アッサラーム夜想曲
第4部:天球儀の指輪 - 25 -
何か良くないことが起きるのでは……と恐れていたが、何事もなく典礼儀式は終了した。
「光希、何があったの?」
「うん……後で話す」
アースレイヤ達から目を離さずに返事をすると、ジュリにぐいっと肩を抱き寄せられた。問いかけるような双眸を見上げて「ここでは言えない」とだけ応える。
「お早うございます。ムーン・シャイターン、殿下」
ジュリは光希を背に庇うようにして、アースレイヤに対峙した。
皇太子の後ろには、美しく佇むリビライラと、憂いを秘めたサンベリアの姿が見える。
「お早うございます、アースレイヤ皇太子」
ジュリの背から出ると、変わらぬ穏やかな眼差しを向けられる。
「朝からお会いできて、嬉しいですよ」
「毎日きているのですか?」
「ええ、来れる日は。お二人は心境の変化ですか?」
からかうように問われて、光希は照れくさげに微笑んだ。
「すみません、なかなかこられず……」
「もし良ければ、この後ご一緒にお茶でもいかがですか?」
「すみませんが、用事がありますから」
光希が口を開くよりも早く、ジュリは一瞬の躊躇もなく断った。アースレイヤは「残念ですよ」と如才ない笑みを閃かせる。
しかし、用事があるのは本当だ。この後は二人で神官宿舎へ行く約束をしている。
彼等の様子を観察しているうちに、ジュリに肩を抱かれたまま外へ連れ出された。もう少し彼等の様子を見ていたかったのだが……。
二人きりになると、さっきの不思議な体験をジュリに話して聞かせた。
「……それは、祈りに触れる未来の断片ではないでしょうか」
「だとしたら、近いうちにサンベリア様の身に、よくないことが起こるかもしれない」
光希が縋るような眼差しを向けると、ジュリは眼を瞬 いた。
「それだけの情報では、動きようがありませんよ」
「高位の神官が関係していると思うんだ。顔を見れば分かるかも……」
「念の為、大神殿の警備を厚くしておきます」
「この情報を、サンベリア様にだけ、こっそり教えてあげられないかな?」
「不用意に脅かすだけですよ。典礼儀式は私も注意しておきます。中にも兵を配置させましょう」
「うん……」
光希は不安な気持ちに一先ず蓋をして、大人しく頷き返した。
+
緑の木立に建つ神官宿舎。
淡い赤茶色の美しい建物に踏み入ると、まるで時を止めたような静寂に包まれた。
窓から差し込む光に照らされて、たゆたう塵 はきらきらと輝いている。微かな空気の流れが運ぶ不思議な匂い。柱の手触り。石壁の冷たさ……。
音がない。
人影はあっても、声を発している人はいない。これか……! と流星のごとく閃いた。
これが噂の、ナフィーサやサリヴァンの話していた「沈黙」の戒律。
活動している時間帯ですら守らなければいけないという。発言を許される場所以外では、基本的に口を開くことを許されない……。これは辛い。光希ならとても耐えられない。一日で音を上げそうだ。
幼少時をここで過ごしたというだけあり、ジュリの足取りは淀みない。入り組んだ迷路のような石廊を、すらすら歩いてゆく。
やがて、幾何学な青いタイルで埋め尽くされた礼拝堂についた。
イブリフ老師は静かに黙想していた。高齢と聞いているが、その後ろ姿に弱さは欠片もなく、大樹のように泰然 としている。
ジュリは老師の前に跪 くと、額 づきそうなほど深く頭を下げた。
老師はジュリの肩に触れると、今度は盲 いた双眸で光希を見やる。
深い皺の刻まれた瞳の色は殆ど白に近い。光を映さぬと聞いているが、対峙するとつぶさに観察されているような心地を味わう。
ジュリに倣 って額づくと、節くれだった大きな手が光希の肩に触れた。
声に出して挨拶をしていいものか迷っていると、老師は静かに立ち上がり、礼拝堂を出て行った。その後をジュリと二人でついてゆく。
「お傍で学んでいた時は、いつもこうして師の後ろを歩いていました」
「喋ってもいいの……?」
