アッサラーム夜想曲
第3部:アッサラームの獅子 - 9 -
光希がクロガネ隊加工班専任、非戦闘隊員、伍長勤務上等兵に就任してから早七日。
午前七時。晴天。
アッサラーム・ヘキサ・シャイターン軍本部基地。
「それじゃ……」
馬車の中。緊張気味に光希は呟くと、ジュリアスの襟を掴んで引き寄せた。陶器のような滑らかな頬に、そっと触れるだけのキスをする。
「じゃっ! 行ってらっしゃい、行ってきます」
身体を離すと、慌ただしく挨拶を告げて扉を開いた。早くしないと、捕まってしまう……そう思って飛び出そうとしたのに、腹に腕を回され、中へ引きずり戻された。
「ジュリ」
首を捻って睨むと、ジュリアスは飛びきり甘い顔で微笑んだ。
「はい、行ってきます。光希も気をつけて」
やり直し、と言うように額、両頬、唇の順番で優しいキスを落とされる。
ジュリアスと一緒に出勤するようになってから、いつもこうだ。出掛ける時は、相手の無事を祈って四点を結ぶ聖なる口づけを……と言う彼の信奉を否定はしないが、人前や外では勘弁して欲しい。
ならば馬車内で光希から口づけて欲しい……そう乞われて渋々受け入れている。
しかし、光希の慌ただしいキスが物足りないジュリアスは、結局自分でやり直しをしている。
なら、毎回ジュリアスからすれば良いじゃないか……と光希が言えば、私の無事は祈って下さらないの? とジュリアスが拗ねる。
そんなわけで、馬車の中で光希からのキスは習慣化した。今更だが、新婚らしいことをしていると思う。
「それじゃ、本当に行ってきます」
今度はジュリアスも止めなかった。
タラップを降りて軍部へ向かう光希とジュリアスを、ルスタムはにこやかに見送ってくれる。彼はいつも車庫入れをしてから、光希の後を追ってクロガネ隊の工房を訪れる。
一方、ローゼンアージュは無言で二人の後ろをついてくる。
ジュリアスとは階段下で別れた。彼は五階の大会議室で朝一の軍議に列席、光希はいつも通り一階の工房に引きこもる予定だ。
「アージュ、お昼どうする?」
「殿下とご一緒しても?」
「もちろん。ユニヴァースはどうするかな?」
「さぁ……」
人形めいた少年はどうでも良さそうに応えた。かれこれ二月余り傍にいるが、武装親衛隊の二人は仲が良いのか悪いのか、いまいちよく判らない。
工房に入ると、先日、光希の専属指導隊員に任命された、アルシャッド・ムーランがいた。
「あれ、お早うございます。アルシャッド先輩」
「お早うございます。殿下、アージュ」
アルシャッドは丸眼鏡の底から、穏やかな笑みで応えた。猫っ毛の灰銀髪で、前髪は長い。ぼんやりとした印象を受けるが、よく見れば端正な顔立ちをしている。
背丈も体躯も申し分ないし、髪型を整えて眼鏡を外せば、ずっと華やいだ印象になるだろう。
それにしても……いつも以上に、髪も服もくたびれて見える。
「アルシャッド先輩、疲れていませんか? ちゃんと休みました?」
「いやぁ……」
温厚な青年は、誤魔化すように頭を掻いた。
先日、飛竜隊から大量受注が入ったので、寝る暇もないのだろう。光希も手伝えればいいのだが、まだ実戦に関わる仕事は任せてもらえない。
アルシャッドは何でもこなす天才肌で、特に装剣金工、刀身彫刻においては達人の域だ。精緻な柄 を下描きもせずに鏨 を打つ。
以前、目の前で実演してもらったのだが、神業すぎて少しも参考にならなかった。見た瞬間に、彼の域に達するのは不可能だと絶望したくらいだ。
言動はのんびりしているが、仕事は恐ろしく早い。納期を絶対に落とさない。仕事がどんなに立て込んでも、何だかんだで終わらせてしまう性質 だ。
こんなに仕事のできる人に、自分の専属指導隊員を務めてもらい、嬉しい反面、罪悪感もある。
ちなみにユニヴァースも鋼 や鉄 細工は彼から教わったらしい。
師事するコツを尋ねると、遠慮せず逐一聞くべし、と意外とまともな助言をくれた。
「アルシャッド先輩、掃除なら、僕が代わります。今のうちに仮眠を取ってください」
掃除は全隊員による公平な当番制で、今週の当番はアルシャッドだ。
「んー……では、少しだけ横にならせてもらいますね。人がきたら適当に起きますから」
アルシャッドはそう言うと、ふらつきながら内部屋の仮眠室へ消えた。
彼もまた、光希をあまり殿下扱いしない奇特な人柄で、知り合って七日も経てば、光希へのかしこまった遠慮は消えた。嬉しい限りである。
