アッサラーム夜想曲
第3部:アッサラームの獅子 - 35 -
何をそんなに驚いているのだろう……?
少し不安になり、周囲の兵士に眼を合わせると、すごい勢いで視線を逸らされた。
なぜ? 軽くショックを受けていると、駆け寄ってきたローゼンアージュは素早く自分の上着を脱ぎ、光希の肩にかけた。
「こちらへっ!!」
「濡れちゃうよ!?」
ぐいぐいと腕を引っ張られ、引きずられるように噴水から抜け出した。
「駄目なの? でも皆、水浴びしてたから……」
「……濡れて、肌が透けています」
いつもは冷静な少年が、目元をほんのり赤く染めて、明後日の方向を見ながら小声でいった。
「いいでしょ? 別に……」
「え、ですが、殿下は花嫁 ですし」
「そうだけど、男だし。別に照れなくても……」
ローゼンアージュはそう思えないらしく、困ったように顔を伏せた。こんなに動揺している姿は初めて見るかもしれない。物珍しく見つめていると、
「でも……何だか、見てはいけないものを見ているようで……きっとシャイターンもお怒りになると思います」
そう小声で続けた。
どういう意味だろう……見たくないということ? それとも、ジュリアスが怒るということは、慎みや貞操の問題だろうか。
「でも、汗掻いたし水浴びしたい。固いことをいわないでよ。今更じゃない? 地面にも寝そべったし、もう十分、醜態を晒 してるんだしさ」
「では、シャイターンの個室をお借りしますか? 専用の浴室がありますよ」
「そんな暇はないでしょ。いいよもう、昼食にしよう」
これだけ陽が照っていれば、じきに乾くだろう。濡れた上着を木の枝に引っかけると、渋々自分の上着を羽織り、食堂へ向かった。
さんざん動いた後なのに、不思議と食欲はあまりない。大して食べられず、死んだ魚のような眼差しで鍛錬場に向かう光希を、ローゼンアージュは気遣わしげに見つめた。
「ご無理をされなくても……」
「いや、頑張る……ジュリと約束したんだ。一日耐えられたら、ユニヴァースの面会を検討してくれるって。少しずつでも鍛えていきたいし」
会話の最中、ローゼンアージュはあらぬ方向を睨 め付けると、袖に仕込んだダガーを目にも留まらぬ速さで擲 った。梢を掠めて木の葉が舞い散る。
「何してるのっ!?」
「いえ、ちょっと…………害虫が」
「害虫!?」
「ええ、ちょっと。しぶとくて」
忌々しげに舌打ちする。
物騒な子だ。ここから仕留める必要のある害虫とは、一体……怖くて訊けない。
幸い、ダガーの飛んでいった方向に人影は見えない。光希は胸を撫で下ろしながら、危ないでしょう? と、至極まっとうな注意をした。
+
訓練後半、ダガーを用いた戦闘訓練を教わった。
アージュは光希にも判り易く、刃の躱し方、逃げ方を教えてくれた。先日のサンマール広場で起きた襲撃を彷彿させる実戦的な内容で、光希は疲れた身体に鞭打って必死に学んだ。
限界を越えて挑んでしまい、立ち止まった瞬間に何度か眩暈を覚えた。
光希に限らず、ちらほら隅でうずくまる姿を見かける。訓練に不慣れな新兵だ。中には成人したばかりの、十三歳の子供もいる。
しばらく休んだ後、鍛錬場の外周をゆっくり走ることにした。
体重程もある装甲を背負っての持久走は、とてもできそうにない。のろのろ走るだけで精一杯だ。
夜休の鐘が、天上の響きのように聞こえた。
汗だくだ。じっとしているだけで、全身から汗が噴き出す。今すぐプールに飛び込みたい。
ふらふらと噴水に近付く光希を見て、ローゼンアージュは慌てた。
「お待ち下さい、殿下。すぐにシャイターンの浴室を準備いたしますから」
光希は返事をする気になれなかった。