ひそひそと囁くと、ジュリはふっと微笑を零した。
「平気ですよ。神官誓願を立てているわけではありませんから。でも、小声で静かに」
老師は中庭の池の縁に腰かけると、指先を水に浸してまた黙想を始めた。ジュリも池の縁に腰かけ指先を水に浸したので、光希も真似をする。
育ての人、イブリフ老師に思い馳せるうちに、水に触れる指先に自然と意識は集まった。
アール川から水路を引いている池の水は、冷たくて心地いい。
眼を閉じても、水が流れゆく光景が瞼の奥に浮かぶ。
陽の光を瞼の奥に感じながら、梢の音や鳥の囀 りに耳を傾ける。
人の声は聞こえなくとも、決して静寂ではない。むしろ自然界の音に、五感が目覚めていくようだ……。
ふと、想像してみた。
幼いジュリが小さな足で、師の後をついて歩く姿を――。
小さな手で水を掻いて、こんな風に五感で自然を感じ取ったのだろうか。静寂の中で、どんな黙想をしたのだろう。
そのあとも自然に寄り添う、素朴で静かな時間を三人で共有した。
陽を浴びながら黙々と田畑を耕し、昼は中庭に面した廊下で、質素だが美味しい食事を共にした。
昼食後は、再び礼拝堂で黙想に耽る。
老師は、最後に中庭でラムーダ演奏を聴かせてくれた。沈黙する宿舎の中で、柔らかな音色がこの上なく鮮やかに聞こえた。
「老師は神殿楽師 なんです。昼と夜は演奏による祈りを捧げています。幼い頃、私やナディアは彼から演奏を習いました」
「へぇ、そうなの……」
流石ジュリのお師匠様。見事な演奏だ。思わず、目を閉じて聞き惚れてしまう……。
老師とは、最後まで一言も言葉を交わさなかったけれど、共有できたものは多かった。
宿舎を出た後、光希は声量を戻して笑みかけた。
「ジュリ、今日はありがとう」
「いいえ、こちらこそ。老師に光希を紹介できて良かった。おめでとうと祝福してくれましたよ」
「そうなの!? いつ?」
ジュリはくすりと微笑した。
「寡黙な方ですから」
「寡黙っていうか……」
いつ、喋ったんだろう……。
老師とジュリの間で交わす、声なき会話なのだろうか。ジュリは人差し指を唇にあてて微笑んだ。
気になる。でもジュリが幸せそうにしているので、その秘密を暴く気にはなれなかった。
「光希、何があったの?」
「うん……後で話す」
アースレイヤ達から目を離さずに返事をすると、ジュリにぐいっと肩を抱き寄せられた。問いかけるような双眸を見上げて「ここでは言えない」とだけ応える。
「お早うございます。ムーン・シャイターン、殿下」
ジュリは光希を背に庇うようにして、アースレイヤに対峙した。
皇太子の後ろには、美しく佇むリビライラと、憂いを秘めたサンベリアの姿が見える。
「お早うございます、アースレイヤ皇太子」
ジュリの背から出ると、変わらぬ穏やかな眼差しを向けられる。
「朝からお会いできて、嬉しいですよ」
「毎日きているのですか?」
「ええ、来れる日は。お二人は心境の変化ですか?」
からかうように問われて、光希は照れくさげに微笑んだ。
「すみません、なかなかこられず……」
「もし良ければ、この後ご一緒にお茶でもいかがですか?」
「すみませんが、用事がありますから」
光希が口を開くよりも早く、ジュリは一瞬の躊躇もなく断った。アースレイヤは「残念ですよ」と如才ない笑みを閃かせる。
しかし、用事があるのは本当だ。この後は二人で神官宿舎へ行く約束をしている。
彼等の様子を観察しているうちに、ジュリに肩を抱かれたまま外へ連れ出された。もう少し彼等の様子を見ていたかったのだが……。
二人きりになると、さっきの不思議な体験をジュリに話して聞かせた。
「……それは、祈りに触れる未来の断片ではないでしょうか」
「だとしたら、近いうちにサンベリア様の身に、よくないことが起こるかもしれない」
光希が縋るような眼差しを向けると、ジュリは眼を
「それだけの情報では、動きようがありませんよ」
「高位の神官が関係していると思うんだ。顔を見れば分かるかも……」