ローゼンアージュと二人、作業台の上に椅子を乗せて床を履き、水拭きしていると、光希の次に出勤の早い少年兵が入ってきた。
「お早うございます、殿下」
「お早うございます、ケイト」
女の子みたいな名前だが、男である。そもそも工房には男しかいない。
外見は天使のような容貌を持つ、ローゼンアージュに少し似ている。少し癖のある灰銀髪で、襟足を短めに整えている。
年はローゼンアージュと同じ十五歳で、背丈も大体同じ。光希が少し見上げるくらいの位置に頭がある。
瞳はかなり珍しい色合いで、外側は茶色の縁なのに、中はオーロラのように、青や紫、銀色の光彩がきらきらと絶えず変わる。
大人しい性格で、およそ戦闘には不向きに見える。最初は光希を前にすると、直立不動の姿勢でしゃちほこばっていたが、最近ようやく慣れてくれたらしい。
「あの、アルシャッド先輩は?」
「徹夜明けみたいで、今仮眠室」
「あ……そうですか。あの、俺も掃除手伝います」
控え目に申し出る少年を見て、光希は破顔した。
+
午前九時。朝時課の鐘が鳴る。
この時間になると、朝の哨戒 任務等を終えたクロガネ隊員は続々と工房に戻ってくる。
全員集合して点呼を取り、朝礼を始める。全員で仕事の進捗と、今日一日の作業を確認するのだ。
光希はまだ朝礼で発言することはできない。進捗管理はアルシャッドが行い、彼が光希の分もまとめて報告していた。
「先ず殿下の進捗は、名札につける金古美、銀古美の装飾制作五件ずつ、四日見込み。他、練習を兼ねて、鉄の刀身彫刻を武装親衛隊のユニヴァース・サリヴァン・エルムから受注しました。こちらはじっくり、柄 から考えてもらおうと思います。
私の方は、昨日から飛竜隊第一の受注に着工しています。急ぎ且つ量があるので、他の受注を人に振っているところで……」
アルシャッドの報告を聞いていると、いつも申し訳ない気持ちになる。
彼の仕事は明らかに溢れているのに、実作業を手伝えないことが歯痒い。しかも光希に教える為に、彼の貴重な時間を奪っている。
心の内では、光希を邪魔に感じているのではないか……そう考えて、勝手に落ち込んでしまう。
実際、邪魔ばかりしている。苛立ちを顔に出さない人だから、余計にあれこれ想像して不安になる……
いや、考えても仕方あるまい。
光希が今すべきは、卑屈にならず、素直に真面目に、できることを精一杯やることだ。
午前七時。晴天。
アッサラーム・ヘキサ・シャイターン軍本部基地。
「それじゃ……」
馬車の中。緊張気味に光希は呟くと、ジュリアスの襟を掴んで引き寄せた。陶器のような滑らかな頬に、そっと触れるだけのキスをする。
「じゃっ! 行ってらっしゃい、行ってきます」
身体を離すと、慌ただしく挨拶を告げて扉を開いた。早くしないと、捕まってしまう……そう思って飛び出そうとしたのに、腹に腕を回され、中へ引きずり戻された。
「ジュリ」
首を捻って睨むと、ジュリアスは飛びきり甘い顔で微笑んだ。
「はい、行ってきます。光希も気をつけて」
やり直し、と言うように額、両頬、唇の順番で優しいキスを落とされる。
ジュリアスと一緒に出勤するようになってから、いつもこうだ。出掛ける時は、相手の無事を祈って四点を結ぶ聖なる口づけを……と言う彼の信奉を否定はしないが、人前や外では勘弁して欲しい。
ならば馬車内で光希から口づけて欲しい……そう乞われて渋々受け入れている。
しかし、光希の慌ただしいキスが物足りないジュリアスは、結局自分でやり直しをしている。
なら、毎回ジュリアスからすれば良いじゃないか……と光希が言えば、私の無事は祈って下さらないの? とジュリアスが拗ねる。
そんなわけで、馬車の中で光希からのキスは習慣化した。今更だが、新婚らしいことをしていると思う。
「それじゃ、本当に行ってきます」
今度はジュリアスも止めなかった。
タラップを降りて軍部へ向かう光希とジュリアスを、ルスタムはにこやかに見送ってくれる。彼はいつも車庫入れをしてから、光希の後を追ってクロガネ隊の工房を訪れる。
一方、ローゼンアージュは無言で二人の後ろをついてくる。
ジュリアスとは階段下で別れた。彼は五階の大会議室で朝一の軍議に列席、光希はいつも通り一階の工房に引きこもる予定だ。
「アージュ、お昼どうする?」
「殿下とご一緒しても?」
「もちろん。ユニヴァースはどうするかな?」
「さぁ……」
