アッサラーム夜想曲

第3部:アッサラームの獅子 - 39 -

 ノーグロッジ作戦まで、あと三日。
 仕上がったサーベルを光希が渡すと、ジュリアスはその場で刀身を抜いた。表に彫った雷光のを指でなぞり、その下の“光希”という文字に眼を留める。

「……僕の名前だよ。“光”の意味はシャイターンの雷光、ジュリを照らす光……二文字だと“希望の光”になる。僕はジャファール達みたいに闘えないけど、心はいつも一緒にいるからね」

 説明しているうちに照れ臭くなり、視線を泳がせた。頬に強い視線を感じるが、気付かないふりをして更に続ける。

「裏には飛竜を彫ってある。守護と破壊を兼ね備えた、表裏一体の剣だよ。絶対にジュリを守ってくれる」

 ジュリアスは刀身に刻まれた、“光希”の文字に唇を押し当てた。黒い鋼から、神々しい青い燐光が溢れ出す。シャイターンの加護が顕現けんげんしたのだ。

「その加護は……ジュリにしか効かないと思う」

「ありがとうございます、光希。嬉しい!」

 ジュリアスは、花が綻ぶような笑みを閃かせた。彼のこんな笑顔を見るのは、本当に久しぶりだ。嬉しくなって、光希は、強請るように両腕を広げた。ジュリアスは刀身を鞘にしまうと、光希を強く抱きしめた。

「わーい」

 つい、弾んだ声が出た。

「私を殺す気ですか……」

「我ながら渾身の出来だよ。もっと褒めて!」

「とても嬉しいです。ありがとう。貴方の才能は、本当に素晴らしいです」

「へへ、頑張ってよかった」

 ジュリアスは光希の頬を両手で挟むと、唇に触れるだけのキスをした。

「世界で一番かわいい。見事な刀身彫刻を……光希の名前を入れてくれて、ありがとうございます」

「……気をつけてね。無事に帰ってきてね」

 軽くいおうとしたが、思いつめた声が出た。

「必ず」

 どちらからともなく顔を寄せて、今度はしっかりと唇を合わせる。吐息の合間に、掠れた声で名を呼ばれた。

「離れていても、他の誰にも……ユニヴァースにも心を許さないで」

「ジュリしか見てないよ……」

 想いを確かめ合うようにキスをしながら、胸に切なさがこみあげた。
 こんなに想い合っているのに、どうして離れなくてはいけないのだろう。いつでも抱きしめてもらえたらいいのに……

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 アルシャッドは、恐ろしく有能であった。
 光希が刀身彫刻に奮闘している間に、折りたたみナイフの試作品を五つも仕上げたのだ。
 しかも、使用目的別に何枚かの異なった形状の刀身をジョイント部に繋ぎ、一本のナイフで幾通りも使用できる、マルチナイフまで編み出していた。
 作戦準備に追われるジュリアスは、作戦の二日前から公宮には戻らず、軍舎の個室で仮眠を取るようになった。
 クロガネ隊も納期が近付くにつれて修羅場と化し、死人が出そうな勢いであったが、先日どうにか納品を終えた。

 作戦前夜。
 緊迫感に包まれた軍部に、終課の鐘が鳴り響く中、光希はジュリアスの姿を探していた。
 滑走場に続く車庫の入り口で、凛々しい後姿を見つけて、歩み寄ろうとしたが――途中で足を止めた。
 ジュリアスは一人ではなかった。ナディアやジャファール、アルスラン達、数人の将と一緒にいる。彼等にかしこまった様子はなく、それぞれ楽な姿勢で談笑している。休憩中なのかもしれない。
 ナディアは微笑を浮かべながら、気安い様子でジュリアスの肩を叩いた。ジュリアスも手の甲で軽くナディアの胸を叩いている。話し声は聞こえないが、打ち解けた関係であると判る。
 声をかけていいものか迷っていると、背を向けているにも関わらず、ジュリはぱっと振り向いた。光希を見て小さく眼を瞠ると、談笑の輪を抜けて、迷わず傍へやってきた。

「すみません。もしかして、待たせてしまいましたか?」

「ううん、忙しいのにごめん。これ、渡したくて……」

 掌サイズの折りたたみナイフを渡すと、ジュリアスは興味深そうに観察した。すぐに用途を閃いたようで、刃の側面を摘まみ、水平に開いてみせた。

「へぇ、折りたためるのか」

「アルシャッド先輩に作ってもらった。良かったら使って」

 ありがたく、と受け取ると、ジュリアスは軍服のポケットにしまった。
 後ろでナディア達が見ていることに気付いて、それじゃあ……と光希が切り出すと、ジュリアスに抱きしめられた。
 周囲の視線は気になったが、抱き寄せられたことの方が嬉しくて、おずおずと光希も背中に腕を回した。

「……後で、見送りにいくから」

 出発は明日の黎明れいめい。数千もの飛竜隊が、バルヘブ中央大陸のノーグロッジ海域に向けて発つのだ。

「疲れているでしょう? 屋敷に戻ってください。見送りなら、ここで」

「いくよ」

 決然と告げると、ジュリアスもそれ以上は反対しなかった。
 抱擁を解く前に、襟を掴んで、唇にかすめるようにキスをする。今度こそ離れようとしたら、ジュリアスの方から頬と唇に素早くキスを贈られた。
 気付けば、皆に見られている。冷やかしの眼差しの中、今度こそ慌てて身体を離した。

 渺茫びょうぼうたる、黎明の空。
 日中の暑気を予感させる乾いた砂漠の風が、未明の冷気を早々に追い払いつつある。
 尖塔の影が落ちる滑走場には、飛竜隊の隊伍たいごが列を成していた。
 部隊ごとに招集がかかると、各々勇ましく立ち上がり、飛竜の待つ滑走場へ向かう。騎乗する前に、上官による最終点呼が行われ、名を呼ばれた兵士達は順番に配置についた。その中にはユニヴァースの姿もある。
 先鋒隊のジュリアスは、一段高い所から指示を出している。惚れ惚れするような凛々しさだ。
 光希はその様子を、少し離れた所から見ていた。
 軽やかに騎乗した雄姿を見つめていると、離れているにも関わらず視線が交差した。弾かれたように手を振ると、ジュリアスも腕を上げて応えてくれた。
 想いが溢れて、視界が潤んだ。
 慌てて眼を瞬いて、空に発つ雄姿を目に焼きつけた。空の彼方に消えゆくまで――

 彼等の壮途そうとの無事をねがう。