アッサラーム夜想曲

第3部:アッサラームの獅子 - 34 -

 翌朝。蒼穹の彼方に、朝時課を告げる鐘が鳴り響いた。
 広い鍛錬場には歩兵隊第一、総勢千名を越える兵士達が集まっている。
 第一所属のローゼンアージュは、今日は光希の補佐役として、共に隊列の一番後ろに並んだ。

「総員、待機!」

 いかにも屈強そうな兵士、訓練下士官である軍曹が現れて、拡声器もなしに号令を張り上げた。
 兵士達は一様に寸分違わず同じ姿勢を取る。足を肩幅に開き、両手を背中に回して腰辺りに下ろす。基本姿勢の一つだ。

「訓練内容を説明する。八人小隊を組み、腕立て伏せ、腹筋、背筋、各百回、二十分以内の鍛錬場外周の持久走、これを三回。鉄板装甲を背負って匍匐前進ほふくぜんしん競争。昼休の鐘と共に、休憩一刻。終わらない場合は――」

 尋常じゃない訓練内容だ……覚えきれないほど長い。

「オォッ!」

 腹の底から張り上げた咆哮が天を突く。
 光希は一人で青褪めた。ローゼンアージュと二人組で参加させてもらえることがせめてもの救いである。八人小隊に組み込まれたら、間違いなく足を引っ張ってしまう。

「只今より訓練を開始する! 総員、装備確認! 襟、前、袖、腰、足、靴!」

 号令に合わせて装備を確認する。ローゼンアージュを盗み見ながら、光希はパシパシと腕や腰を叩いた。
 ここへくる前に、ルスタムに装備を一通り確認してもらったので不足はないはずだ。ちなみに一般支給されるダガーの代わりに、刃を潰した子供用のダガーを渡されている。

「総員、整列! 小隊ごとにかけ声!」

 軍曹の号令と共に、各小隊はその場で二人組を作り、基礎訓練を開始した。

「殿下、僕達も始めましょう」

「うん」

 光希は周囲の兵士達と同じように、腕立て伏せを開始した。
 腕立て伏せなんて、いつぶりだろう……懐かしく思う余裕は、最初の十回で消えた。二十回こなしたところで大地に撃沈する。

「はぁ、はぁ、はぁ……」

 どうにか五十回を終える頃、ローゼンアージュは既に腕立ても腹筋も終えていた。周囲の小隊も持久走を始めている。
 運動は昔から苦手だ。特に持久走や水泳は大嫌いだ。運動が苦手なことで責められた経験は殆どないが、びりっけつでゴールする時にもらう、生暖かい視線や拍手は苦手だった。
 居心地の悪いことに、ここでは埋没する高校生ではなく、シャイターンの花嫁ロザインだ。おかげで、そこら中から視線を感じる。

「休みますか?」

 気遣わしげな声に我に返った。

「平気……続けるね」

 ひぃひぃいいながら、どうにか腹筋と背筋を百回ずつこなした。
 詰襟が暑苦しい。
 しなやかで風通しの良い素材だが、襟と袖だけは芯が入っていて固定されている。指導対象だと知っていても、襟元を寛げずにはいられない。情けなく大の字に寝転がりながら、破れそうな肺で必死に酸素を吸う。

「お疲れ様です」

 そういって、ローゼンアージュは水筒の冷水を手ぬぐいにかけると、ざっくり絞って光希の額に乗せてくれた。すごく気持ちいい。お礼を口にする気力も無く、逆光でよく見えない少年の顔を、眼を細めて見上げる。
 バサッ!
 唐突に、ローゼンアージュは日傘を広げた。どこから取り出したのか、扇で風まで送ってくれる。
 そよ風が心地いい……
 こうして寝そべっている間にも、大勢の足踏みする地響きが鼓膜に伝わってくる。消化の早い小隊は、既に二周目に入っているようだ。

「僕も、走らないと……」

 ようやく呼吸も落ち着いて、よろよろと立ち上がった。冷水をもう一杯もらうと、一息ついて広大な鍛錬場を見渡した。
 この外周を二十分で走れるとは思えないが、せめて完走したい。
 駆け足を刻むとローゼンアージュも横に並んだ。走りながら器用に、水筒や日傘を背負っている革袋に閉まっている……四次元ポケットのようだ。

「ありがと、アージュ」

「いいえ」

 少年は涼しい顔で首を振って応える。
 外周は恐ろしく長距離であった。
 休み休みで、どうにか完走を終えたのは、昼休の鐘が鳴って少し経ってからだ。
 この過酷な訓練を日課でこなす彼等は本当にすごいと思う。
 朝の鍛錬を終えた光希に、労いの声や拍手が四方から贈られた。歩兵隊第一の兵士達以外にも、大勢集まっているようだ。
 控えめに腕を挙げて応えると、わっと歓声があがった。
 声援は苦手なのだが……彼等との実力差が開き過ぎているせいか、劣等感はなく、単純に嬉しかった。
 噴水の傍で兵士達は、袖や裾を捲って涼んでいる。
 光希もふらふらと誘われるように足を向けた。歩きながら上着を脱いで適当に放ると、シャツをズボンから引き抜き、袖を捲りあげて噴水に飛びこんだ。

「殿下っ!」

 珍しくアージュは慌てたように声を上げる。周囲の兵士も一斉にどよめく。光希の周りだけ、避けたように丸い空間が生まれた。