アッサラーム夜想曲

第3部:アッサラームの獅子 - 38 -

 個室を出た後は、有無を言わさず公宮へ戻された。
 刀身彫刻が手つかずなので、気力を振り絞って工房へ向かったが――作業台の前に座ったところで、集中力は湧いてこない。
 一途な眼差しでサーベルを見つめながら、思考は彼方にある。
 どうしてユニヴァースはキスをしたのか……煩悶はんもんは尽きない。
 こんな時、日本の刀鍛冶は、滝に打たれてみそぎしたりするのだろうか。中庭に噴水ならあるな……と考えたところで、日中の出来事を思い出してしまい、煩悩は更に膨れ上がった。
 気付けば、机の前で何もせず一刻経っている。
 集中が必要だ。
 深呼吸を一つすると、改めてサーベルに眼を向けた。
 ジュリアスのサーベルは直剣ではなく、切先に向かって緩やかに湾曲している。
 非常に綺麗な刀身だ。実戦であれだけ使っているのに、神力のおかげなのか、刃切れ一つない。
 幅広で刀身に厚みがある割に、目方を減らす刀樋かたなひが彫られていない。
 くろがねは重量のあるはがねなのに、これでは腕にかかる負担が大きいだろう。しかし、ジュリアスはこれを片手でも難なく操るのだ。
 これだけ刀身がしっかりしていれば、両面に彫りを入れても強度を損なわないだろう。
 表に樋を入れて軽量化してみようか? 樋を掻いた経験がないので、少々心配ではあるが……
 裏には装飾彫を入れたい。シャイターンの柄は絶対に彫るとして、光希の名前を入れたら怒られるだろうか?
 明日、アルシャッドに相談してみよう……

「……光希?」

 ふと、優しく肩を揺すられて眼を開いた。

「……あれ、ジュリ?」

「刃を向けたまま寝たりして。危ないですよ」

「本当だ……」

 うたた寝していたらしい。ジュリアスは剣を鞘にしまうと、船を漕いでいる光希の頭を押さえて、頭にキスを落とした。

「疲れたでしょう。もう休んだら?」

「そうする……」

 ふらふら立ち上がると、ひょいと片腕で持ち上げられた。寝台まで歩くのも億劫で、されるがまま大人しく運ばれる。
 気付けば寝台の上だった。運ばれる僅かな間すら、眠りに落ちていたらしい。額に柔らかな温もりを捉えると共に、意識は途切れた。

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 翌朝。ジュリアスの声で目を覚ました。
 身支度を終えたジュリアスは、凛とした姿勢で寝室に入ってくる。光希も、お早う、といいながら、起き……上がれなかった。

「ぐぁ――っ」

 カエルが潰れたような声が出た。

「どうしたの?」

「全身筋肉痛っ」

 顔をしかめる光希を見て、ジュリアスは笑った。昨日の険はない。穏やかな笑みを見て、光希は密かに胸を撫で下ろした。
 馬車で軍部に向かう間も会話は弾み、別れ際には例のキスも交わした。
 工房に入ると、徹夜明けで少々ぐったりしているアルシャッドを見つけた。

「先輩、お早うございます。質問いいですか?」

「お早うございます。いいですよ」

 昨夜引いた図案を、彼の前に広げた。

「ジュリの刀身彫刻を考えていて……幅も厚みもあるから、表に樋を入れて軽量化したいんですけど、歪みなく掻けるか心配で……」

 アルシャッドは光希の手元を覗きこむと、そうですねぇ、と難を示した。

「意外と棒樋ぼうひは難しいですよ。一見単純な図柄ですが、その分少しの歪みが目立ちます。あまり重量を減らしても振りに響きますし、中央だけに入れるか、下半分に入れてみてはいかがですか?」

「確かに……軽くし過ぎても良くないのかなぁ。それなら、こんな形でも大丈夫ですか?」

 今度は縦に走る雷の図案を見せた。ジュリアスの神力を意識した意匠だ。

「なるほど、雷光ですね。いいと思いますよ……この下の柄はどういうものですか?」

 アルシャッドは、日本語で書かれた“光希”という文字を指差した。

「それは、僕の名前で、生まれた国の文字です。“光”はシャイターンの雷光、ジュリを照らす光、安らぎの光を表しています。名前を彫ることで、離れていても一緒にいるって思って欲しくて……」

 照れ臭くなり、視線を泳がせる光希を見て、アルシャッドはほほえんだ。

「何よりも得難い力となるでしょう。書体も美しい。柄としても映えますね」

 異国の言葉でも、彫って大丈夫なようだ。アルシャッドから太鼓判をもらって、光希は破顔した。
 表には雷光の樋と“光希”の二文字、裏はアッサラームとシャイターンを象徴する飛竜を彫る。守護と破壊――表裏一体の柄だ。

「先輩、ありがとうございます」

「いえいえ。シャイターンの依頼なら、そちらを優先しても構いませんよ?」

「屋敷にも工房はあるから平気です。ここにいる間は、僕も皆と一緒に研磨頑張ります」

 光希はほほえむと、そうそう、と思い出したように別の図案を広げた。

「閃いたんですけど……皆が携帯しているナイフは、ハンドルと刀身を折りたためないから、絶対に革鞘が必要じゃないですか。日常用の携帯ナイフなら、もっと小さくていいと思うんです」

「ふむ……」

「こんな風にジョイント部を作って折りたたむか、もしくはハンドルを開閉式にすれば、便利に携帯できると思うんです。開閉式の方は、蝶が羽ばたくような動きから、僕の生まれた国では“バタフライナイフ”って呼ばれて流行したこともあるんですよ」

「へぇ、なるほど」

 アルシャッドは眼を輝かせて図面を見つめた。いつの間にかローゼンアージュも後ろから覗きこんでいる。

「折りたたみ式の方は、どうやって刀身を固定するんですか?」

 ローゼンアージュの質問に、ハンドルの中で美味いことできないかな? と光希は頭を掻いた。するとアルシャッドは筆を取り、さらさらと図面に描き加えた。

「中にバネの細工をすればいいですよ。刀身のジョイント部をフック状にしておいて、水平に開いた時に中でかみ込ませる。単純な仕掛けで、しっかり固定できます。解除はバネの後部を押せるようにして……」

「おぉっ」

 流石である。つたない完成図から設計を閃くとは……天才過ぎる。

「開閉式の方は、美しい形状ですが、構造上刃が細くなりますね。実用には向かないかもしれません。折たたみ式の方は、ジョイント部と固定構造を精密に仕上げれば、一体型のナイフとほぼ同等の威力を出せそうですよ。試しに作ってみましょうか」

「「おぉっ!!」」

 光希とアージュは揃って声を上げたのだった。