今この瞬間、恥も外聞もどうでも良かった。服を脱いで涼みたい――単純な欲求に、爪先から頭のてっぺんまで支配されている。
無言にこめられた光希の本気を見てとり、ローゼンアージュは顔色を変えた。
「このまま、歩いて個室までいらしてください。すぐに使用許可をいただいてきますから」
いうが早いか、疾風のように駆けていく。
光希は仕方なく佐官達の軍舎に向かおうとしたが、訓練を終えた兵士達の、水場にいこう、という声を聞いて、反射的に進路を変えた。
ジュリアスの個室よりも、共用の大浴場の方が近いし広い。一秒でも待たされたくなかった。
しかし――
大浴場に入り、景気よく服を脱いだところで少々後悔した。
光希に気付いた兵士達は慌てふためいて、道を空けたり、前屈みになって急所を隠したり……乙女のようにもじもじしている。
体格のいい褐色肌の男達に混じると、筋肉のない白い身体は浮いて見えた。十三の子供にすら、体格で負けている気がする。
まぁ、今更だ。もう全裸になってしまった。えいやぁ、で浴場に入り、頭から水を被った。共用の大浴場では水しか出ないが、訓練を終えた熱い身体にはちょうどいい。
一息つくと、周囲のざわめきが耳に届いた。
殿下、白い、姫……といった単語が断片的に聞こえてくる。目が合うと慌てて視線を逸らされるが、俯いた途端に突き刺さるような視線を感じる。
居心地が悪い。さっさと上がってしまおうか?
迷っていると、ス……と冷気が浴室を満たした。汗の滲む肌に震えが走り、違う意味で汗が噴き出た。
「全員、眼を閉じて後ろを向け!」
凍てつくような、ジュリアスの怒声が浴室に響いた。
全員、しゃんと背筋を伸ばして背中を向ける。光希も反射的に眼を瞑った。空気は張り詰め、戦場のような緊張感が満ちる。
静まり返った浴室に、駆け寄る軍靴 の音が響く。次いで乱暴に硬い布で身体を覆われた。
「――っ!?」
驚いて眼を開けると、ジュリアスの上着を乱暴に被せられ、痛いくらいの力で抱き寄せられた。
言葉をかける間もなく、その場から連れ出された。
少し不安になり、周囲の兵士に眼を合わせると、すごい勢いで視線を逸らされた。
なぜ? 軽くショックを受けていると、駆け寄ってきたローゼンアージュは素早く自分の上着を脱ぎ、光希の肩にかけた。
「こちらへっ!!」
「濡れちゃうよ!?」
ぐいぐいと腕を引っ張られ、引きずられるように噴水から抜け出した。
「駄目なの? でも皆、水浴びしてたから……」
「……濡れて、肌が透けています」
いつもは冷静な少年が、目元をほんのり赤く染めて、明後日の方向を見ながら小声でいった。
「いいでしょ? 別に……」
「え、ですが、殿下は
「そうだけど、男だし。別に照れなくても……」
ローゼンアージュはそう思えないらしく、困ったように顔を伏せた。こんなに動揺している姿は初めて見るかもしれない。物珍しく見つめていると、
「でも……何だか、見てはいけないものを見ているようで……きっとシャイターンもお怒りになると思います」
そう小声で続けた。
どういう意味だろう……見たくないということ? それとも、ジュリアスが怒るということは、慎みや貞操の問題だろうか。
「でも、汗掻いたし水浴びしたい。固いことをいわないでよ。今更じゃない? 地面にも寝そべったし、もう十分、醜態を
「では、シャイターンの個室をお借りしますか? 専用の浴室がありますよ」
「そんな暇はないでしょ。いいよもう、昼食にしよう」
これだけ陽が照っていれば、じきに乾くだろう。濡れた上着を木の枝に引っかけると、渋々自分の上着を羽織り、食堂へ向かった。
さんざん動いた後なのに、不思議と食欲はあまりない。大して食べられず、死んだ魚のような眼差しで鍛錬場に向かう光希を、ローゼンアージュは気遣わしげに見つめた。