「念の為、大神殿の警備を厚くしておきます」
「この情報を、サンベリア様にだけ、こっそり教えてあげられないかな?」
「不用意に脅かすだけですよ。典礼儀式は私も注意しておきます。中にも兵を配置させましょう」
「うん……」
光希は不安な気持ちに一先ず蓋をして、大人しく頷き返した。
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緑の木立に建つ神官宿舎。
淡い赤茶色の美しい建物に踏み入ると、まるで時を止めたような静寂に包まれた。
窓から差し込む光に照らされて、たゆたう
音がない。
人影はあっても、声を発している人はいない。これか……! と流星のごとく閃いた。
これが噂の、ナフィーサやサリヴァンの話していた「沈黙」の戒律。
活動している時間帯ですら守らなければいけないという。発言を許される場所以外では、基本的に口を開くことを許されない……。これは辛い。光希ならとても耐えられない。一日で音を上げそうだ。
幼少時をここで過ごしたというだけあり、ジュリの足取りは淀みない。入り組んだ迷路のような石廊を、すらすら歩いてゆく。
やがて、幾何学な青いタイルで埋め尽くされた礼拝堂についた。
イブリフ老師は静かに黙想していた。高齢と聞いているが、その後ろ姿に弱さは欠片もなく、大樹のように
ジュリは老師の前に
老師はジュリの肩に触れると、今度は
深い皺の刻まれた瞳の色は殆ど白に近い。光を映さぬと聞いているが、対峙するとつぶさに観察されているような心地を味わう。
ジュリに
声に出して挨拶をしていいものか迷っていると、老師は静かに立ち上がり、礼拝堂を出て行った。その後をジュリと二人でついてゆく。
「お傍で学んでいた時は、いつもこうして師の後ろを歩いていました」
「喋ってもいいの……?」
ひそひそと囁くと、ジュリはふっと微笑を零した。
「平気ですよ。神官誓願を立てているわけではありませんから。でも、小声で静かに」
老師は中庭の池の縁に腰かけると、指先を水に浸してまた黙想を始めた。ジュリも池の縁に腰かけ指先を水に浸したので、光希も真似をする。
育ての人、イブリフ老師に思い馳せるうちに、水に触れる指先に自然と意識は集まった。
アール川から水路を引いている池の水は、冷たくて心地いい。
眼を閉じても、水が流れゆく光景が瞼の奥に浮かぶ。
陽の光を瞼の奥に感じながら、梢の音や鳥の
人の声は聞こえなくとも、決して静寂ではない。むしろ自然界の音に、五感が目覚めていくようだ……。
ふと、想像してみた。
幼いジュリが小さな足で、師の後をついて歩く姿を――。
小さな手で水を掻いて、こんな風に五感で自然を感じ取ったのだろうか。静寂の中で、どんな黙想をしたのだろう。
そのあとも自然に寄り添う、素朴で静かな時間を三人で共有した。
陽を浴びながら黙々と田畑を耕し、昼は中庭に面した廊下で、質素だが美味しい食事を共にした。
昼食後は、再び礼拝堂で黙想に耽る。
老師は、最後に中庭でラムーダ演奏を聴かせてくれた。沈黙する宿舎の中で、柔らかな音色がこの上なく鮮やかに聞こえた。
「老師は
「へぇ、そうなの……」
流石ジュリのお師匠様。見事な演奏だ。思わず、目を閉じて聞き惚れてしまう……。
老師とは、最後まで一言も言葉を交わさなかったけれど、共有できたものは多かった。
宿舎を出た後、光希は声量を戻して笑みかけた。
「ジュリ、今日はありがとう」
「いいえ、こちらこそ。老師に光希を紹介できて良かった。おめでとうと祝福してくれましたよ」
「そうなの!? いつ?」
ジュリはくすりと微笑した。
「寡黙な方ですから」
「寡黙っていうか……」
いつ、喋ったんだろう……。
老師とジュリの間で交わす、声なき会話なのだろうか。ジュリは人差し指を唇にあてて微笑んだ。
気になる。でもジュリが幸せそうにしているので、その秘密を暴く気にはなれなかった。