ちてゆく。
せめて、眠っている間は安らぎが訪れますように……。
+
二日後。アルサーガ大神殿。
朝休の鐘が鳴り止むと、典礼儀式の開始を告げる鍵盤の演奏が始まった。
聖歌を奏でる歌声は、先日と変わらぬ少年だ。この素晴らしい歌声を、間もなく聞けなくなるとは惜しい。
星詠神官 が祝詞を詠み始めると、眠気との戦いが始まった。隣でくすりと笑う気配がする。
「眠い?」
「平気……」
姿勢を正すと、目を瞑って黙祷 に集中する。
一心に祈りを捧げていると、ふいに瞼の奥が明るくなった。
姿は見えないが、シャイターンに見つめられている気がする。ジュリのように、深い情愛を向けられて……。
ぞくりと肌が粟立ち、焦って目を見開いた。
「光希……?」
ジュリの呼びかけに応える余裕はない。心臓は早鐘を打っている。今のは何だったのだろう……。
思い耽 っていると、更なる不思議が起きた。
堂内に、幻の如し蜃気楼が生じたのだ。
唖然茫然……異様な光景なのに、眼を瞠る者は光希だけ。隣に座るジュリにも気付いた様子はない。
これは一体、どうしたことか――
幻は、大神殿の石柱の影に潜む男女を映す。
女は、人目を避けるように、目深にフードを被ったリビライラだ。
男は、見たことのない神官で、リビライラの言葉に頷く素振りを見せている。
声は果てしなく小声で聞きとれないが、とても嫌な予感がする……。
耳をそばだてていると「サンベリア」という呟きが聞こえた。
そこで蜃気楼は消えた。
爪先から頭の天辺まで、ぞぞ……っと怖気 が走る。
思わず自分の身体を抱きしめると、ジュリに肩を抱き寄せられた。胸にしがみつくと、心配そうに名を呼ばれる。
心を落ち着けて正面を向くと、今さっきの影はどこにもなく、リビライラもサンベリアも、瞳を閉じて静かに黙祷を捧げていた。
あの光景は一体……。
勘違いであって欲しい。けれど今、確信にも近い思いで胸を占めるのは……
リビライラによるサンベリア暗殺だった。
光希はリハビリを兼ねて刀身彫刻に熱中している。
鉄を打つたびに、キィンと綺麗な音色が響いた。いい音だ。大分調子を取り戻せている。
にやにや笑っていると、手を滑らせた拍子にガッといらぬ傷をつけてしまった。無心の境地は、まだまだ遥かに遠い……。
「――光希」
不意に背中に声をかけられた。
「あ、お帰り」
「もう朝課の鐘が鳴りましたよ」
傍へやってきたジュリに、背中から抱きしめられた。ちゅっと頭のてっぺんにキスされる。
「二日後の朝なら時間を作れそうです。神官宿舎へ行きます?」
光希は眼を輝かせた。
「行こう。僕もクロガネ隊に話しておく」
「今日はどうでした?」
「少し疲れたけど、平気だよ。夜休の鐘が鳴ったら工房から追い出された。残業させてくれないんだ」
「させるなと言ってありますしね」
「えぇ? 少しくらいなら平気だよ。皆忙しそうだし……」
道理で皆して過保護だったわけだ。
「病み上がりなんですから……」
日中の様子を思い出していると、頬を掌の甲に撫でられた。見上げると、探るような眼差しと目が合う。
「ユニヴァースに会いに行ったの?」
疾しいことは何もないのに、つい背筋が伸びた。
合同模擬演習を終えて、ジュリによるユニヴァース面会禁止令は一応、解除されている。
「……アージュもいたよ?」
「当たり前です」
ジュリの返事はそっけない。
「お見舞いだよ」
「そう……」
「怒らないでよ。アージュが十分暴れたから、ちょっかい出される暇もなかったよ」
ジュリはどこか不服そうに沈黙した。
「落ち着いたらさ、宮殿の外へ遊びに行こうよ。ジュリと一緒に行きたいな」
明るい口調で誘うと、ようやく笑みかけてくれる。
「しばらく、歩兵隊訓練は休もうと思う」
「その方がいいでしょう」
「代わりに、典礼儀式になるべく参加したい」
「判りました。私も行ける日は一緒に行きましょう」
ジュリは今日も一日軍議漬けだったらしく、少々疲れた顔をしていた。朝は早くて、夜は遅い。彼の方こそ、過労で倒れないか心配だ。
寝台に入り、光希に寄り添うように横になると、すぐに深い眠りへと落ちてゆく。
せめて、眠っている間は安らぎが訪れますように……。
+
二日後。アルサーガ大神殿。
朝休の鐘が鳴り止むと、典礼儀式の開始を告げる鍵盤の演奏が始まった。
聖歌を奏でる歌声は、先日と変わらぬ少年だ。この素晴らしい歌声を、間もなく聞けなくなるとは惜しい。
「眠い?」
「平気……」
姿勢を正すと、目を瞑って
一心に祈りを捧げていると、ふいに瞼の奥が明るくなった。
姿は見えないが、シャイターンに見つめられている気がする。ジュリのように、深い情愛を向けられて……。
ぞくりと肌が粟立ち、焦って目を見開いた。
「光希……?」
ジュリの呼びかけに応える余裕はない。心臓は早鐘を打っている。今のは何だったのだろう……。
思い
堂内に、幻の如し蜃気楼が生じたのだ。
唖然茫然……異様な光景なのに、眼を瞠る者は光希だけ。隣に座るジュリにも気付いた様子はない。
これは一体、どうしたことか――
幻は、大神殿の石柱の影に潜む男女を映す。
女は、人目を避けるように、目深にフードを被ったリビライラだ。
男は、見たことのない神官で、リビライラの言葉に頷く素振りを見せている。
声は果てしなく小声で聞きとれないが、とても嫌な予感がする……。
耳をそばだてていると「サンベリア」という呟きが聞こえた。
そこで蜃気楼は消えた。
爪先から頭の天辺まで、ぞぞ……っと
思わず自分の身体を抱きしめると、ジュリに肩を抱き寄せられた。胸にしがみつくと、心配そうに名を呼ばれる。
心を落ち着けて正面を向くと、今さっきの影はどこにもなく、リビライラもサンベリアも、瞳を閉じて静かに黙祷を捧げていた。
あの光景は一体……。
勘違いであって欲しい。けれど今、確信にも近い思いで胸を占めるのは……
リビライラによるサンベリア暗殺だった。