人形めいた少年はどうでも良さそうに応えた。かれこれ二月余り傍にいるが、武装親衛隊の二人は仲が良いのか悪いのか、いまいちよく判らない。
工房に入ると、先日、光希の専属指導隊員に任命された、アルシャッド・ムーランがいた。
「あれ、お早うございます。アルシャッド先輩」
「お早うございます。殿下、アージュ」
アルシャッドは丸眼鏡の底から、穏やかな笑みで応えた。猫っ毛の灰銀髪で、前髪は長い。ぼんやりとした印象を受けるが、よく見れば端正な顔立ちをしている。
背丈も体躯も申し分ないし、髪型を整えて眼鏡を外せば、ずっと華やいだ印象になるだろう。
それにしても……いつも以上に、髪も服もくたびれて見える。
「アルシャッド先輩、疲れていませんか? ちゃんと休みました?」
「いやぁ……」
温厚な青年は、誤魔化すように頭を掻いた。
先日、飛竜隊から大量受注が入ったので、寝る暇もないのだろう。光希も手伝えればいいのだが、まだ実戦に関わる仕事は任せてもらえない。
アルシャッドは何でもこなす天才肌で、特に装剣金工、刀身彫刻においては達人の域だ。精緻な
以前、目の前で実演してもらったのだが、神業すぎて少しも参考にならなかった。見た瞬間に、彼の域に達するのは不可能だと絶望したくらいだ。
言動はのんびりしているが、仕事は恐ろしく早い。納期を絶対に落とさない。仕事がどんなに立て込んでも、何だかんだで終わらせてしまう
こんなに仕事のできる人に、自分の専属指導隊員を務めてもらい、嬉しい反面、罪悪感もある。
ちなみにユニヴァースも
師事するコツを尋ねると、遠慮せず逐一聞くべし、と意外とまともな助言をくれた。
「アルシャッド先輩、掃除なら、僕が代わります。今のうちに仮眠を取ってください」
掃除は全隊員による公平な当番制で、今週の当番はアルシャッドだ。
「んー……では、少しだけ横にならせてもらいますね。人がきたら適当に起きますから」
アルシャッドはそう言うと、ふらつきながら内部屋の仮眠室へ消えた。
彼もまた、光希をあまり殿下扱いしない奇特な人柄で、知り合って七日も経てば、光希へのかしこまった遠慮は消えた。嬉しい限りである。
ローゼンアージュと二人、作業台の上に椅子を乗せて床を履き、水拭きしていると、光希の次に出勤の早い少年兵が入ってきた。
「お早うございます、殿下」
「お早うございます、ケイト」
女の子みたいな名前だが、男である。そもそも工房には男しかいない。
外見は天使のような容貌を持つ、ローゼンアージュに少し似ている。少し癖のある灰銀髪で、襟足を短めに整えている。
年はローゼンアージュと同じ十五歳で、背丈も大体同じ。光希が少し見上げるくらいの位置に頭がある。
瞳はかなり珍しい色合いで、外側は茶色の縁なのに、中はオーロラのように、青や紫、銀色の光彩がきらきらと絶えず変わる。
大人しい性格で、およそ戦闘には不向きに見える。最初は光希を前にすると、直立不動の姿勢でしゃちほこばっていたが、最近ようやく慣れてくれたらしい。
「あの、アルシャッド先輩は?」
「徹夜明けみたいで、今仮眠室」
「あ……そうですか。あの、俺も掃除手伝います」
控え目に申し出る少年を見て、光希は破顔した。
+
午前九時。朝時課の鐘が鳴る。
この時間になると、朝の
全員集合して点呼を取り、朝礼を始める。全員で仕事の進捗と、今日一日の作業を確認するのだ。
光希はまだ朝礼で発言することはできない。進捗管理はアルシャッドが行い、彼が光希の分もまとめて報告していた。
「先ず殿下の進捗は、名札につける金古美、銀古美の装飾制作五件ずつ、四日見込み。他、練習を兼ねて、鉄の刀身彫刻を武装親衛隊のユニヴァース・サリヴァン・エルムから受注しました。こちらはじっくり、
私の方は、昨日から飛竜隊第一の受注に着工しています。急ぎ且つ量があるので、他の受注を人に振っているところで……」
アルシャッドの報告を聞いていると、いつも申し訳ない気持ちになる。
彼の仕事は明らかに溢れているのに、実作業を手伝えないことが歯痒い。しかも光希に教える為に、彼の貴重な時間を奪っている。
心の内では、光希を邪魔に感じているのではないか……そう考えて、勝手に落ち込んでしまう。
実際、邪魔ばかりしている。苛立ちを顔に出さない人だから、余計にあれこれ想像して不安になる……
いや、考えても仕方あるまい。
光希が今すべきは、卑屈にならず、素直に真面目に、できることを精一杯やることだ。