アッサラーム夜想曲

第3部:アッサラームの獅子 - 10 -

 昼休み。
 広大な鍛錬場で、騎馬隊の第一から第三までが合同演習をしている。
 その様子を高層の井楼矢倉いろうやぐらから、光希、ユニヴァース、ローゼンアージュの三人で眺めていた。
 最初は光希とローゼンアージュの二人で、騎馬隊第一所属のユニヴァースを見にきたのだが、彼は二人の姿に気付くなり演習を抜け出してしまったのだ。

「判ってはいるんだけど、落ち込む……アルシャッド先輩、昨日徹夜したんだ。僕のせいで、夜にならないと時間が取れないんだと思う」

 前方に眼を向けたまま、光希は鬱々と呟いた。
 今朝は己を鼓舞して作業を開始したが、またしても気分は落ち込んだ。アルシャッドを含む、他の隊員は朝から目の回るような忙しさで、蚊帳の外にいる我が身が情けなくなったのだ。

「元気出してくださいよぉー。俺なら、これ幸いと昼寝しますよ。雑用やらないで済むなんて最高じゃないですか」

「そうかな……僕は、雑用やりたい。皆の役に立ちたい」

「じゃ、俺の依頼した刀身彫刻、凄いのお願いします!」

「うーん、そうだね。本物の刀身に入れるのは初めてなんだ。は何が良いかなぁ……」

 頭を悩ませる光希の隣で、ローゼンアージュは冷ややかな眼差しでユニヴァースを見た。

「ねぇ、演習に戻らなくていいの?」

「戻るかよ、あんな基礎。暑いし、退屈で死ぬぜ。新兵だけでやればいいのによ」

 確かに日射しはきつい。鎧を纏い武器を持って、陣容の鍛錬は苦行であろう。
 倒れて運ばれていく兵士の姿も少なくない。今も運ばれていく兵士を眼で追っていると……運ばれた先で、頭から水を掛けられていた。酷い。

「合同演習でしょ? 皆でやるから意味があるんじゃないの?」

 光希がそう口にすると、ユニヴァースはわざとらしくくずおれた。

「殿下まで……っ、辛い! じゃぁ、ここから殿下が、ユニヴァース頑張れー! って声援をくれるなら戻ります」

「馬鹿じゃないの」

 冷ややかな眼差しと共にローゼンアージュは一刀両断したが、光希はにやりと笑う。

「いいよ、ユニヴァースが本当に戻るなら、ここから力の限り叫ぶよ」

 ユニヴァースは止めようとするローゼンアージュを押しやると、眼を輝かせて光希を見下ろした。

「殿下、本当?」

「そっちこそいいの? 本当に叫ぶよ? 後悔しない?」

「ユニヴァース・サリヴァン・エルム、直ちに任務に戻ります!」

 最敬礼で応えるや、勢いよく井楼矢倉から飛び降りる。下に繋いでいた馬に跨り、颯爽と駆けてゆく。驚くべき迅速さで、ぴたりと配置についてみせた。

「もう戻っちゃった。すごいね、ユニヴァース」

「殿下、まさか……?」

 何事も動じない少年にしては珍しく、緊張した様子で主を見ている。光希が大きく息を吸いこむと、澄んだ青灰色の瞳は驚きに見開かれた。

「ユニヴァース、頑張れーっ!!」

 腹に力を溜めて、光希は全力で叫んだ。
 将兵らは一斉にこちらを見上げる。光希の姿に気付くなり、口々に「殿下?」「殿下だ」「ユニヴァース?」「何でユニヴァースが」と細波さざなみのようにざわめく。
 腕を振りながら、もう一度「頑張ってー!」と叫ぶと「はーい!」とユニヴァースは腕を振り返した。

「あははっ!!」

 光希は爆笑した。周囲の兵士達は「馬鹿、その返事はないだろ」「敬礼だ、馬鹿」「敬礼しろ」「阿呆が」とユニヴァースを罵る。中には頭を叩く者も。

「あいつ……死ねばいいのに」

 ローゼンアージュはぼそりと呟いた。冬の湖水を思わせる双眸で睥睨へいげいする。
 能天気なユニヴァースと冷然としたローゼンアージュの対比が可笑しくて、光希はしばらく笑い転げていた。

 +

 いい気晴らしになったものの……工房に戻ると、たちまち鬱々とした気分に支配された。

「殿下、何かお困りですか?」

 朝から一度も声をかけない光希を気遣い、アルシャッドの方から声をかけてくれる始末だ。

「いえ、順調です」

「柄は決めた?」

「はい、依頼者の名前の頭文字をとって、遊んでみようかなって……これは下描きです」

 この世界の印刷技術は活版印刷が主流で、デジタル印刷なんて存在しない。
 その代わり、文字を美しく見せる手法――カリグラフィーは非常に発達している。製本に限らず、日々の手紙、日用雑貨への彫刻……用途は幅広い。参考書も非常に豊富で簡単に手に入る。
 工房に置いてあるカリグラフィーの参考書を見ていて閃いたのだ。
 名札と一緒につける装飾だから、何か縁起の良いもの、守護をもたらすものが良い。
 神話の生きる世界で、仮にも花嫁ロザインである光希が願い、形にすれば、御利益があるかもしれない。

“どこにいても、無事に帰ってこれますように”

 そんな願いを込めて、それぞれの名前の一文字を柄にすることに決めた。
 名は、それだけで強力なお守りになるものだ。
 アルシャッドはしばらく下描きを眺めると、いいですね、と賞賛を口にした。現金なもので、その一言で光希の凹んだ気持ちはかなり浮上した。