「ご無理をされなくても……」
「いや、頑張る……ジュリと約束したんだ。一日耐えられたら、ユニヴァースの面会を検討してくれるって。少しずつでも鍛えていきたいし」
会話の最中、ローゼンアージュはあらぬ方向を
「何してるのっ!?」
「いえ、ちょっと…………害虫が」
「害虫!?」
「ええ、ちょっと。しぶとくて」
忌々しげに舌打ちする。
物騒な子だ。ここから仕留める必要のある害虫とは、一体……怖くて訊けない。
幸い、ダガーの飛んでいった方向に人影は見えない。光希は胸を撫で下ろしながら、危ないでしょう? と、至極まっとうな注意をした。
+
訓練後半、ダガーを用いた戦闘訓練を教わった。
アージュは光希にも判り易く、刃の躱し方、逃げ方を教えてくれた。先日のサンマール広場で起きた襲撃を彷彿させる実戦的な内容で、光希は疲れた身体に鞭打って必死に学んだ。
限界を越えて挑んでしまい、立ち止まった瞬間に何度か眩暈を覚えた。
光希に限らず、ちらほら隅でうずくまる姿を見かける。訓練に不慣れな新兵だ。中には成人したばかりの、十三歳の子供もいる。
しばらく休んだ後、鍛錬場の外周をゆっくり走ることにした。
体重程もある装甲を背負っての持久走は、とてもできそうにない。のろのろ走るだけで精一杯だ。
夜休の鐘が、天上の響きのように聞こえた。
汗だくだ。じっとしているだけで、全身から汗が噴き出す。今すぐプールに飛び込みたい。
ふらふらと噴水に近付く光希を見て、ローゼンアージュは慌てた。
「お待ち下さい、殿下。すぐにシャイターンの浴室を準備いたしますから」
光希は返事をする気になれなかった。
今この瞬間、恥も外聞もどうでも良かった。服を脱いで涼みたい――単純な欲求に、爪先から頭のてっぺんまで支配されている。
無言にこめられた光希の本気を見てとり、ローゼンアージュは顔色を変えた。
「このまま、歩いて個室までいらしてください。すぐに使用許可をいただいてきますから」
いうが早いか、疾風のように駆けていく。
光希は仕方なく佐官達の軍舎に向かおうとしたが、訓練を終えた兵士達の、水場にいこう、という声を聞いて、反射的に進路を変えた。
ジュリアスの個室よりも、共用の大浴場の方が近いし広い。一秒でも待たされたくなかった。
しかし――
大浴場に入り、景気よく服を脱いだところで少々後悔した。
光希に気付いた兵士達は慌てふためいて、道を空けたり、前屈みになって急所を隠したり……乙女のようにもじもじしている。
体格のいい褐色肌の男達に混じると、筋肉のない白い身体は浮いて見えた。十三の子供にすら、体格で負けている気がする。
まぁ、今更だ。もう全裸になってしまった。えいやぁ、で浴場に入り、頭から水を被った。共用の大浴場では水しか出ないが、訓練を終えた熱い身体にはちょうどいい。
一息つくと、周囲のざわめきが耳に届いた。
殿下、白い、姫……といった単語が断片的に聞こえてくる。目が合うと慌てて視線を逸らされるが、俯いた途端に突き刺さるような視線を感じる。
居心地が悪い。さっさと上がってしまおうか?
迷っていると、ス……と冷気が浴室を満たした。汗の滲む肌に震えが走り、違う意味で汗が噴き出た。
「全員、眼を閉じて後ろを向け!」
凍てつくような、ジュリアスの怒声が浴室に響いた。
全員、しゃんと背筋を伸ばして背中を向ける。光希も反射的に眼を瞑った。空気は張り詰め、戦場のような緊張感が満ちる。
静まり返った浴室に、駆け寄る
「――っ!?」
驚いて眼を開けると、ジュリアスの上着を乱暴に被せられ、痛いくらいの力で抱き寄せられた。
言葉をかける間もなく、その場から連れ出された。