アッサラーム夜想曲

第3部:アッサラームの獅子 - 33 -

 昼食後。
 ローゼンアージュと別れた光希は、ルスタムと共に工房へ戻った。
 ひたすらくろがねを研磨する作業の再開である。数をこなすうちに手慣れてきたが、かわりに腕と手が痺れて、効率はあまり上がらない。
 手をぶらぶらさせていると、部屋の隅に控えるルスタムが傍に寄ってきた。

「いかがされました?」

「手が痺れちゃって」

 気遣わしげな眼差しに見下ろされる。一緒に作業をしているケイトも、心配そうにこちらを見ている。

「ケイトは平気?」

「俺は慣れてますから……最初はきついですよね」

「なんかさー、右手が痺れちゃって……ほら見て見て」

 何も持っていないのに、右手はぷるぷると震えている。光希は笑ったが、ルスタムとケイトは増々心配そうな顔になった。

「殿下、休憩なさってください」

「そうですね。暖かい湯をお持ちいたしましょうか」

 二人の様子に光希は慌てた。他の隊員は誰も休憩をしていないのに、一人で休むわけにはいかない。

「平気です。夜休の鐘が鳴ったら少し休むから、それまでは頑張ります」

 やる気を見せる光希に、二人は心配そうにしつつ、引き下がった。
 それにしても、同じ作業をしているケイトや、他の隊員はどうして平気なのだろう?
 視線を感じたのか、ケイトは顔をあげると光希を見て首を傾げた。つられて光希も首を傾げると、傍で見ていたルスタムはくすりと笑みをこぼした。
 ケイトと二人で見上げると、失礼しました、とルスタムは笑みを消して部屋の隅へ戻ってしまう……そこは、一緒に首を傾げて欲しかった。
 手を休めつつ、研磨作業を続けるうちに日は暮れた。
 夜休の鐘が鳴り響くと、ほどなくして、先着百名限定で受注したチャームの依頼者達が続々と工房を訪ねてきた。

「殿下、ご機嫌いかがですか?」
「アルシャッド殿から、チャームができたと聞きまして……」
「こんにちは。チャームの受け取りにきたのですが」

 工房はにわかに騒がしくなる。ルスタムはさり気なく光希の傍へ寄り、ケイトは普段の内気さが嘘のように、手際よく列整備を始めた。

「ネームプレートを手に持った状態で、二列でお並び下さい。順番にお渡しします。最後尾はあちらになります」

 何かのイベントのようだ。様子を見にきたアルシャッドもケイトと一緒に列整備を買って出てくれる。他の隊員も休憩がてら手伝ってくれた。
 効率を上げようと、光希に代わり手渡そうとする工房の隊員に、受け取り側から文句が飛んだ。

「何してくれるんだ!」
「殿下に手渡されたいんだー!」
「そうだそうだー!」

 傍で見ていたサイードは、子供か? と呆れたように嘆息しているが、光希は嬉しかった。感謝の言葉と共に、満面の笑みで受け取ってくれるのだから。作って良かった、と心から思える瞬間である。

「大人気でしたね。飛竜隊の納品目途が立ったら、受注を再開しましょうか」

 全員に渡し終えた後、アルシャッドは提案した。光希は笑顔で頷くと、気分よく作業を開始した。
 終課の鐘が鳴っても、工房の隊員は誰一人帰らない。
 十日後のノーグロッジ作戦に合わせて、準備期間も含め、実際はあと八日で飛竜隊に装具一式を納品しなければならないのだ。アルシャッドは今夜も工房に泊るという。
 光希も頑張って作業を続けていたが、ルスタムから作業を切り上げるよう声をかけられた。様子を見にきたアルシャッドにも、

「もうお帰りください。明日は訓練に参加されるのですよね? ゆっくりお身体を休めてください」

 帰宅を促された。皆と一緒に頑張りたいが、明日を考えれば、今日はゆっくり休んだ方がいいだろう。

「……すみません、それではお先に失礼します。明日の日中は訓練ですが、夜は工房にきますから」

「班長から、明日は一日工房を休んでいいと許可をいただいています。無理しないで、遠慮なくお休みください」

 親切なアルシャッドの言葉を受け取り、後ろ髪を引かれつつ工房を後にした。
 屋敷に戻り、入浴を終えて団欒していても、ジュリアスはなかなか戻ってこない。最近は、零時を過ぎないと帰らないので、今夜も遅いのだろう。
 少しだけ休むつもりで寝台に横になると、疲労のせいか深い眠りに落ちてしまった。
 衣擦れの音に、ぼんやり目を醒ます。

「……ジュリ?」

「ただいま、光希」

「お帰り。今日さ……ノーグロッジ作戦について聞いたんだけど、難易度の高い、危険な任務なんだって? ジュリの話と違うんだけど」

 寝そべり、肘をついて顔を支えると、ジュリアスは光希をじっと見つめた。

「そうですか? でも偵察だけですよ。片道十二日間程度の飛行経路ですし、危ないというほどでも……」

 端正な顔を見て、思う。
 彼にとっては、本当に大したことではないのかもしれない。何でもできる人だから、難易度や危機感の捉え方も人と違うのだろう。流石だなと思う反面、心配にもなる。

「その作戦、いつも通りの装備でいくの?」

「装備? 飛竜の騎乗装具なら、今クロガネ隊に発注している通りですよ」

「それは知ってる。ジュリの装備は? サーベルは帯剣する?」

「もちろん」

 不思議そうにしているジュリアスを見て、光希は口を噤んだ。サーベルを持っていくなら、やらせて欲しいことがあった。

「あのさ……刀身に彫刻を入れさせてもらえないかな?」

 ジュリアスは虚を突かれたように眼をしばたいた。すぐに枕元に置いたサーベルを手に取ると、お願いします、と光希に鞘ごと渡した。
 光希も上体を起こして、両手で受け取る。ずしりとした重みが腕に伝わってきた。

「七日もらっても平気?」

「はい」

 ジュリアスは嬉しそうにほほえむと、光希の頬にキスをした。サーベルを胸に抱きしめ、光希はシャイターンの加護を彫ることを約束した。
 制作時間にあまり余裕はないが、屋敷に工房もあるし何とかなるはずだ。少しでもジュリアスの役に立ちたかった。